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純丘曜彰 Teruaki Georges SUMIOKA のメモ

昨今の動向、気になったニュースなど

吉本の東京進出と松本事件

2024-01-15 23:46:00 | 日記
同年代、同時代のできごとだから、いろいろ思うところはある。昨今、業界とも遠くなったが、いろいろ聞き及んでいたところもあり、まあ、こうなるだろうな、と感慨深い。いろいろ知っていても、先に言うと、熱狂的なアフォふぁんどもに叩かれるから言えないが、知っていた人は少なくなかっただろう。
 
もともと母方の祖父が本所深川で銭座を営む大店のぼんぼんで、銀座や浅草で遊び歩いていて、趣味が高じてセミプロの手品師として若手の面倒をみていたくらいだから、役者や落語家、漫才師の芸風や生活には一家言あって、子どものころから、いろいろ聞かされていた。とはいえ、そんな自分が、その後、業界の末席を汚させていただくことになるとは、思ってもいなかったが。
 
おりしも、バブルの緩んだ時代の雰囲気の中、80年代初頭の漫才ブームとはまったくべつに、80年代後半、劇団男一世風靡(哀川や柳葉、勝俣など)やWAHAHA本舗、大川興業、東京サンシャインボーイズのような、コメディ色もある若手劇団が次々と旗揚げ。番組AD、いまはりっぱなディレクターの武田一宏氏が、そのあたりの動向に詳しく、その魅力と将来性を詳しく伝え聞かせてもらっていた。業界人御用達の六本木のABC(青山ブックセンター)では、『カジノ・フォーリー』(83年創刊)なんていう雑誌も置いてあって、表紙は竹中直人やポール牧だった。
 
吉本が東京進出を図ったのも、この背景があったから。つまり、やつらは、最初からまともな漫才師、お笑い芸人としてではなく、いっちょかみのタレントとして乗り込んできて、東京の劇団員たちを蹴散らし、テレビを喰い荒らしていく。(そのおかげで、当時の「トレンディ」ドラマは充実した。)大阪吉本連中の東京の根城となったのが、六本木アイビスホテルの向かいの奥、イタ飯屋ボエームの上のMACCA。これをやっていたのが、ロンブーが大阪で拾って連れてきた板金工のガーシー。
 
あのあたり、看板を出していない店が、雑居ビル、それどころかふつうの住宅用マンションの三階、四階に少なくない。東京の芸能人や業界人は、もとより生活時間もでたらめだし、話が漏れるのを嫌う。まだスマホの時代ではなかったにせよ、店でくつろいで騒いでいるようすなど、まことしやかにおもしろおかしく膨らませて吹聴されたりしたらたまらない。だから、女性を呼ぶにしても、口の硬い、身元のはっきりしたプロの接客業の方だろう。
 
しかし、知人も人脈も無く東京に出てきたやつが、伸助の接待のために、自称モデルの田舎者だらけのディスコブーム、クラブブームさなかの六本木でなにをしたか、想像に難くない。そして、その後、それが松本と、その使いっ走りの一味になっただけ。90年代後半から関東連合(のOB)が世田谷から渋谷を経て六本木へ勢力を伸ばしており、2000年代早々から、いろいろ厄介なことになっていたらしいのだが。
 
いまや六本木は、きれいに再開発され、ABCも防衛庁も無く、どこがどこやら道に迷うほど。ボエームも、いまはもうだだっ広い駐車場にのっぺされた。だから、あの小汚く薄暗い雑居ビルの芸能人や業界人の生き残りなど、あまりに感覚的に時代遅れで、自然淘汰は当然の帰結だろう。

佐久間象山と葛飾北斎

2024-01-06 06:00:00 | 日記
 
信州小布施の豪商造酒屋、高井家は、天明の大飢饉での貧者救済の善行により、苗字帯刀が許された。が、それから三代目ともなる幕末の三九郎は、世のつねで、まるで商才が無く、京都に、江戸に、学問と称し、遊び歩いていた。しかし、ただの放蕩者ではない。幼少からの趣味遊興のおかげで、人の才を見る目はたしかだった。
 
