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純丘曜彰 Teruaki Georges SUMIOKA のメモ

昨今の動向、気になったニュースなど

友よ、こんな音ではない! 1970年末の日比谷の第九

2023-12-31 23:00:00 | 日記

 紅白もよく知らない人ばかりなので、教育のN響の第九を聴いてしまった。が、年末にかえって鬱憤が溜まっただけ。小澤N響事件から、歴代コンマスの悪行三昧まで、あそこの内情を知っていると、よけい音まで白々しい。まるで、バスさえ廃止されようとしている郊外住宅地で、安穏と朝日新聞を熟読している半端なインテリ年金生活者たちの集会のようだ。演奏も、客席も、ジジババだらけ。友よ、第九は、こんな音ではない。どんなに上手でも、芸術ではない。

 1970年12月25日、日比谷公会堂に聴き行った日フィルの第九はすごかった。ふだん夜に外になど出ない母が、子どもの私をつれて、とにかく聴きに行く、と言いだしたのだ。このころすでに上野に東京文化会館などもできいて、やたら音ギレのいい日々谷は、あまりに人気がなかった。あの日は、凍えるほど寒い夜だった。地下鉄を降り、公園を横切り、中に入っても息が白くなる。だが、この日は、まるでティンパニーの中にいるように音が腹に響いた。他のヴェニューでは聞いたことのない迫力に、これがオーケストラか、と思い知らされた。いまでも忘れられない。

 大人になって知ったことだが、画家でもあった母は、成城や玉川の関係で、小澤征爾や浅利慶太、堤清二などともつながりがあって、日フィルの窮状についても聞き及んでいたらしい。日フィルは、もともと文化放送のオーケストラで、フジテレビの冨田勲の『ジャングル大帝』などの演奏もやっていた。ところが、万博も終わり、大衆文化への移行とともに、日フィルの解散が通告されていた。

 残留派と、離脱派と、議論百出。分裂不可避というところを、まだ30歳だった藝大出の指揮者、手塚幸紀が新たに割って入って、かろうじて纏めていた。そして、それがこの年の第九だ。「あなたの不思議な力が、わたしたちを再び結びつける。生き方が違ってしまったわたしたちを、兄弟にする。」こんな事情など知らなかったが、楽器も、合唱も、このメッセージのために歌い上げていた。

 生の音は、そこに立ち会うこと。耳に聴かせるのではなく、音楽そのものが指揮者も演奏者も踏み台にして、会場のすべての人の全身を感動させる。だから、録音ではダメだ。うまい演奏など、なんの意味もない。ましてベートーヴェンの第九だ。いまからちょうど二百年前の1824年、革命も皇帝も無かったことにした欺瞞の王政復古のぬるま湯の中で彼は叫んだ。「友よ、こんな音ではない!」

(絵はがきは、ジャパンアーカイブスから)


BeachBoys 潮音海岸3D化

2023-12-31 05:00:00 | 日記

というわけで、とりあえずかの潮音海岸を3D化。でも、国土地理院の5メートルメッシュだとこんなふうに粗いし、VRMLのIndexedFaceSetなせいで、積み木みたい。というわけで、標高数値だけ抜き出して、x3DのElevationGridで作り直そうと思っている。


ビーチボーイズ:民宿ダイヤモンドヘッドの謎:第一弾

2023-12-29 23:55:00 | 日記

『BEACH BOYS』の舞台、民宿ダイヤモンドヘッドは、謎が多い。とくに、二階の間取りが謎なのだ。洗面所なんかも出て来るのだが、これも位置関係がわからない。まあ、しょせんドラマのセットなのだから、そんなもの、なのだろうが、気になってしかたない。というわけで、いま、3Dで再現している。

 こうして模型で組み立てていくと、とにかく開口部が多すぎる。図面通りに作ろうとすると、窓だらけで、南北方向はもちろん、東西方向にも、まともな耐力壁がほとんど無い。まがりなりにも、実際にロケのための実物を建てたのだから、とりあえず立つ程度にはなっていたはずなのだが、ビームをうまく入れないと、あんな海風の強いところ、屋根すら乗るなかっただろう。

 で、構造的にわかってきたのは、ドラマには出てこないが、この建物は、大きく建て増しされている、ということ。まず社長の作業場だが、位置からすると、あそこは本来、外から直接に入れるトイレとシャワーがあった土間で、もともと本体に付け足されている。同様に、無線機のあるダイニングの桟敷も、建て増しだ。あの部分がキッチンの窓を半分ふさいでしまっているし、キッチンから出たところに本来の窓がある。

