<?xml version="1.0" encoding="utf-8" ?>
<rss version="2.0" xmlns:dc="http://purl.org/dc/elements/1.1/">
 <channel>
  <title>純丘曜彰 Teruaki Georges SUMIOKA のメモ</title>
  <link>https://blog.goo.ne.jp/sumioka_t?fm=rss</link>
  <dc:creator>sumioka_t</dc:creator>
  <dc:date>2025-05-29T20:55:45+09:00</dc:date>
  <language>ja</language>
  <copyright>&#9400;NTT DOCOMO, INC. All Rights Reserved.</copyright>
  <image>
   <url>https://blogimg.goo.ne.jp/user_photo/cb/f8a616899cbf6b86645d5e8cd198a30f.jpg?1695427307</url>
   <title>純丘曜彰 Teruaki Georges SUMIOKA のメモ</title>
   <link>https://blog.goo.ne.jp/sumioka_t?fm=rss</link>
   <description>昨今の動向、気になったニュースなど</description>
  </image>
  <description>昨今の動向、気になったニュースなど</description>
  <docs>http://blogs.law.harvard.edu/tech/rss</docs>
  <item>
   <title>ソフィストとソクラテス：ノモス、デマゴーグ、ダイモニオン（L06）大学標準哲学教程</title>
   <link>https://blog.goo.ne.jp/sumioka_t/e/cdfbcd67acf8749d5d035fef19d0f6e4?fm=rss</link>
   <description>
<![CDATA[
<p>ソフィストとソクラテス：ノモス、デマゴーグ、ダイモニオン（L06）大学標準哲学教程 </p>
]]></description>
   <category>日記</category>
   <dc:date>2025-05-29T20:55:17+09:00</dc:date>
   <guid isPermaLink="true">https://blog.goo.ne.jp/sumioka_t/e/cdfbcd67acf8749d5d035fef19d0f6e4</guid>
  </item>
  <item>
   <title>3か月でマスターする絵を描く？</title>
   <link>https://blog.goo.ne.jp/sumioka_t/e/e47e0d90b81496dc5f5f5f9e059f76b1?fm=rss</link>
   <description>
<![CDATA[
<p>　あまり人の仕事を貶したくはないが、ちょっとひどかないか？　この先生、どういう素性か知らないが、絵描きじゃない。イラストレーターだろ。デッサンの経験が無いとしか思えない。</p>
<p>　今回、見てしまったのは、バランスのよい人物画、だとか。足を立派に画け、とか言っている。が、足があんな風に真横に見えることは、ありえない。そもそもウェストが真横線って、写真とすら似ていない。</p>
<p>　たしかに人物のバランスを取るなら、足と腰、そして、肩だ。だが、そのとき、描かれる相手の人物だけでなく、描く自分が問題になる。じぶんより背が高いのか、低いのか、近いか、遠いか、で、見え方がまったく異なるからだ。安直なマンガ家やイラストレーターが写真の合成で絵を捏ち上げようとすると、この、描く自分がぐちゃぐちゃになる。</p>
<p>　まず第一、腰。真横線、ということはありえない。人間の骨盤は、絶対的に前傾している。壇上のモデルでもなければ、相手の腰は、描く自分の目の高さより低いのが一般的で、楕円、それも背骨から前へ傾いて見える。とくに女性は、その楕円が幅広で、より前傾が深い。それが背中側でヒップのボリュームにもなる。</p>
<p>　次に肩。曲げた腕の側は、肩から下がる。それに首に対して、前に出る。インバースキネマティクスでもよく知られているように、肘だけが曲がるのではなく、手首の位置に合わせて、肘はもちろん、背骨の付け根から肩先にかけても下がる。逆に、まっすぐに下ろした腕は、肩が上がる。これは大胸筋側の都合だ。</p>