三九郎は、五つ年下の同郷下級藩士の俊才、佐久間象山とも親交を結び、諸般の事情で身を隠していた北斎を江戸から呼び寄せる。ときに1844年、象山33歳、北斎84歳。二人は意気投合。漢学に長け、欧米を夢見て、その大望を龍に見立てて語る象山の富士賛詩『望岳賦』を読み、もとより『富嶽百景』を描いていた匿名の画狂老人卍は、その漢詩を水墨画に表わす。そして、その空白に象山が一筆。
 
惜しむらく、二人はともに維新の前に亡くなった。とはいえ、年代を越え、分野にとらわれず、わかりあえる友を得たことは、至福の喜びだっただろう。

ビーチボーイズ:民宿ダイヤモンドヘッドの間取り平面図

2024-01-04 22:30:00 | 日記

 とりあえず間取り図を起こしてみた。とにかく元の図面通りでは建たないし、セットもかなりいいかげん。鍵になるのは、二人の布団部屋の押し入れ。あれが1800ではなく、1350なので、ブリッジ幅が1350だとわかる。(ほんとうは、セットだと畳の部分も同じ1350で、押し入れ前の板敷は畳が450かぶって逆に900。)また、ベッドは世界共通で1000x1950なので、それで部屋の広さがおおよそ推測できる。

 とはいえ、洗面所の大窓は無視した。いろいろやってみたが、どうやってもあの窓のある位置が無い。しかし、これなら、サーフボードを見つけた物置の高窓と合わせられる。黄色はガラス戸とカーテンで区切られた風呂場前のリネンスペースで、裏の物置とつながっていただろう。また、先述のように、窓だらけなので、しかるべく筋交入り耐力壁を配置。これに梁が入れば、どうにか実際に建つだろう。

 まだやっていないのは、細々したものの配置。しかし、部屋の大きさを割り出すのにはあまり意味が無い。また、民宿として営業する以上、増築部に避難口として鉄製の外階段もあったはず。そうでないと、この建物の増築部二階は袋小路で危険だ。

 


建築と人の生き方

2024-01-04 05:30:00 | 日記

不謹慎と言われるかもしれないが、災害とか火事とかがあると、被災建物の構造がよく見えてしまう。外面は御立派なのに、ああ下や中はこんなか、これじゃあな、と思ってしまう。

もちろん、建築は、建築家の責任だろう。だが、自分で土地を決め、そんな建築家を好んで選んだ、そんな場所のそんな建物でOKしたところに施主の心持ちが出る。武道でも、書道や茶道でも、道と言われる所以だろう。

 そして、残念ながら、被災する建物は、やはりおうおうに人の住む道を外れている。住んではいけない場所、建ててはいけない土地。そこに基礎を越える乗せモノ。座屈するような「開放感」のある一階や吹き抜け。身の程知らずの巨大で重厚な屋根。強引な建て増しや屋上屋のペントハウス。

時代が変わる、ということもある。古くからの木造密集住宅地は、当然ながら火事に弱い。が、昔は、それぞれの家に防火用水を置き、若い衆が自主的な消防団を組み、子どもや高齢者への御近所の助け合いがあった。これらの生きた生活が抜け落ちた歴史的なだけの地区は、いまの時代、あまりに脆い。

また、日本は戦中に巨大地震が頻発したものの、戦後は48年の震度6の福井地震以降、落ち着いていた。戦後復興と団塊世代の住宅供給のため、画一的な団地とともに、尖った建築家たちが、さまざまな工法を駆使して、奇をてらった建物を競い合った。そこでの耐震基準は、建物自重の20%の地震力に耐えられればいい、というもので、実際のところ、震度5ほどの耐震性しかなかった。

