
紅白もよく知らない人ばかりなので、教育のN響の第九を聴いてしまった。が、年末にかえって鬱憤が溜まっただけ。小澤N響事件から、歴代コンマスの悪行三昧まで、あそこの内情を知っていると、よけい音まで白々しい。まるで、バスさえ廃止されようとしている郊外住宅地で、安穏と朝日新聞を熟読している半端なインテリ年金生活者たちの集会のようだ。演奏も、客席も、ジジババだらけ。友よ、第九は、こんな音ではない。どんなに上手でも、芸術ではない。
1970年12月25日、日比谷公会堂に聴き行った日フィルの第九はすごかった。ふだん夜に外になど出ない母が、子どもの私をつれて、とにかく聴きに行く、と言いだしたのだ。このころすでに上野に東京文化会館などもできいて、やたら音ギレのいい日々谷は、あまりに人気がなかった。あの日は、凍えるほど寒い夜だった。地下鉄を降り、公園を横切り、中に入っても息が白くなる。だが、この日は、まるでティンパニーの中にいるように音が腹に響いた。他のヴェニューでは聞いたことのない迫力に、これがオーケストラか、と思い知らされた。いまでも忘れられない。
大人になって知ったことだが、画家でもあった母は、成城や玉川の関係で、小澤征爾や浅利慶太、堤清二などともつながりがあって、日フィルの窮状についても聞き及んでいたらしい。日フィルは、もともと文化放送のオーケストラで、フジテレビの冨田勲の『ジャングル大帝』などの演奏もやっていた。ところが、万博も終わり、大衆文化への移行とともに、日フィルの解散が通告されていた。
残留派と、離脱派と、議論百出。分裂不可避というところを、まだ30歳だった藝大出の指揮者、手塚幸紀が新たに割って入って、かろうじて纏めていた。そして、それがこの年の第九だ。「あなたの不思議な力が、わたしたちを再び結びつける。生き方が違ってしまったわたしたちを、兄弟にする。」こんな事情など知らなかったが、楽器も、合唱も、このメッセージのために歌い上げていた。
生の音は、そこに立ち会うこと。耳に聴かせるのではなく、音楽そのものが指揮者も演奏者も踏み台にして、会場のすべての人の全身を感動させる。だから、録音ではダメだ。うまい演奏など、なんの意味もない。ましてベートーヴェンの第九だ。いまからちょうど二百年前の1824年、革命も皇帝も無かったことにした欺瞞の王政復古のぬるま湯の中で彼は叫んだ。「友よ、こんな音ではない!」
(絵はがきは、ジャパンアーカイブスから)