<p>　そして、足先。これは、腰の楕円の左右から、それぞれの足のかかとに直線を下ろした延長線上に爪先が前に出る。そうでないのは、Ｏ脚かＸ脚だ。いずれにせよ、描く自分の目より低いから、真横などということはありえない。</p>
<p>　逆に頭は、腰の楕円と肩の中心を結んだ線に水平直行する向きになるのが、ふつう。もちろん、首だけひねる、なんていうポーズもあるが、そうなると、背中心も反対にズレる。この背中心は、女性の場合、前後の奥行があるためにとくに重要で、着衣であっても、肩から下がって胸の正面の高さと向きを決めることになる。</p>
<p>　こういったことは、実際にいくつもデッサンをしたことがあるまともな絵描きならば、だれでも経験的に知っている。近ごろ、ちょこちょこっと、お絵かき上手が、シロウトだましで跋扈しているが、本気で上達したいなら、『かくかくしかじか』のように、うるさくても、ちゃんとした先生に習った方がいい。</p>
<p> </p>
]]></description>
   <category>日記</category>
   <dc:date>2025-05-07T22:00:00+09:00</dc:date>
   <guid isPermaLink="true">https://blog.goo.ne.jp/sumioka_t/e/e47e0d90b81496dc5f5f5f9e059f76b1</guid>
  </item>
  <item>
   <title>日本美術院のドロドロ</title>
   <link>https://blog.goo.ne.jp/sumioka_t/e/b7ca5f47a14db9ff66e844d30cb75dde?fm=rss</link>
   <description>
<![CDATA[
<p><img src="https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3b/cb/9b285e2db4465595043d93332bee1d17.jpg" /></p>
<p>４月23日、東京地裁が、日本美術院敗訴の判決を出した。もとはといえば、23年春の院展に出された梅原の作品（左）に、国司が、2002年春に院展に出した自分の作品（右）のパクリだ、と騒ぎ出して、23年４月28日に、日本美術院下田義寬理事が、梅原を追放処分にしたこと。梅原は、その処分無効を訴えていた。<br /><br />背景がドロドロしていて、そもそも02年の国司の作品を選出したのが藝大の先輩の梅原。いまは、国司が藝大の日本画「修復」の教授。そして、梅原の処分をしたのが、下田義寬理事で、こいつが1987年に、写真のモロパクリで藝大を追われている。ようするに、狭い世界の内輪揉め。<br /><br />で、裁判にしても、周辺にしても、似てる、似てない、で、ああだこうだ、と。結局、どいつもこいつも、目に見える部分でしか、芸術をわかっていない。そんなこと言ったら、ヨーロッパのキリスト像、日本の仏像なんて、みんな似たり寄ったりの「パクリ」だぞ。<br /><br />はっきり言って、あまりに凡庸で、どっちも才能が無い。それを審査した理事なんか、仲間内でなんぼのものか知らないが、芸術家を名乗る資格からして無い。下田の作品が最低なのは、絵が似ているから、ではなく、親鷹と雛鳥というテーマそのものがパクリだから。技術はあっても、内面に描きたいものが無い、つまり芸術家ではないからだろう。<br /><br />梅田にしても、国司の作品を選出したことを覚えていない、きちんと創作ノートもある、と言うが、他人でも思いつくようなアイディアなら、わざわざ展覧会に出すほどの作品ではない。つまり、パクリではないにしても、こんなレベルの低いもん、出すなよ、という話。（オーガンディスカートは、2022年あたりからの新流行で、たしかに国司のバレエチュチュのパクリではありえない。）<br /><br />国司も、どうなんだろう。この手のオーガンディチュチュの女の子は、バレエが当時のはやりだったから、印象派のドガやルノアールが大量に描いている。近年では、米国のマリア・バートランがモティーフにしている。それこそ梅原の作品と同じ手の組み方のバートランの作品が2017年にある。ようするに、これももともと凡庸で、パクられた、などと騒ぐのは、電波系さえ疑われる。<br /><br />日本美術院だかなんだか、勲章に近いから、こんな内部の権力争いが起こるのだろうが、インチキ理事の判断だの、ドシロウト法律家の裁判だの、アーティストのやる争いごとかね。作品で勝負するのが、アーティスト。シャネルスーツの紛いものが世に出回ったとき、イヤミな新聞記者がココ・シャネルに、訴えないのか、と問いただした。すると、ココは、答えてこう言った、マネできるものなら、マネすればいい、明日、私はもっと先にいる、ニセモノが多いほど、私はホンモノになれる、と。</p>
