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純丘曜彰 Teruaki Georges SUMIOKA のメモ

昨今の動向、気になったニュースなど

Barn Burning 納屋を焼く と 首締めヅラ男 と、めった刺し男

2025-03-31 01:00:00 | 日記

 あんまり村上春樹は趣味じゃない。あれは、団塊世代の人で、田中康夫ほどにもセンスがわからない。ただ、村上が好む戦前のジャズエイジの作家、チャンドラー(1888-1959)、フィッツジェラルド(1896-1940)フォークナー(1897-1962)、そして、戦後のカポーティ(1824-84)あたりは、映画がらみでもあり、私もよく読む。

 Barn Burning は、メタファーもへったくれもない、ゴロ遊びのタイトル。フォークナーの短編小説、というか、その後の連作の前日譚で、主人公の父親の物語。小作人で、独善激情型の人物で、文字どおり地主の納屋を焼く。だが、このタイトルを、納屋を焼く、なんて訳するところからして、あまり村上の英語訳は信用していない。もちろん、英文法的には、そうも訳せるだろうが、フォークナーの意図は、自動詞と捉えて、いまも燃えている納屋、だろう。つまり、主人公の中にくすぶる父親のトラウマ。

 タイトルは同じでも、村上は、このタイトルに着想を得ただけで、中身としては、カポーティのホーリー・ゴライトリーと、フィッツジェラルドのジェイ・ギャッツビーの出会いのような話で、主人公が両にらみの中で話を転がしていく。バブルが始まりつつあった1983年。流れとしては、チャンドラーのハードボイルド小説をフォークナーが映画脚本にした Big Sleep(三つ数えろ)に似た雰囲気の藪の中のミステリ。

 ところが、この村上版を2018年に韓国の イ・チャンドンが長編映画化した。というより、翻案改編も大きく、映画版のギャッツビーやチャイナタウンの映像的なオマージュも色濃い。江南スタイルという曲が出てきたのが2012年。そこに集まるのは、正体不明の新興財閥の御曹司。しかし、これだと、じつは、ジェイ・ギャッツビー=ベンの方にリアリティが無い。『暴力都市』などのように、財閥御曹司と言えば、もっとすごい父親が黒幕として出て来るのが定番で、これだとフォークナーの小作人の父親、ホーリーやジェイの親世代からの家出を背景にできない。

 だから、この映画、できてから7年、むしろいまの方が時代に合っている。さえない凡庸な親を捨てて、ITだか、アイドルだか、YouTuberだかで、遊んで稼いだアブク銭で、夜な夜な暇つぶしの仲間内のパーティを開く港区族。そして、そこに入り込みたがる素性の賎しい身の程知らずの整形バカ女たち。ほんとうのところは、同類嫌悪。中身の無さ、素性の悪さを鏡で見せつけられるようなもの。だから、前者の中に、そんな女、暇つぶしの一発ネタ、この世にいてもいなくても、だれも気にしないし、いくらでも代わりはいるし、と思って、飽きたら首を絞めて貯水池に沈めて遊ぼうか、と思うおっかないヤツがいても、不思議ではない。いや、それって、まさにあのヅラ男じゃん。

 この映画としては、ハムレットのように、あえて真相を藪の中に放り出したっぱなしにして、妄想謀略論に凝り固まった主人公に疑われて殺される、善良なボンボン、とも両義的に見られるようなしかけになっている。だいいち、彼女にやったはずの量産安物時計が男の洗面所にあった、とか、ネコがボイルという名で呼んだらよってきた、とか、ビニールハウスを焼く、は、女を殺す、の隠喩だ、とか、そんなことで確信を持つなんて、主人公自体が、かなりやばい。いわゆるアンリライアブル・ナレーター(信用すべからざる語り手)。そういえば、これも、最近、カネを貸したのに返さない、別の男と暮らしているらしい、とか言って、めった刺しした男が実在した。