 第二弾以降で、二階も作っていくが、この建て増し部分は、通し柱が入っていない。このために、二階の間取りは、本来の躯体部分の中にあった、ということになる。また、知っての通り、ロケセットでは北側がぱっつんだが、真琴が二階の部屋のひとつを取ってしまった際に、北側に客室棟を増築し、トイレや風呂も一階に移設したことが想像できる。

 その場合、客室棟との間、キッチン裏にボイラーなどがあり、そこから奥の洗面所や風呂、トイレにも給湯していたはずだ。廃水も浄化槽が必要だったはず。くわえて、増築棟側に屋外非常階段も設置しただろう。まあ、作っていくに従って、徐々に建物の方が語り始める。模型感覚で楽しめる謎解きだ。

 


『くるみ割り人形』のお菓子の秘密

2023-12-19 22:00:00 | 日記
クリスマス、と言えば、『くるみ割り人形』。でも、バレエでセリフが無いから、筋を知らないと、なにがどうなったのやら、わからないかも。
 
ところが、じつは、もっと大きな問題がある。誤訳だ。もともと、この話は、ナポレオン時代のドイツの幻想作家ホフマンが作ったもの。ほんとうは、もっと影がある。しかし、それを、フランスのデュマが訳して、19世紀末にチャイコフスキーがバレエにした。もともと変な話だが、この多重翻訳の途中で、話の筋がよけいおかしくなった。昨今は、結局、ぜんぶ夢オチということで落ち着いている。
 
ややこしくなった一番の原因は、「ドラジェ」。日本では「金平糖」などと訳すから、わけがわからない。もともとは、シュトーレンなどと同様、クリスマスのためのドライフルーツなどの糖衣菓子のことで、この季節にちびちび楽しんで食べるもの。アドヴェントカレンダーと同じで、中は何味か、食べてみてのお楽しみ。ところが、これをネズミたちも狙う。だから、お菓子を守って、くるみ割り人形が戦う、というのが、本来の大筋。
 
なんでドラジェをくるみ割り人形が守っているのか、というと、ドラジェは、月餅の中身みたいなもので、クルミやアーモンドなどのナッツ類、プルーンやアプリコット、ブドウ、イチジクなどのドライフルーツを細かく刻んで丸めて砂糖でくるんだもので、もともとドラジェを作るのに、くるみ割りが必要だから。
 
粉砂糖の雪を越えて、お菓子の国に行った後、お礼にいろいろなのが踊って歓迎する。これも、日本の音楽の本は、デタラメな誤解だらけ。チョコレートは、もともとメキシコ産で、スペインのコルテスが持ち帰って普及させた。だから、ボレロ。つぎがコーヒー。これも、ヨーロッパにはアラビアから入ってきた。紅茶は、ブルターニュでお菓子の風味付けに。問題はここからで、トレパックは、いまのドイツのマジパンのこと。ミルリトンは、ノルマンディーの生クリームとアーモンドを使った丸いタルト。ジンジャーおばさんのポルチネッレは、英国のジンジャーブレッド人形たち。花のワルツが続くのも、おそらく花びらを糖衣で固めて飾ったから。
 
元の話だと、クララ(マリー)は、あちらでくるみ割りの王子と結婚して、もうこちらの世界には帰ってこない。伯父のドロッセルマイヤーも中途半端だし、ネズミも前半で消えて、プロットとして効いてこない。それで、バレエも、ただいろいろな踊りを見せるだけのショーケースの七段重ねみたいになってしまった。いずれ、くるみ割りの王子に、どうしてこうなったのか、ゆっくり聞いてみたい。

オーギュスト・コントと人類教

2023-12-11 14:11:00 | 日記

今週の講義は功利主義。しかし、大きな変革の時代にあって、話はいろいろ込み入っている。

それにしても、コントはひどい時代に生きた。ナポレオンが軍事学校としたエコール・ポリテクニークに入ったものの、王政復古をくらって退学。サンシモンの秘書となる。と言っても、サンシモンは、いまや零落貴族で、給与など払えるわけもない。だが、彼は来るべき産業時代を見据え、テクノクラート(技術官僚)主導の社会再編を熱く語った。そして、コントは24歳にしてこれを具体的なプランにまとめた。しかし、翌23年、サンシモンは貧苦に自殺を試み、25年に死去。

一方、コントは、25年、事実上の身元引受人として売春婦のカロリーヌ23歳と結婚。彼は貧しかったが、先のサンシモンとの産業主義の近代化プランにおいて、彼の才能は広く知られていた。そして、翌26年、自宅で実証哲学講義を開講。これにはベルリン大学総長フンボルト(1767~1835)ほか、当代の一流地至近立ちが集まった。しかし、この仕事の重圧と、止まぬ妻の不貞に、半年もしないうち、彼は精神に異常を来して失踪し、セーヌ河で入水自殺を試みる。