]]></description>
   <category>日記</category>
   <dc:date>2025-04-26T00:50:01+09:00</dc:date>
   <guid isPermaLink="true">https://blog.goo.ne.jp/sumioka_t/e/b7ca5f47a14db9ff66e844d30cb75dde</guid>
  </item>
  <item>
   <title>映画『シヴィルウォー』がひどい</title>
   <link>https://blog.goo.ne.jp/sumioka_t/e/0ebc0443d63440772cb2401abd3943f1?fm=rss</link>
   <description>
<![CDATA[

いや、ひどい、とは聞いていたが、これほどひどいとは思わなかった。2022年、トランプがまた大統領選に出る、とのことで、企画は悪くなかった。だが、脚本も、撮影も、時間がなさすぎたのだろう。
 


とにかく、センスが中学生の本かと思うくらいひどい。そもそも、これを米国人が書くか、というくらい、米国を知らない。カリフォルニアとテキサスが組んでＷＦ（西部連合）の反乱軍だって。そもそも、そこが現代の米国でありえないでしょ。トランプみたいな大統領からすれば、東部と西部の沿岸部が離反して、両側から挟み撃ちにする。フィリップ・K・ディックの『高い城の男』1962の方が、まだ構造的に現実味がある。
 


くわえて、話がしょぼい。ジャーナリストがニューヨークからワシントンに行くロードムービー。なのに、わざわざアパラチア山脈を越えて西部連合側を縦断し、ウェストヴァージニア側からシャーロッツビル経由。ヴァンスなんかのヒルビリー（ホワイトプア）連中の残虐非道の愚昧な野蛮人ぶりを、これでもかと見せつけるためでしかない。
 


そもそも、初っぱなでカメラマン志望小娘が出てきて、いやな予感がしたが、ツアーに同乗した時点で、あ、主人公が犠牲になって、この小娘が最後にプロ根性を見せて、その写真を撮るんだな、っていうオチまで見えてしまう。
 


逆に、ああ、ニューヨークのテレビインテリって、こういう世界観なのか、とも思う。カリフォルニア、ハリウッドすら、西の野蛮人の世界。とはいえ、シャーロッツビルから先は、手のひら返しで、悪い官僚と大統領を容赦なく殺しまくる。わざわざ命がけでインタヴューに行って、一言採って終わり、ってなんだよ。そもそも、なんでこの時代に静止画だけなんだよ。ビデオクルー、連れてけよ。
 


そしてまた、こんな駄作の企画が通ったことにも驚いた。中坊みたいな連中が、こういうのを作りたい、というところまではわかる。が、こんなのにカネを出すやつがいたことが不思議だ。それくらい米国の映画テレビの制作力が落ちている、反トランプで凝り固まっていることが透けて見える。
 


一方、現実では、内戦そのののがシャレにならない。もともとテキサスその他の豪農豪商は、要塞のような屋敷に、退役軍人の強力な私兵を囲っている。株価下落に怒った東西沿岸の主要強力州が、バイデンのときのように超法規的なねじ曲げでトランプを引きずり下ろそうとしたら、今度は議事堂襲撃では済まない。金が暴騰し米国債が売りを浴びているのも、たんなる関税政策の是非の反映だけではない。

]]></description>
   <category>日記</category>
   <dc:date>2025-04-13T01:01:00+09:00</dc:date>
   <guid isPermaLink="true">https://blog.goo.ne.jp/sumioka_t/e/0ebc0443d63440772cb2401abd3943f1</guid>
  </item>
  <item>
   <title>ＡＩ資本主義にはかなわない</title>
   <link>https://blog.goo.ne.jp/sumioka_t/e/07456e3b8e452676a99ffef705b97b14?fm=rss</link>
