すんけい ぶろぐ

雑感や書評など

村上龍「半島を出よ (下)」

2005-05-24 08:40:52 | 書評
ん?


「半島を出よ (下)」を読了。

上巻で「ん?」という感想だったのですが、それは最後まで変わりませんでした。
さすがに、高麗遠征軍とイシハラグループが直接戦う場面は面白く読めたのですが、それ以外の箇所は、「冗長だなぁ...」といった感じ。村上龍としては、渾身の作品だからディティールに気を使い、より重厚で精緻にしようと仕掛けたのでしょう。が、僕にはスピードが失われた印象が残りました。

もうちょっとサクサクと読めれば、この極端な設定も、他の作品と同様に「大人のおとぎ話」として受け入れることができたんじゃないかなぁ~? というのが個人的な感想。

もっともアマゾンを見ますと、おおむね好評のようです。みなさんは、作品の設定は気にならなかったようです。


作品の主題(というか村上龍の主張)である、「自立せよ」ということは、もちろん、僕にも受け入れられます。そこから、あらゆる面でアメリカに依存している日本という国の現状を不甲斐なく感じるのは、僕も同じです。

だからと言って、高麗遠征軍(北朝鮮兵士)やイシハラグループ(猟奇犯罪者グループ)に共感はできないなぁ。

まぁ、村上龍も、高麗遠征軍やイシハラグループに共感しているのでは、ないのでしょうけど。


ようは、作品の中に、アメリカに見捨てられていながら、なおかつ「戦う」人間が欲しかったのでしょう。

物語では、北朝鮮とアメリカには融和ムードが漂っています。金正日が中国に亡命し、半島の統一が実現されるとまでささやかれるような状況です。それで、軍内部の反米強硬派が邪魔です。その解決策として、その反米強硬派を日本に追っ払ってしまおうということになったのです。
つまりは、福岡を占拠した高麗遠征軍というのは世界の情勢に迎合できない異物であり、反米独立の象徴となっているわけです。

一方、イシハラグループ。彼らの属する日本社会は、物語では経済力が凋落し、アメリカに軽視され、国際社会でも孤立しています。そんなアメリカや世界から見捨てられた日本からも、さらに見捨てられた存在としてイシハラグループのメンバーはいます。彼らも日本社会の異物です。(が、反米の象徴とまでは、いきません)

互いの似通った境遇からか、イシハラグループでは、高麗遠征軍に対して親近感を持ちます。
しかし、共同戦線をはるようなことはなく、最終的には両者は対峙して、戦うことになります。

なぜか?

物語ですから、戦ってもらわないと盛り上がらない…………という事情は、さて置き。

両者が世界の異物でありながらも、そのグループの性格が異なっているからです。それは、どちらの集団の中にもいる詩人のキャラクターが、そのまま反映されています。

高麗遠征軍の詩人チョ・スリョンは、自分の詩に対して、こんな考えを持っています。
憤死した父親の声が心によみがえった。蔵書を焼きながら語られた父親の言葉だ。いいか、スリョン、読む人の側に立った詩を書くんだよ。チョ・スリョンは、わかりました、と呟いた。やっと父親が言った意味がわかった。生き延びろ。父親はそう言いたかったのだ。読む人間がお前の詩をどう解釈するか、徹底的に考え抜かなければならない。そして権力を出し抜いて、生き延びろ。父親はそう教えたのだ。
村上龍「半島を出よ (下)」159頁 幻冬社
彼にとっての詩とは、権力者に迎合するための手段に過ぎません。
また、チョ・スリョンは、権力者の権力者たる所以である、「統治」や「政治」について、以下のように述べています。
統治や政治というものは、力の弱い少数者を犠牲にする装置を最初から内包しているのだ。
村上龍「半島を出よ (下)」174頁 幻冬社
つまりは、チョ・スリョンの「詩」は少数に転落すること防ぎ、自分が大多数に属するための方法になっています。そこには、最初から「自立」は欠けています。

彼らは、アメリカ(=多数者)に見捨てられた少数者ではありますが、その有り様には、多数者への志向が内在しているのです。


それに対して、イシハラグループ。
彼らのリーダー(?)であるイシハラも詩人です。彼は、わざわざ日本中で持て余した少年を集めて暮らしている人間です。異物(少数者)を積極的に取り入れている人間です。それは、イシハラがアルコールを好んでいる(好んでいるどころか、最後にはアル中のようになっていますけど)ことからも分かります。

