明治27年から28年にかけて日清戦争の募金依頼を、初代高砂浦五郎が
巡業の時に掲げた看板を、私は相撲博物館へ寄贈させていただいた。
当時の新聞によると、一巡業について二円から三円を積み立てて、目標
は一万円という。明治28年3月には百円になったという。これを出征兵
士の家族へ援助するとのことである。
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江戸時代に相撲関係の出版物である錦絵・番付・和本などが
多数が刊行されている。相撲関係の錦絵だけでも、明治まで
入れると一万点余りといわれる。番付も巡業番付まで入れる
と何百点になろう。和本もまた『相撲起顕』などが刊行され
ている。絵師・摺師はともかく、よく彫師が追いついたもの
と感心する。それよりも驚くのが、当時の江戸の人口が百万
といわれるが、よく需要があったものである。もちろん相撲
以外の、多くの一般の錦絵や和本も刊行されている。これら
のことについては、いずれ掘り下げて書いてみたいと思って
いる。
前回・前々回で江戸から明治期の郵便について少し触れた。
現在とは比較出来ないほどの高価な送料の、当時の手紙で
あるが、私が感心するのは、戦国時代の武将や、渡辺崋山
や阪本龍馬など有名人の書簡が現在でも多数、残っている
ことである。届ける時や、その後の期間によく無くならな
かったかと感心する。私も江戸期の雲竜・当時の追手風・
庄之助などの書簡を保存している。
前回、簡単に手紙で連絡しあってと書いたが、当時はこれが現在とは考えられない程
高価であった。江戸から明治にかけては、巡業といえば大八車に化粧廻し・水桶・幔
幕など一式を載せて、引っ張っていったのだろう。大井川などはどうしたのだろう。
巡業地を捜すと同時に、宿の手配もしなければならない。また相撲会所では本場所が
近づけば、全国に散った各組合と連絡を取りあわなければならないが、現在と違って
連絡手段がないので、一行はそのつど会所に連絡をいれていたのだろう。現在は歩く
ことなく、連絡方法も簡単で、大合併で、雨天の心配もなく、宿も食事も当時とは考
えられないくらい豪華といえるだろう。
江戸から明治にかけて年二場所の本場所が終われば、
旅から旅の巡業である。東京近郊ならよいが鉄道が
普及しなかった時代は、もちろん徒歩である。今と
違って大合併の巡業ではないので、中には関取りも
いない組合もある。もちろん野天興行で雨が降れば
中止となる。そのような組合でも番付が残っている
ので、場所中から先乗りが全国を回って話を決めて
いたのだろう。そして手紙で連絡しあっていたと思
われる。(続く)
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