復古王政の閉塞もあって、彼がどうにか新時代のプランを語る講義を再開すると、いよいよ多くの受講生が集まった。そして、1830年、『実証哲学講義』第一巻を刊行。32年には、かつて中途退学したエコール・ポリテクニークの復習講師となる。しかし、1830年の七月革命で株屋の王ルイフィリップが政権を取ると、ロスチャイルド家などと結託して、産業革命抜き、つまりパイの拡大抜きに強引に資本主義を推し進めた。このために、労働者との軋轢が高まり、バクーニンの暴力革命論やマルクスの共産主義論が台頭。サンシモンやコントのテクノクラート主導の近代化プランは時代遅れと見なされ、また、彼の総合性は専門性の無さと否定的に評価され、教授への昇格は叶わなかった。くわえて、妻カロリーヌは、そんな夫の境遇を罵り、カネを毟り取って、放蕩に明け暮れ、彼の精神を痛めつけた。

この危機を救ったのが、ミルだ。コントとの往復書簡。ときにミル35歳、コントは43歳。ミルは、アダム・スミスの『道徳情操論』の延長線で、個人の共感に基づくミクロ的な理論構築を考えたのに対し、コントの近代化プランは、むしろ人類の知見のレガシーを基礎に据え、それをむしろ新たな経験的実証で修正していく《逆演繹法》というマクロ的な視野を与えた。ミルは、コントの実証主義の影響下で、これを『論理学大系』1843として纏める。

けれども、時代は彼らを残して激動する。この時代、中南米から輸入したジャガイモがヨーロッパの主食となっていたが、これが単一品種だったために、40年代にいっせいに疫病にかかり、一気に食料飢饉が起こった。そして、1848年、労働者や庶民が各国で二月革命が吹き荒れる。これを解決したのが、うさんくさいナポレオン三世。彼の方法は明快だった。アフリカやアジアの「土人」たちを植民地にして近代化してやろう。つまり、産業で自国のパイをでかくするのではなく、もっと手っ取り早く「土人」のパイを盗み食おうというわけだ。これには、国内の資本家たちも労働者や庶民たちも、みな賛成だ。

実際のところ、ミルは、これに先行する大英帝国の東インド会社行政官として、この解決法の上で安穏と暮らしていた。そして、1848年、『経済学原理』を著す。それは、アダムスミスの『国富論』、リカードの『経済学および課税の原理』1817が残した問題、すなわち、二月革命の原因となるような国内の貧富格差を解消する方法についてである。リカードやマルクスが労働価値説を採り、労働者の貧困を資本家の搾取のせいと見なすのに対し、ミルは、ベンサム流の〈大きな政府〉による再分配に期待した。

しかし、51年、すでに亡きフンボルトの『国家活動の限界を決定する試論』が出版され、ミルは、あらためてサンシモンやコントが描いていたテクノクラート主導の近代化プランの壮大さを理解する。そして、ミルは『自由論』1859において、上から与えられるベンサムの量的快楽主義を、満足するブタども、と呼んで決別し、人間の質的な快楽は個人の自由にある、と考え、他者を害さない限り、すべては許されるべきである、とし、政府がその物理的、政治的な制約を撤廃していくことで、再分配が図られると考えた。

一方、コントは、42年、ようやくカロリーヌと離婚。するとここに、弟子の姉で、ギャンブル狂いの夫に逃げられた若き女流作家クトティルドが現われる。17歳も年下だったが、おたがいに通じるところがあり、往復書簡を交わすようになる。しかし、47年、彼女は結核で死去。コントは毎週、彼女の墓を訪れ、やがて彼女を神聖化し、男女の恋愛を基幹とする人類教を創造するに至る。それは、無神論、唯物論であり、個人は死しても人類として生きる、と考える。

この人類教は、世界宗教としては成り立たなかったが、その影響を受けたクロリーは、1914年「ニューレパブリック」を創刊し、自由主義と反共福祉を訴えて、米国の政治に大きな影響を与える。同様に、ヨーロッパ諸国でも、その思想は民族単位に縮小され、地政学的な生存圏の主張とあいまって、民族社会主義、いわゆるナチズムにつながる。しかし、サンシモンやコントが考えた産業主義の近代化プランは、フランシス・ベーコンの構想した科学主義のニューアトランティスに基づくものであって、「土人」から略奪して貪るナポレオン三世やチェンバレンの安直な帝国主義ではなかったはずだ。