彼らにとってアルコールとは、異物です。
何か異物がからだに入ってくる感じがする。喉が熱くなったり、苦かったり、舌が痺れたりする。生まれてからこれまで異物はいつも警戒すべきものだった。痛みや傷や略奪や喪失を伴っていた。あとで異物が良いものに変わったことなんか一度もなかった。
村上龍「半島を出よ (下)」49頁 幻冬社
これは、イシハラグループのメンバーであるモリの、アルコールに対する感想です。
イシハラ以外の人間は、アルコール(異物)を飲みません。イシハラだけが、アルコール(異物)を飲めるのです。

このことで、彼らのグループは日本中の異物の集まりでありながら、決して馴れ合いの集団にはならず、個々人が独立しているという特異な色が見えてきます。彼らの紐帯は「イシハラ」だけですから、異物を排除するとか受け入れるとか迎合するとか、そういう発想は生まれません。


そして、高麗遠征軍も、かつては金正日をリーダーとした、他人との連帯を持たない集団でした。ドームを占拠した隊員たちは、最初、世間話すらできませんでした。

しかし、日本に渡ってからは、徐々に彼らは変質していきます。その一つに、全員が酒を飲み始めます。
おそらくは、北朝鮮にいた当時は酒は飲めなかったか、あまり機会はなかったと思われます。ですが、日本という物質的に恵まれた環境に置かれたことで、彼らは酒を飲めるようになります。それは異物であるものを飲み込み始めたということではありません。
酒は人を解放するとよく言われる。だがここにいる連中は解放などされたくないと思っている。自分を解放すると何をするかわからないから恐いのだ。酒は親しい雰囲気の中で飲まれることが多いが、親しい雰囲気というのは危険に充ちている。その場に蔓延した親しみに敬意を払わなければいけないし、同調することも必要だ。同調を示さないと罰を受ける。親しさが蔓延する場所では、単に一人でじっと考えごとをしているだけで、どうしたんだ? つまらないのか、と責められて、そのあとあいつは暗いやつだと攻撃の対象になる。酒を飲む場所では、誰かが冗談を言ったときはそれがどんなにつまらなくても笑わなければいけない。
村上龍「半島を出よ (下)」49~50頁 幻冬社
先ほど引用したモリのアルコールに対する感想の続きです。これは、彼らを排除した日本社会という集団の性格そのままです。
集団の全員がアルコールを好むというのは、高麗遠征軍も日本という環境に毒され、強制的な親しさという仮面によってスケープゴートを用意し、異物を排除するという方向へ徐々に向かっていることを暗示しています。

それは、兵たちに時計を支給することで、いざこざが生じたことからも分かります。彼らには、もともと個人所有の意識は希薄でした。それは当たり前で、彼らは共産主義社会の人間だったからです。しかし、時計を個々人に配るということが、資本主義社会への扉を開きます。財産の所有という罠に彼らはまんまとはまり、ものの見事に資本主義社会的な事件を起こします。

当初は日本にとって異質な存在であったはずの高麗遠征軍が、権力をそのままに日本化し始めています。


イシハラグループの人間は、所詮は一人です。日本社会で育ったにも関わらず、所有という概念を理解すらできていません。
トヨハラは、双眼鏡で橋の向こう側を見ている。がっちりしたからだつきで手足が短くしかもスキンヘッドなので、双眼鏡が似合わなかった。顔の中心から双眼鏡が生えているようだった。モリは、ドイツ製たというその双眼鏡を覗いてみたかったが、どうすればいいのかわからなかった。モリは、道具を仲良く一緒に共同で使うという体験がなかった。兄と玩具や教材を共有したこともない。モリが中学生のころ、自殺しそこなった兄が両親を包丁で刺し殺すという事件が起こり、モリも兄から刺されて重傷を負い、その後身寄りのない子どものための施設に入ったが、そこでも玩具や教材を仲良く一緒に使ったことはなかった。力の強い子どもと、看護師に好かれている子どもが玩具や教材を常に独占した。
村上龍「半島を出よ (下)」12~13頁 幻冬社
これでは、イシハラグループと相容れるはずはありません。

そんなわけで、両者は、戦わざる得なかったわけです。


村上龍の言わんと欲するところは分からんでもないのですが…………。
どうも、今回はついてけなかったなぁ。

てな感じです。
いろいろ文句もつけましたが、従来の村上龍のファンなら、楽しめるんじゃないかな?
村上龍独特の示唆に富んだ文章も、相変わらず満載だし。


半島を出よ (下)

幻冬舎

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