あんまり村上春樹は趣味じゃない。あれは、団塊世代の人で、田中康夫ほどにもセンスがわからない。ただ、村上が好む戦前のジャズエイジの作家、チャンドラー(1888-1959)、フィッツジェラルド(1896-1940)フォークナー(1897-1962)、そして、戦後のカポーティ(1824-84)あたりは、映画がらみでもあり、私もよく読む。
Barn Burning は、メタファーもへったくれもない、ゴロ遊びのタイトル。フォークナーの短編小説、というか、その後の連作の前日譚で、主人公の父親の物語。小作人で、独善激情型の人物で、文字どおり地主の納屋を焼く。だが、このタイトルを、納屋を焼く、なんて訳するところからして、あまり村上の英語訳は信用していない。もちろん、英文法的には、そうも訳せるだろうが、フォークナーの意図は、自動詞と捉えて、いまも燃えている納屋、だろう。つまり、主人公の中にくすぶる父親のトラウマ。
タイトルは同じでも、村上は、このタイトルに着想を得ただけで、中身としては、カポーティのホーリー・ゴライトリーと、フィッツジェラルドのジェイ・ギャッツビーの出会いのような話で、主人公が両にらみの中で話を転がしていく。バブルが始まりつつあった1983年。流れとしては、チャンドラーのハードボイルド小説をフォークナーが映画脚本にした Big Sleep(三つ数えろ)に似た雰囲気の藪の中のミステリ。
ところが、この村上版を2018年に韓国の イ・チャンドンが長編映画化した。というより、翻案改編も大きく、映画版のギャッツビーやチャイナタウンの映像的なオマージュも色濃い。江南スタイルという曲が出てきたのが2012年。そこに集まるのは、正体不明の新興財閥の御曹司。しかし、これだと、じつは、ジェイ・ギャッツビー=ベンの方にリアリティが無い。『暴力都市』などのように、財閥御曹司と言えば、もっとすごい父親が黒幕として出て来るのが定番で、これだとフォークナーの小作人の父親、ホーリーやジェイの親世代からの家出を背景にできない。
だから、この映画、できてから7年、むしろいまの方が時代に合っている。さえない凡庸な親を捨てて、ITだか、アイドルだか、YouTuberだかで、遊んで稼いだアブク銭で、夜な夜な暇つぶしの仲間内のパーティを開く港区族。そして、そこに入り込みたがる素性の賎しい身の程知らずの整形バカ女たち。ほんとうのところは、同類嫌悪。中身の無さ、素性の悪さを鏡で見せつけられるようなもの。だから、前者の中に、そんな女、暇つぶしの一発ネタ、この世にいてもいなくても、だれも気にしないし、いくらでも代わりはいるし、と思って、飽きたら首を絞めて貯水池に沈めて遊ぼうか、と思うおっかないヤツがいても、不思議ではない。いや、それって、まさにあのヅラ男じゃん。
この映画としては、ハムレットのように、あえて真相を藪の中に放り出したっぱなしにして、妄想謀略論に凝り固まった主人公に疑われて殺される、善良なボンボン、とも両義的に見られるようなしかけになっている。だいいち、彼女にやったはずの量産安物時計が男の洗面所にあった、とか、ネコがボイルという名で呼んだらよってきた、とか、ビニールハウスを焼く、は、女を殺す、の隠喩だ、とか、そんなことで確信を持つなんて、主人公自体が、かなりやばい。いわゆるアンリライアブル・ナレーター(信用すべからざる語り手)。そういえば、これも、最近、カネを貸したのに返さない、別の男と暮らしているらしい、とか言って、めった刺しした男が実在した。
というわけで、映画を見直していて、そらおそろしくなった。村上やイがどう考えていたのか、わからないが、ほんとうにそういう屈折した成り上がり男、行き詰まり男はいるらしい。いや、昔から、玉の輿狙いなのか、不思議ちゃんでほんとうに場違いなのがわかっていないのか、そういうところに入り込んできたがる女はいて、たいていはなにかしらの方法で中古品を次々と場外処分していだのだろう。女も、ヒット作のある有名女優くらいの相応の格がないと、トロフィーガールとして、連中は結婚しない。なのに、妄想で疑う行き詰まり男は、彼女に、そして、彼女を捨てた男に、なにをするかわからない。


