ソフィストとソクラテス:ノモス、デマゴーグ、ダイモニオン(L06)大学標準哲学教程
あまり人の仕事を貶したくはないが、ちょっとひどかないか? この先生、どういう素性か知らないが、絵描きじゃない。イラストレーターだろ。デッサンの経験が無いとしか思えない。
今回、見てしまったのは、バランスのよい人物画、だとか。足を立派に画け、とか言っている。が、足があんな風に真横に見えることは、ありえない。そもそもウェストが真横線って、写真とすら似ていない。
たしかに人物のバランスを取るなら、足と腰、そして、肩だ。だが、そのとき、描かれる相手の人物だけでなく、描く自分が問題になる。じぶんより背が高いのか、低いのか、近いか、遠いか、で、見え方がまったく異なるからだ。安直なマンガ家やイラストレーターが写真の合成で絵を捏ち上げようとすると、この、描く自分がぐちゃぐちゃになる。
まず第一、腰。真横線、ということはありえない。人間の骨盤は、絶対的に前傾している。壇上のモデルでもなければ、相手の腰は、描く自分の目の高さより低いのが一般的で、楕円、それも背骨から前へ傾いて見える。とくに女性は、その楕円が幅広で、より前傾が深い。それが背中側でヒップのボリュームにもなる。
次に肩。曲げた腕の側は、肩から下がる。それに首に対して、前に出る。インバースキネマティクスでもよく知られているように、肘だけが曲がるのではなく、手首の位置に合わせて、肘はもちろん、背骨の付け根から肩先にかけても下がる。逆に、まっすぐに下ろした腕は、肩が上がる。これは大胸筋側の都合だ。
そして、足先。これは、腰の楕円の左右から、それぞれの足のかかとに直線を下ろした延長線上に爪先が前に出る。そうでないのは、O脚かX脚だ。いずれにせよ、描く自分の目より低いから、真横などということはありえない。
逆に頭は、腰の楕円と肩の中心を結んだ線に水平直行する向きになるのが、ふつう。もちろん、首だけひねる、なんていうポーズもあるが、そうなると、背中心も反対にズレる。この背中心は、女性の場合、前後の奥行があるためにとくに重要で、着衣であっても、肩から下がって胸の正面の高さと向きを決めることになる。
こういったことは、実際にいくつもデッサンをしたことがあるまともな絵描きならば、だれでも経験的に知っている。近ごろ、ちょこちょこっと、お絵かき上手が、シロウトだましで跋扈しているが、本気で上達したいなら、『かくかくしかじか』のように、うるさくても、ちゃんとした先生に習った方がいい。

4月23日、東京地裁が、日本美術院敗訴の判決を出した。もとはといえば、23年春の院展に出された梅原の作品(左)に、国司が、2002年春に院展に出した自分の作品(右)のパクリだ、と騒ぎ出して、23年4月28日に、日本美術院下田義寬理事が、梅原を追放処分にしたこと。梅原は、その処分無効を訴えていた。
背景がドロドロしていて、そもそも02年の国司の作品を選出したのが藝大の先輩の梅原。いまは、国司が藝大の日本画「修復」の教授。そして、梅原の処分をしたのが、下田義寬理事で、こいつが1987年に、写真のモロパクリで藝大を追われている。ようするに、狭い世界の内輪揉め。
で、裁判にしても、周辺にしても、似てる、似てない、で、ああだこうだ、と。結局、どいつもこいつも、目に見える部分でしか、芸術をわかっていない。そんなこと言ったら、ヨーロッパのキリスト像、日本の仏像なんて、みんな似たり寄ったりの「パクリ」だぞ。
はっきり言って、あまりに凡庸で、どっちも才能が無い。それを審査した理事なんか、仲間内でなんぼのものか知らないが、芸術家を名乗る資格からして無い。下田の作品が最低なのは、絵が似ているから、ではなく、親鷹と雛鳥というテーマそのものがパクリだから。技術はあっても、内面に描きたいものが無い、つまり芸術家ではないからだろう。
