アレキサンダー大王は、どこまで行ったのか。前327年、「鉄門」で豪族オクシュアルテースを帰順させ、その娘ロクサーヌと結婚。この後、いっしょに東の豪族コホリエノスと周辺諸部族が立て籠もる難攻不落の渓谷の要害、高さ数百メートルもの絶壁に囲まれた巨大な円筒状の岩山「コホリエノス岩」へ。

この中央アジアの神秘を象徴するような「コホリエノス岩」は、カルカッタ東洋学校長スタイン卿(1862~1943)の四回(1901~01、06~08、13~16、30)もの調査をはじめとして、数々の探検家が現地周辺を捜索したが、いまだに比定地が不明。
安直な歴史書だと、「コホリエノス岩」を「ソグド岩」として「鉄門」のエピソードとごっちゃにしてしまっているものもあるが、渓谷と峠道では形状からしてまったく異なる。また、いくつかの写真もあるものの、まったく考証の無いイメージにすぎない。
わかっているのは、「コホリエノス岩」がアムダリヤ河上流ヴァフシュ(赤)川の深い渓谷の激流の中にそびえ立っていた、ということだけ。今日、バルクフ市のあるアムダリヤ川南岸よりも、タジキスタン首都ドゥシャンベ市をはじめとして、その北側のヴァフシュ川の広大な平原の方が栄えているが、当時、この平原は、毎年、ヒンズークシュ山脈から流れ出てくる怒濤の雪解水とその土石流が氾濫し、人が住めるようなところはなかった。しかし、現ドゥシャンベ市よりさらにヴァフシュ川を遡った渓谷こそ、ヒンズークシュ山脈パミール高原の間をぬって中国西域タクラマカン砂漠西端のオアシス、カシュガル市に抜ける最短ルートだ。
ところが、このあたり、いまだ造山帯として大地震だらけであるうえに、もともと岩石が脆く、おまけに毎年、大降雪の氷結融解を繰り返しているため、川が渓谷を浸食するまでもなく大きく崩落して、なだらかな山裾と、その土石流で埋められた両岸の扇状地がずっと東まで連なっている。また、この崩落でたびたび自然ダムとその決壊が繰り返えされ、そのうえ、ソ連時代の電源開発のダムもあり、当時のようすはほとんど残っていない。
しかし、「コホリエノス岩」は政治経済的な要衝にあったはず。となると、その場所は、北へはザラフシャン山脈を越えてタシュケントやサマルカンドへ通じ、南へはアムダリヤ川を渡ってカーブルへ抜け、また、東へはヴァフシュ川に沿って「シルクロード」に至る現ドゥシャンベのあたりにちがいない。
このあたりで川が蛇行して円筒状の巨大な岩山があったとすれば、かつてヴァフシュ川と北のカフィルニガン川が合流していたであろう地点だが、現在は川の流れも変わり、岩山も、その周辺も、丸い丘になってしまっている。また、ヴァフジュ川沿いが「シルクロード」最短コースながら、崩落がひどいため、紀元前後からは、サマルカンド、タシュケントを経て天山山脈の北を大きく迂回するルートの方が幹線となっていった。
モローの『アレキサンダーの勝利』:左下にかすかに象などが見られるように、彼の想像上のインドを描いたもの。しかし、風景からすると、これはまさに「コリエノス岩」の場面にふさわしい。モローは言う、「輝かしくおおいなるヘッラスの精神(ヘッレニズム)が、いま、神秘と幻想につつまれた、はるかかなたの未踏の地で勝ち誇っている」と。


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