   <description>
<![CDATA[
<p>　もう手作業でMIDI入力なんて、どうやってもかなわんわ。youtubeとか、ＡＩ生成だらけ。SunoやUidoは、スタイルの呪文をぶちこめば、果てしなくそれっぽい楽曲を大量に吐き出してくる。1940年代ジャズとか、1980年代シティポップとか、元ネタサンプルが大量にある分野ほど、かんたんに十曲以上のアルバムができてしまう。それで、日本語の歌付きでも、ばんばんアップロードしてきている連中がいて、これがけっこうよくできているから、作業中のかけっぱなしのBGMとしては、そりゃ自分もそういうのを聴いてしまうこともしばしば。</p>
<p>　イラストのＡＩはまだまだ。サンプリングの時点で画像内の時代や地域の考証みたいな知的なタグ付けができていないから、使いものにならない。が、音楽の方は、元ネタのジャンル分けがしやすいからだろう。平面全体を使うものと較べれば、有限の楽器で有限の時間、分割密度もせいぜい16分音符にアタックやサステインする程度だったら、単純に順列組み合わせ。</p>
<p>　まさにＡＩ資本主義。カネさえかければ、それでyoutubeの視聴時間を占拠して、リターンもそれ以上にあるのだろう。とはいえ、じゃあ、自分がやりたいか、というと、エクセルだの、パソコンの修理だの、それを仕事と割り切れば、やりゃあやれるだろうし、カネにもなるとはいえ、そんなことに人生を費やしてるほどヒマじゃない。おもしろくない。</p>
<p>　逆に、いまや元ネタの本物たちを発掘するのが、楽しい。ＡＩミュージックは、まるで日産の車のデザインみたいに、大人数の会議を重ねた結果のような凡庸な平均値しかない。なんでもあるが、どれもほしいと思う決定打が無い。つまり、どれも尖っていない。それに較べて、生の元ネタは、当時の試行錯誤の模索途中で、みんなおかしいし、奇抜なものが大量に混ざっている。そんなのを、ぜんぜん違うところのやつがアーカイヴして残していたりする。</p>
<p id="cac3490e-0d72-4ec2-bd1b-a82122e066f0" data-pm-slice="1 1 []">https://youtu.be/rjwqxhg5-BY?si=7KwXCXmse0k05Kiy</p>
<p>　まあ、お笑いでも、アートでも、マンガや思想書でもそうだが、いちばん売れるのは、視聴者、読者の同類。テレビなんて、そんなのの吹きだまり。利益最大化を図って売れ筋ばかりを追いかけると、マーケットのもっともボリュームのでかい凡庸中間層をターゲットにすることになるにきまっている。が、さほど老い先も長くない自分が、なんでいまさらそんな連中につきあって、へらへら媚びて笑わんとならんのだ？</p>
]]></description>
   <category>日記</category>
   <dc:date>2025-04-02T04:00:01+09:00</dc:date>
   <guid isPermaLink="true">https://blog.goo.ne.jp/sumioka_t/e/07456e3b8e452676a99ffef705b97b14</guid>
  </item>
  <item>
   <title>Barn Burning 納屋を焼く　と　首締めヅラ男　と、めった刺し男</title>
   <link>https://blog.goo.ne.jp/sumioka_t/e/05c2c3df7308a6d17526f5c2fba01b3a?fm=rss</link>
   <description>
<![CDATA[
<p>　あんまり村上春樹は趣味じゃない。あれは、団塊世代の人で、田中康夫ほどにもセンスがわからない。ただ、村上が好む戦前のジャズエイジの作家、チャンドラー（1888-1959）、フィッツジェラルド（1896-1940）フォークナー（1897-1962）、そして、戦後のカポーティ（1824-84）あたりは、映画がらみでもあり、私もよく読む。</p>
<p>　Barn Burning は、メタファーもへったくれもない、ゴロ遊びのタイトル。フォークナーの短編小説、というか、その後の連作の前日譚で、主人公の父親の物語。小作人で、独善激情型の人物で、文字どおり地主の納屋を焼く。だが、このタイトルを、納屋を焼く、なんて訳するところからして、あまり村上の英語訳は信用していない。もちろん、英文法的には、そうも訳せるだろうが、フォークナーの意図は、自動詞と捉えて、いまも燃えている納屋、だろう。つまり、主人公の中にくすぶる父親のトラウマ。</p>
