80年目の12月8日(太平洋戦争が始まった日)を迎えようとする中、12月5日の朝日新聞に
「昭和天皇が10月の段階で既に開戦を覚悟し、気持ちが先行しているので側近がお引きとめ申し上げている。先ごろから陛下の表情が明るいので不思議に思った」などと書かれた元侍従長の日記の記述が報じられ、注目されています。
(朝日新聞記事から抜粋)
昭和天皇は「覚悟あらせられる様子」 太平洋戦争直前、側近が日記

昭和天皇は「覚悟あらせられる様子」 太平洋戦争直前、側近が日記:朝日新聞デジタル
太平洋戦争開戦前の1941(昭和16)年10~11月、昭和天皇が開戦について「覚悟」した様子を側近に示したととれる記述が、当時侍従長だった...
朝日新聞デジタル
太平洋戦争開戦前の1941(昭和16)年10~11月、昭和天皇が開戦について「覚悟」した様子を側近に示したととれる記述が、当時侍従長だった百武三郎(ひゃくたけさぶろう)(1872~1963)の日記から見つかった。
(昭和天皇の侍従長を務めた百武三郎)
開戦の是非をめぐって悩み、揺れ動く天皇の日々が記された中に「すでに覚悟あらせられる様子」「ご先行をお引きとめ申し上げる」などの側近の言葉が書かれていた。
戦後の連合国による極東国際軍事裁判(東京裁判)では、昭和天皇は開戦に慎重で平和を望んだが「政府や軍部の進言でしぶしぶ同意に至った」として不起訴とされた。しかし近年の歴史研究により、開戦直前に開戦を前提に戦争終結策を思案したり、開戦後は戦果に満足し積極的な作戦を求めたりするなど、戦争に前向きな姿勢を示した時期もあったとする史料も見つかっている。百武の日記の記述から、開戦に対する天皇の姿勢の変化についての研究が深まりそうだ。
開戦をめぐる姿勢についての記述があったのは、百武の41年10月13日の日記。昭和天皇に拝謁(はいえつ)(面会)した松平恒雄(まつだいらつねお)宮内大臣から「切迫した時機に対し、すでに覚悟あらせられるようなご様子だ」と聞いたと記載。天皇の気持ちが先行する様子を懸念したとみられる木戸幸一(きどこういち)内大臣の「ときどき先行するのをお引きとめ申し上げている」との発言も記した。
(昭和天皇の動向や言動が記された百武三郎侍従長の1941年10月13日の日記。「已に覚悟あらせらるるが如き御様子に拝せらる――」と書かれている)
百武は11月20日にも、木戸が「陛下の決意は行き過ぎのように見える」と語ったと記し、「東郷茂徳(とうごうしげのり)外相の前ではあくまで平和の道を尽くすべきだと印象づける発言をするようお願いした」との木戸の発言を書き取っている。
(昭和天皇の動向や言動が記された百武三郎侍従長の1941年11月20日の日記。「内府曰く上辺の決意行過ぎの如く見ゆ――」と書かれている)
これまで百武については政治に関与せず、侍従長として「天皇の身の回りの世話役」に徹したとする見方が強かった。日記に天皇をめぐる政治や軍事に関する記述が多く残されていることに、歴史研究者からは驚きの声も出ている。
昭和天皇の海軍大元帥正装のポートレート=1928年撮影
陸軍大元帥軍装の昭和天皇=1943年12月撮影
10月13日の日記
切迫の時機に対し已(すで)に覚悟あらせらるるが如(ごと)き御様子に拝せらると先頃来木戸内府も時々御先行を御引止め申上ぐる旨語れることあり 先頃来案外に明朗の龍顔を拝し稍(やや)不思議に思ふ
(陛下がすでに覚悟を決め、気持ちが先行している様子だと聞いた。百武から見ても、先ごろから陛下の表情が明るいので不思議に思ったーとの内容だ。)
11月20日の日記
内府(木戸)曰(いわ)く上辺の決意行過ぎの如く見ゆ
(百武は、天皇が開戦に傾く様子を木戸が懸念したとみられる「陛下の決意が行き過ぎのように見える」との発言を記した。)
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