今朝の熊本日日新聞の一面記事です。
『沖縄県宜野湾市にある、米軍普天間飛行場の県内移設に反対し、県外、国外への移設を日米両政府に求める県民大会が開かれた』
先月3月27日に須永博士が講演会を開催した、読谷村の鳳ホールのすぐそばが会場だったんですね。
昨日のテレビのニュースでも、先月行ったあたりの風景が映り、その場の空気がすごく伝わりました。
仲村颯悟くんのブログでも当日の様子が伝わりました。
沖縄の皆さんは、常に危険、恐怖、騒音がすぐそばにある生活を強いられてもう何十年も経っているんですから、このことは、実際にそこにいる人たちの声が本当に1番大切だと感じます。
だって、これだけの人が集まり、同じ想いでいるんですからね。
声をあげるのだって、集まるのだって、簡単なことじゃないです。
わたし達は、その声に耳を傾けることから始めないと、恥ずかしいくらい知らないこと、理解していなかったことだらけです。
須永博士の講演会で沖縄へ呼んでいただけるようになって、沖縄県内各地の小学校や中学校へ行くと、校舎、校庭の真上を戦闘機が轟音を立てて一日中飛ぶ光景を何度も見ました。
観光で初めて沖縄へ行った12年前(1998年)には気にもしなかったのが、本当に恥ずかしいです。
レンタカーで走ってしまえば、戦闘機の音もそれほど聞こえないし、住民の方がどんなに大変かも知らなかったです。
2006年2月に講演を行った屋良小学校さんは、嘉手納基地のすぐ横でした。
その時、本当に衝撃を受けました。
この音の中で、毎日勉強しているの!?と。
朝から夕方遅くまで、それが続く毎日。
嘉手納の道の駅では、嘉手納基地の中が見れる展望所があり、観光客の方々がカメラを構えてその迫力を感じられます。
でも、それが日常の住民の方々は、「静けさ」というものがないんですからね・・・。
昨年2月14日は、普天間小学校さんで講演会を開催しました。
その日、体育館の中で書いた詩「平和」が、掲げられました。
その詩を紹介します。
「《平和》
生きていました。
生きていられました。
愛する
この沖縄で
愛する家族と
愛する先生と
愛する友と
愛する祖父母と
みんなで心ひとつにして
楽しく嬉しく優しく
生きていました。
しかし60数年前
突然 “戦争”という
戦いがおそってきました
大切な命がうばわれました。
たくさんの子供たちが
この世から去っていきました。
もう戦争は
いやです。
あの日、罪もなく去っていった人たちのためにも
平和な沖縄でいてほしいです。
平和な日本でいてほしいです。
心からねがいます。
あなた、いのちある
今
幸せでいてください。
一生懸命
自分の道を生きてください。
あなた
自分の夢をつくってください。
お願いします。
須永博士 旅の詩人
2009.2.14
沖縄にて」
戦争でつらい想いをし、戦後も、今もなお大変な想いをして生活している沖縄の人の声が、日米両国の政府の皆さんの心に届くことをここからも願います・・・。
沖縄タイムス
『沖縄県宜野湾市にある、米軍普天間飛行場の県内移設に反対し、県外、国外への移設を日米両政府に求める県民大会が開かれた』
先月3月27日に須永博士が講演会を開催した、読谷村の鳳ホールのすぐそばが会場だったんですね。
昨日のテレビのニュースでも、先月行ったあたりの風景が映り、その場の空気がすごく伝わりました。
仲村颯悟くんのブログでも当日の様子が伝わりました。
沖縄の皆さんは、常に危険、恐怖、騒音がすぐそばにある生活を強いられてもう何十年も経っているんですから、このことは、実際にそこにいる人たちの声が本当に1番大切だと感じます。
だって、これだけの人が集まり、同じ想いでいるんですからね。
声をあげるのだって、集まるのだって、簡単なことじゃないです。
わたし達は、その声に耳を傾けることから始めないと、恥ずかしいくらい知らないこと、理解していなかったことだらけです。
須永博士の講演会で沖縄へ呼んでいただけるようになって、沖縄県内各地の小学校や中学校へ行くと、校舎、校庭の真上を戦闘機が轟音を立てて一日中飛ぶ光景を何度も見ました。
観光で初めて沖縄へ行った12年前(1998年)には気にもしなかったのが、本当に恥ずかしいです。
レンタカーで走ってしまえば、戦闘機の音もそれほど聞こえないし、住民の方がどんなに大変かも知らなかったです。
2006年2月に講演を行った屋良小学校さんは、嘉手納基地のすぐ横でした。
その時、本当に衝撃を受けました。
この音の中で、毎日勉強しているの!?と。
朝から夕方遅くまで、それが続く毎日。
嘉手納の道の駅では、嘉手納基地の中が見れる展望所があり、観光客の方々がカメラを構えてその迫力を感じられます。
でも、それが日常の住民の方々は、「静けさ」というものがないんですからね・・・。
昨年2月14日は、普天間小学校さんで講演会を開催しました。
その日、体育館の中で書いた詩「平和」が、掲げられました。
その詩を紹介します。
「《平和》
生きていました。
生きていられました。
愛する
この沖縄で
愛する家族と
愛する先生と
愛する友と
愛する祖父母と
みんなで心ひとつにして
楽しく嬉しく優しく
生きていました。
しかし60数年前
突然 “戦争”という
戦いがおそってきました
大切な命がうばわれました。
たくさんの子供たちが
この世から去っていきました。
もう戦争は
いやです。
あの日、罪もなく去っていった人たちのためにも
平和な沖縄でいてほしいです。
平和な日本でいてほしいです。
心からねがいます。
あなた、いのちある
今
幸せでいてください。
一生懸命
自分の道を生きてください。
あなた
自分の夢をつくってください。
お願いします。
須永博士 旅の詩人
2009.2.14
沖縄にて」
戦争でつらい想いをし、戦後も、今もなお大変な想いをして生活している沖縄の人の声が、日米両国の政府の皆さんの心に届くことをここからも願います・・・。
沖縄タイムス