<p>　タイトルは同じでも、村上は、このタイトルに着想を得ただけで、中身としては、カポーティのホーリー・ゴライトリーと、フィッツジェラルドのジェイ・ギャッツビーの出会いのような話で、主人公が両にらみの中で話を転がしていく。バブルが始まりつつあった1983年。流れとしては、チャンドラーのハードボイルド小説をフォークナーが映画脚本にした Big Sleep（三つ数えろ）に似た雰囲気の藪の中のミステリ。</p>
<p>　ところが、この村上版を2018年に韓国の イ・チャンドンが長編映画化した。というより、翻案改編も大きく、映画版のギャッツビーやチャイナタウンの映像的なオマージュも色濃い。江南スタイルという曲が出てきたのが2012年。そこに集まるのは、正体不明の新興財閥の御曹司。しかし、これだと、じつは、ジェイ・ギャッツビー＝ベンの方にリアリティが無い。『暴力都市』などのように、財閥御曹司と言えば、もっとすごい父親が黒幕として出て来るのが定番で、これだとフォークナーの小作人の父親、ホーリーやジェイの親世代からの家出を背景にできない。</p>
<p>　だから、この映画、できてから７年、むしろいまの方が時代に合っている。さえない凡庸な親を捨てて、ＩＴだか、アイドルだか、YouTuberだかで、遊んで稼いだアブク銭で、夜な夜な暇つぶしの仲間内のパーティを開く港区族。そして、そこに入り込みたがる素性の賎しい身の程知らずの整形バカ女たち。ほんとうのところは、同類嫌悪。中身の無さ、素性の悪さを鏡で見せつけられるようなもの。だから、前者の中に、そんな女、暇つぶしの一発ネタ、この世にいてもいなくても、だれも気にしないし、いくらでも代わりはいるし、と思って、飽きたら首を絞めて貯水池に沈めて遊ぼうか、と思うおっかないヤツがいても、不思議ではない。いや、それって、まさにあのヅラ男じゃん。</p>
<p>　この映画としては、ハムレットのように、あえて真相を藪の中に放り出したっぱなしにして、妄想謀略論に凝り固まった主人公に疑われて殺される、善良なボンボン、とも両義的に見られるようなしかけになっている。だいいち、彼女にやったはずの量産安物時計が男の洗面所にあった、とか、ネコがボイルという名で呼んだらよってきた、とか、ビニールハウスを焼く、は、女を殺す、の隠喩だ、とか、そんなことで確信を持つなんて、主人公自体が、かなりやばい。いわゆるアンリライアブル・ナレーター（信用すべからざる語り手）。そういえば、これも、最近、カネを貸したのに返さない、別の男と暮らしているらしい、とか言って、めった刺しした男が実在した。</p>
<p>　というわけで、映画を見直していて、そらおそろしくなった。村上やイがどう考えていたのか、わからないが、ほんとうにそういう屈折した成り上がり男、行き詰まり男はいるらしい。いや、昔から、玉の輿狙いなのか、不思議ちゃんでほんとうに場違いなのがわかっていないのか、そういうところに入り込んできたがる女はいて、たいていはなにかしらの方法で中古品を次々と場外処分していだのだろう。女も、ヒット作のある有名女優くらいの相応の格がないと、トロフィーガールとして、連中は結婚しない。なのに、妄想で疑う行き詰まり男は、彼女に、そして、彼女を捨てた男に、なにをするかわからない。</p>
]]></description>
   <category>日記</category>
   <dc:date>2025-03-31T01:00:00+09:00</dc:date>
   <guid isPermaLink="true">https://blog.goo.ne.jp/sumioka_t/e/05c2c3df7308a6d17526f5c2fba01b3a</guid>
  </item>
  <item>
   <title>シャンソンの躁鬱解釈：Laissez moi Danser</title>
   <link>https://blog.goo.ne.jp/sumioka_t/e/533a9f6cce78cc9903aaa255299559f9?fm=rss</link>
   <description>
<![CDATA[
<p><img src="https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/78/a0/0b281468c4f16078556ac8bcbb72b907.jpg" /></p>
<p>衰退する地方の村を納屋キャバレーで農業テーマパークにした実話（2015）が映画になっている。Les Folies Fermières (2022)。その最後で女装歌手がステージを盛り上げるのが、この曲。</p>