しかし、1968年に十勝沖地震、78年に宮城県沖地震があり、どちらも震度5とされたものの、旧基準では危うい、ということで、1981年に「新耐震基準」が儲けられ、これで震度7(1024倍の強さ)でもなんとか耐えられるように改められた。しかし、95年の阪神淡路大震災は震度7で、これでも十分ではないことを露呈した。

そもそも震度基準も、観測員の被害観測に基づくものから、機械計測となり、三方向の合成加速度から割り出すもので、おおよそ、わずかに揺れを感じる人がいる、というところを震度1にしている。そこから、1つ上がるごとに32倍、2つ、つまり32の二乗で1024倍、というふうに設定され、震度7は、震度1の1000,000,000倍。震度8が無いというより、その32倍はもはや計測不能。

逆に、震度0は、揺れていないのではなく、指数関数だから基準値そのもの、震度-1はその32分の1、震度-2は、1024分の1となる。実際のところ、東京の街中などでは24時間、交通その他でなにかしらの振動があり、体感しないが、微細な揺れのストレスが、人間はもちろん、建物や橋などの大構造物にもつねに加わっており、これも長期になると、どんな影響が出るのか、わからないところがある。

そのせいなのか、ひとは、体感未満の微細振動のストレスを避けようと、かえって好んで砂地や埋地、盛地を選び、その上にやたら剛性の高い巨大な建物を作りたがるようだ。だが、そんなものは、ほんとうの地震には耐えられない。しっかりした土地に、微細振動を受け止めるきちんとした木軸の家。なにも建物の話をしているのではない。これは人の生き方の問題だ。


ビーチボーイズ:民宿ダイヤモンドヘッドの謎:第三弾

2024-01-03 02:06:30 | 日記

 が、実際のドラマを見る限り、ダイニング以外はスタジオセットで、図面と違って単純な900mmモジュールだ。つまり、混乱の元は、現地のロケ建物の図面が半端に公開されていること。前にも書いたように、あれは、まったくのドシロウト建築の図面で、あんな開口部だらけでは、二階は乗らない。実際、復元と称する喫茶ダイヤモンドヘッドは、床を揃いの平面にして、きちんと基礎と大引で突っ張り、壁面も、窓を潰して、角ごとに三尺幅筋交入りの耐力壁にしている。

 ドラマのセットでさえ、まともにあの図面には従わなかった。たとえば、社長の部屋は、図面上はレベル四尺畳敷きに設定されているが、実際のドラマではレベル三尺の板の間でベッドを使っている。おまけに南側のドアの横には棚があって、そのまま窓になっている。一方、作業部屋のセットでは、図面通り、北面に2つドアが並んでいて、東側のものは裏口で土間の二尺に下がっている。つまり、社長の部屋と作業部屋と、同じ壁で表裏が合わない。

 ロケ建物も、図面を守っておらず、やはり廊下などが900モジュールだっただろう。そうでないと、やたら梁が半尺ずれて、折れる元凶。裏もヅラが揃っているように、ファザード(表側)以外は、大工がよしなにやったのだろう。しかし、その大工というのも、かなり怪しい。二階の屋根に、通し柱に乗っているまともな軒桁が無くて、壁面の450ピッチのほっそい間柱(1寸三倍角)にほっそい母屋(1寸倍角)を直打ちして、そこからなっがい垂木(1寸角?)を一階壁面まで一気に下げている。こんなヘロヘロな作り、まともな大工のやる仕事じゃない。2x4まがいのセットのパネルに突っかけ馬みたいな構造だ。これでよくたっていたなと感心する。むしろ、こんな作りで、当時、なんで3500万もかかったのか、不思議だ。

 というようなわけで、ダイヤモンドヘッドが実在したとすれば、どんなだったのか、というのは、間取りがどうこう以前に、図面とも、ロケ建物とも、ドラマのセットとも、ズレて行かざるをえない。ただ、それでもどうにか辻褄を合わせて、あとは撮影時のスクリプター(コンティニュイティ係)の凡ミスということで、どうにかできないか、思案中。なんにしても、図面を一般的な900モジュールで起し直すところからはじめないといけない。