梅田にしても、国司の作品を選出したことを覚えていない、きちんと創作ノートもある、と言うが、他人でも思いつくようなアイディアなら、わざわざ展覧会に出すほどの作品ではない。つまり、パクリではないにしても、こんなレベルの低いもん、出すなよ、という話。(オーガンディスカートは、2022年あたりからの新流行で、たしかに国司のバレエチュチュのパクリではありえない。)
国司も、どうなんだろう。この手のオーガンディチュチュの女の子は、バレエが当時のはやりだったから、印象派のドガやルノアールが大量に描いている。近年では、米国のマリア・バートランがモティーフにしている。それこそ梅原の作品と同じ手の組み方のバートランの作品が2017年にある。ようするに、これももともと凡庸で、パクられた、などと騒ぐのは、電波系さえ疑われる。
日本美術院だかなんだか、勲章に近いから、こんな内部の権力争いが起こるのだろうが、インチキ理事の判断だの、ドシロウト法律家の裁判だの、アーティストのやる争いごとかね。作品で勝負するのが、アーティスト。シャネルスーツの紛いものが世に出回ったとき、イヤミな新聞記者がココ・シャネルに、訴えないのか、と問いただした。すると、ココは、答えてこう言った、マネできるものなら、マネすればいい、明日、私はもっと先にいる、ニセモノが多いほど、私はホンモノになれる、と。
もう手作業でMIDI入力なんて、どうやってもかなわんわ。youtubeとか、AI生成だらけ。SunoやUidoは、スタイルの呪文をぶちこめば、果てしなくそれっぽい楽曲を大量に吐き出してくる。1940年代ジャズとか、1980年代シティポップとか、元ネタサンプルが大量にある分野ほど、かんたんに十曲以上のアルバムができてしまう。それで、日本語の歌付きでも、ばんばんアップロードしてきている連中がいて、これがけっこうよくできているから、作業中のかけっぱなしのBGMとしては、そりゃ自分もそういうのを聴いてしまうこともしばしば。
イラストのAIはまだまだ。サンプリングの時点で画像内の時代や地域の考証みたいな知的なタグ付けができていないから、使いものにならない。が、音楽の方は、元ネタのジャンル分けがしやすいからだろう。平面全体を使うものと較べれば、有限の楽器で有限の時間、分割密度もせいぜい16分音符にアタックやサステインする程度だったら、単純に順列組み合わせ。
まさにAI資本主義。カネさえかければ、それでyoutubeの視聴時間を占拠して、リターンもそれ以上にあるのだろう。とはいえ、じゃあ、自分がやりたいか、というと、エクセルだの、パソコンの修理だの、それを仕事と割り切れば、やりゃあやれるだろうし、カネにもなるとはいえ、そんなことに人生を費やしてるほどヒマじゃない。おもしろくない。
逆に、いまや元ネタの本物たちを発掘するのが、楽しい。AIミュージックは、まるで日産の車のデザインみたいに、大人数の会議を重ねた結果のような凡庸な平均値しかない。なんでもあるが、どれもほしいと思う決定打が無い。つまり、どれも尖っていない。それに較べて、生の元ネタは、当時の試行錯誤の模索途中で、みんなおかしいし、奇抜なものが大量に混ざっている。そんなのを、ぜんぜん違うところのやつがアーカイヴして残していたりする。
https://youtu.be/rjwqxhg5-BY?si=7KwXCXmse0k05Kiy
まあ、お笑いでも、アートでも、マンガや思想書でもそうだが、いちばん売れるのは、視聴者、読者の同類。テレビなんて、そんなのの吹きだまり。利益最大化を図って売れ筋ばかりを追いかけると、マーケットのもっともボリュームのでかい凡庸中間層をターゲットにすることになるにきまっている。が、さほど老い先も長くない自分が、なんでいまさらそんな連中につきあって、へらへら媚びて笑わんとならんのだ?