<p>1979年にダリダが歌ってフランスで大ヒットした。いまでも映画やテレビドラマでも、ちょこっと出てくることがしばしば。それくらいの国民歌謡だ。ところが、これがかなりいろいろ。歌詞の解釈が同じ曲とは思えないくらいばらばらで、そのせいで曲調もノリノリのラテン調ディスコから、いかにもシャンソンっぽい鬱で嘆きの短調バラードまで。</p>
<p>もともとは、イタリアの Toto Cutugno というシンガーソングライターの1978年の Voglio l'Anima（ソウルをもっと）。つまり、当時の世界的ディスコブームに乗っかったノリノリの曲で、これをフランスの人気歌手ダリダがカバー。しかし、このダリダ（1933-87）も曲者で、イタリア人のエジプト生まれで、フランスで歌手として成功。日本語を含め、さまざまな言語でレコードを出し、色恋沙汰も派手で、躁鬱病に苦しみ、そのための向精神薬のオーバードースで死んでしまった。</p>
<p>そのせい、というわけではないが、この曲が彼女の躁鬱をそのまま引き継いでいる。たいした歌詞ではないが、もともと英仏混淆でダブルミーニングっぽい。</p>
<p></p>
<p>Monday, Tuesday<br />Day after day life slips away<br />Monday, it's just another morning<br />Tuesday, I only feel like living<br />Dancing along with every song<br /><br />Moi, je vis d'amour et de danse<br />Je vis comme si j'étais en vacances<br />Je vis comme si j'étais éternelle<br />Comme si les nouvelles étaient sans problèmes<br />Moi, je vis d'amour et de rire<br />Je vis comme si y avait rien à dire<br />J'ai tout le temps d'écrire mes mémoires<br />D'écrire mon histoire à l'encre bleue<br /><br />Laissez-moi danser laissez-moi<br />Laissez-moi danser chanter en liberté tout l'été<br />Laissez-moi danser laissez-moi<br />Aller jusqu'au bout du rêve</p>
<p>月曜日、火曜日<br />毎日なんか、あっという間<br />月曜日、それはただの朝<br />火曜日、私はただ生きたい<br />どんな曲でも踊りたい</p>
<p>私は愛とダンスで生きている<br />人生ずっとヴァケーション<br />それが私の永遠のように<br />どんな出来事もなんでもないように<br />私は愛と笑いで生きている<br />言いたいことなんかないかのように<br />思い出なんかあとでも書ける<br />青いインクでいつでも書ける</p>
<p>踊らせて、ほっといて<br />夏の間くらい、自由にさせて<br />踊らせて、ほっといて<br />夢の果てまで追いかけたいの</p>
<p>とまあ、なんとも刹那主義の躁病的な歌詞とも読める。ところが、同じ歌詞も解釈しだいで、その真逆にも読める。</p>
<p></p>
<p>月曜日、火曜日<br />毎日が滑り落ちていく<br />月曜日、なにもない朝<br />火曜日、ただ生きているだけ<br />曲に合わせて踊っているだけ</p>
<p>私には愛とダンスしかない<br />人生ずっとからっぽのまま<br />それが永遠に続くかのよう<br />どんな事件もなにもならない<br />私に愛と作り笑いしかない<br />言いたいことも言えないで<br />思い出を書く時間だけがある<br />青いインクでそれを書くだけ</p>
<p>踊らせて、お願いだから<br />夏に自由に歌いたいだけ<br />踊らせて、お願いだから<br />夢の果てに突き進むだけ</p>
<p>こうなると、まさに鬱で、アイドル歌手の仕事と人気に束縛された悲哀の毎日。青いインク、というのが、どうもこの躁鬱転換の鍵になりそう。</p>