 というわけで、映画を見直していて、そらおそろしくなった。村上やイがどう考えていたのか、わからないが、ほんとうにそういう屈折した成り上がり男、行き詰まり男はいるらしい。いや、昔から、玉の輿狙いなのか、不思議ちゃんでほんとうに場違いなのがわかっていないのか、そういうところに入り込んできたがる女はいて、たいていはなにかしらの方法で中古品を次々と場外処分していだのだろう。女も、ヒット作のある有名女優くらいの相応の格がないと、トロフィーガールとして、連中は結婚しない。なのに、妄想で疑う行き詰まり男は、彼女に、そして、彼女を捨てた男に、なにをするかわからない。


シャンソンの躁鬱解釈:Laissez moi Danser

2025-03-01 03:00:01 | 日記

衰退する地方の村を納屋キャバレーで農業テーマパークにした実話(2015)が映画になっている。Les Folies Fermières (2022)。その最後で女装歌手がステージを盛り上げるのが、この曲。

1979年にダリダが歌ってフランスで大ヒットした。いまでも映画やテレビドラマでも、ちょこっと出てくることがしばしば。それくらいの国民歌謡だ。ところが、これがかなりいろいろ。歌詞の解釈が同じ曲とは思えないくらいばらばらで、そのせいで曲調もノリノリのラテン調ディスコから、いかにもシャンソンっぽい鬱で嘆きの短調バラードまで。

もともとは、イタリアの Toto Cutugno というシンガーソングライターの1978年の Voglio l'Anima(ソウルをもっと)。つまり、当時の世界的ディスコブームに乗っかったノリノリの曲で、これをフランスの人気歌手ダリダがカバー。しかし、このダリダ(1933-87)も曲者で、イタリア人のエジプト生まれで、フランスで歌手として成功。日本語を含め、さまざまな言語でレコードを出し、色恋沙汰も派手で、躁鬱病に苦しみ、そのための向精神薬のオーバードースで死んでしまった。

そのせい、というわけではないが、この曲が彼女の躁鬱をそのまま引き継いでいる。たいした歌詞ではないが、もともと英仏混淆でダブルミーニングっぽい。

Monday, Tuesday
Day after day life slips away
Monday, it's just another morning
Tuesday, I only feel like living
Dancing along with every song

Moi, je vis d'amour et de danse
Je vis comme si j'étais en vacances
Je vis comme si j'étais éternelle
Comme si les nouvelles étaient sans problèmes
Moi, je vis d'amour et de rire
Je vis comme si y avait rien à dire
J'ai tout le temps d'écrire mes mémoires
D'écrire mon histoire à l'encre bleue

Laissez-moi danser laissez-moi
Laissez-moi danser chanter en liberté tout l'été
Laissez-moi danser laissez-moi
Aller jusqu'au bout du rêve

月曜日、火曜日
毎日なんか、あっという間
月曜日、それはただの朝
火曜日、私はただ生きたい
どんな曲でも踊りたい

私は愛とダンスで生きている
人生ずっとヴァケーション
それが私の永遠のように
どんな出来事もなんでもないように
私は愛と笑いで生きている
言いたいことなんかないかのように
思い出なんかあとでも書ける
青いインクでいつでも書ける

踊らせて、ほっといて
夏の間くらい、自由にさせて
踊らせて、ほっといて
夢の果てまで追いかけたいの

とまあ、なんとも刹那主義の躁病的な歌詞とも読める。ところが、同じ歌詞も解釈しだいで、その真逆にも読める。

月曜日、火曜日
毎日が滑り落ちていく
月曜日、なにもない朝
火曜日、ただ生きているだけ
曲に合わせて踊っているだけ

私には愛とダンスしかない
人生ずっとからっぽのまま
それが永遠に続くかのよう
どんな事件もなにもならない
私に愛と作り笑いしかない
言いたいことも言えないで
思い出を書く時間だけがある
青いインクでそれを書くだけ

踊らせて、お願いだから
夏に自由に歌いたいだけ
踊らせて、お願いだから
夢の果てに突き進むだけ

こうなると、まさに鬱で、アイドル歌手の仕事と人気に束縛された悲哀の毎日。青いインク、というのが、どうもこの躁鬱転換の鍵になりそう。