]]></description>
   <category>日記</category>
   <dc:date>2025-03-01T03:00:01+09:00</dc:date>
   <guid isPermaLink="true">https://blog.goo.ne.jp/sumioka_t/e/533a9f6cce78cc9903aaa255299559f9</guid>
  </item>
  <item>
   <title>Holiday Road はクリスマスソング？</title>
   <link>https://blog.goo.ne.jp/sumioka_t/e/ef41b6145b4ffabc064fd20fd7628728?fm=rss</link>
   <description>
<![CDATA[
<p><img src="https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/66/40/eb5dc42c21c4b25379bf5b880a4db9ed.jpg" /></p>
<p></p>
<p></p>
<p>もともとは1983年のSNL（サタデーナイトライヴ）のスピンオフおバカ映画『VACATION』のタイトルソングだ。シカゴから西海岸までトランザムする米国小市民の、くだらないあるある話。どクズの親戚にたかられ、ばあさんの死体を屋根に載せ、後のバンパーに犬を繋いだまま爆走し、トラブル続き。</p>
<p>ところが、この曲が数年前からクリスマスソングとして世界中でリバイバルヒットしている。夏休みのVacation 旅行の歌だったのに、holiday と言うと、クリスマスの帰省の方が感覚的にわかりやすいらしい。この映画、たしかにその第三作が『クリスマスヴァケーション』なのだが、このテーマ曲を使っていない。そうではなくて、じつは、この曲のコード進行がクリスマスソングの典型だったようだ。それで、こんな編曲も出てきた。さあ、今年もあと一ヶ月。</p>
<p></p>
<p> </p>
<p> </p>
]]></description>
   <category>日記</category>
   <dc:date>2024-11-23T23:30:00+09:00</dc:date>
   <guid isPermaLink="true">https://blog.goo.ne.jp/sumioka_t/e/ef41b6145b4ffabc064fd20fd7628728</guid>
  </item>
  <item>
   <title>ZEN大学のインパクト</title>
   <link>https://blog.goo.ne.jp/sumioka_t/e/02780785a4f909b2f2ffd334c53cc337?fm=rss</link>
   <description>
<![CDATA[
<p> ９月に保留とされた角川のZEN大学が追加認可される見込みだそうだ。日本財団やパソナがバックについて、モロに森安倍系。だが、とにかくいきなり規模がでかい。定員は減らされたが、いずれ予定の２万人大学、ひょっとするとそれ以上になるだろう。全日制のおまけの通信制ではなく、通信制のネイティヴで構想されているから、キャンパスなどの固定資産のムダが無い。すでにＮ高校で３万、いずれ６万の供給もあり、経営的には安定している。</p>
<p>　保留の理由は、わからないでもない。表向きは夏のサイバー攻撃だが、ネット配信については、高校ですでに７年の実績がある。むしろ文科省としては、これが大学勢力図のバランスを劇的に変えてしまうことを危惧しているのだろう。が、どこの大学も、あまり危機感が無いのが恐ろしい。</p>
<p>　一般の大学を経営から見た場合、あまりに資本回転率が悪すぎる。学期中の昼数時間しか経営しない学食と同じようなもの。街中でないと学生が集まらないが、街中に集めたところで、ランチ、ディナーで二回転させている飲食店ほどにも儲かりようがない。そもそも箱物に学生を年３０回も集めてライブを打つなんて、時代錯誤だろう。東進なんかだと、自分のペースで好きな時間に好きに進める。</p>
<p>　昔、教授たちは、それぞれ個性的で、人間的な魅力があった。だから、学生が集まった。しかし、カリキュラム主導で、非常勤だらけになってくると、しょぼくれた、著書一つない無名の落ち武者のような人々。「実務家」なんて言ったって、米国の現役出向と違って、過去の錆びた賞の自慢以上のものが無ければ、そのころ生まれてもいなかった若者たちを惹きつけるわけがない。</p>
<p>　とはいえ、ZEN大学に問題がないわけではない。東浩紀氏がやっと「教授」になれそうなのは、喜ばしく思うが、茂木健一郎氏は漏れた。編集工学とか言っていた松岡正剛氏も、生きていれば、こんな大学で「教授」をやりたかっただろう。</p>
<p>　逆に言うと、彼らは、アンシャン・アカデミズムが排除してきた人材だ。角川が出版から映画、ネットまで、アウトプットを自前で持っているから、卒業生たちも活躍するだろうが、アンシャン・アカデミシャンは、自分たちの人生を賭けて、どこまでもその教授たちや卒業生たちを否定するだろう。文科省さえ味方につければ、潰されはしまいが、ことごとに当分、陰湿な嫌がらせが続くに違いない。コペルニクスやケプラー、ガリレオの時代と、人間はあまり進歩していない。</p>
]]></description>
   <category>日記</category>
   <dc:date>2024-10-25T23:30:00+09:00</dc:date>
   <guid isPermaLink="true">https://blog.goo.ne.jp/sumioka_t/e/02780785a4f909b2f2ffd334c53cc337</guid>
  </item>
  <item>
   <title>如来と菩薩の見分け方</title>
   <link>https://blog.goo.ne.jp/sumioka_t/e/a7ed2bfa37ecea0dcb14cbc777e916a8?fm=rss</link>
   <description>
<![CDATA[
<p><img src="https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/70/ee/bf9da5382d5e43251436bab598e993f4.jpg" /></p>
<p>　インドや中央アジアからの仏教伝来の話を確認していくと、とにかく仏教内部の伝承も、世界史の記述もガサツすぎる。</p>
<p>　そもそも仏教は、もともとは仏像なんか持っていなかった。しかし、紀元一世紀ころまでに中央アジア、パルティアで、弥勒菩薩信仰が出て来る。これが大月氏クシャナ朝が征服すると、阿弥陀如来信仰となり、脇侍に観音菩薩と勢至菩薩がくっつく。また、アーリア人グプタ朝がヒンドゥー教を回復すると、密教や華厳経で大日如来（盧舎那仏）が主神となり、普賢菩薩が脇侍になったりする。これらは、それぞれ、むしろシッダールタの仏教とはまったく別の大乗新仏教と言ってもいい。</p>
<p>　問題は、これが中国に伝わったとき。北魏の雲崗、龍門や、南梁の南京などの寺は、何宗だったのか。これを判断するのは、伝承より、仏像の図象学的アトリビュートを見た方が確実だ。</p>
<p>　基本的に裸で座っているのは、すでに悟った如来。やたら宝飾品をジャラジャラさせて立っているのが、修行中の菩薩。裸で座っていて、左手人差し指を握る智拳印を結んでいるなら、大日如来。ただし、東大寺大仏のように、右手で留め、左手を差し出す施無畏印と与願印の大日如来もある。右手を上げ、左手を差し出しているが、ＯＫと指で輪を作っている来迎印が、阿弥陀如来。両手を正面で組んでいる定印は、大日如来にも阿弥陀如来（鎌倉大仏）にもあるので、厄介。</p>
<p>　半跏思惟、つまり片足組みなら、弥勒菩薩。だが、弥勒如来なんていうのもあり、これは座像で定印や施無畏与願印だったり。仏舎利（シッダールタの骨）宝塔を持っていれば、立っていても、座っていても、弥勒菩薩。水壷や花瓶を持っているのも、そう。本来は脇侍ながら、よく単独でも崇拝されるのが、観音菩薩。蓮のつぼみが特徴。勢至の兄で、阿弥陀如来の左側。普賢菩薩は象に乗っている。獅子に乗って剣を持つ文殊菩薩が主仏の右脇侍になることもある。</p>
<p>　だいたい、これでたいていの初期宗派は見分けられる。が、雲崗とか、ごちゃごちゃ、いろいろあって、いったい何を拝んでいたのやら。</p>
]]></description>
   <category>日記</category>
   <dc:date>2024-10-25T00:30:00+09:00</dc:date>
   <guid isPermaLink="true">https://blog.goo.ne.jp/sumioka_t/e/a7ed2bfa37ecea0dcb14cbc777e916a8</guid>
  </item>
 </channel>
</rss>
