YU-NOエンディング批評~たくやの行動原理とエンディングの齟齬~

2012-03-23 18:57:36 | YU-NO

「YU-NOエンディング批評」シリーズの続き。詳細は以下の記事・リンクを参照してほしいが、簡単に言えば「エンディングそのものは壮大な物語の最後として相応しいものだけれども、繰り返し描かれてきた有馬たくやのパーソナリティに合致しておらず、それが腑に落ちない感じを与えてしまう」のが問題という趣旨のことを言っている。なお、「エンディング批評に関するフラグメント」については該当の記事が見つからず詳細不明。

 

[原文]
さて、「YU-NOエンディング批評」に始まり「YU-NO~エンディングの意味・効果について~」、「YU-NO~エンディングに関するフラグメント~」、そして「YU-NOエンディング批判について~それは個人的嗜好によるものか~」とYU-NOのエンディングに対する違和感の根源やその問題点について述べてきた。今回は、問題点の確認及びその改善案について書き、まとめとしたい。


今までの話は、「静謐なエンディングとたくやのキャラクターの齟齬に問題がある」という具合に要約できる。これに対し、極端ではあるが、「プレイヤーにとって意味があれば十分で、たくやのキャラクターについて考える必要は全くない」という反論を想定することも可能である。なるほど確かに、一般的な恋愛ADVであれば、主人公は選択肢や攻略対象などである程度は行動原理が変化する「白紙」のような性質を持っているため、全てが統合され、かつ静謐な空間において展開されるエンディングではそれを疑いなく受け入れ静かに振舞うのも不思議ではなく、上記のような反論もあながち的外れではあるまい。


しかしながら、YU-NOのたくやは特異な背景に基づく一貫した行動原理を有する人物として描かれており、時にプレイヤーの快楽原則(とあえて言うが)と衝突することも少なくない。例えばそれは、亜由美や澪への振舞い、(あまりに)熱くなりやすい性質、クンクンの扱い、あるいはデラ=グラントを救う儀式(最後のシーン)における振舞いにおいて顕著に顕れている(家族の希求と同時に強いエディプスコンプレックスを抱えるたくやの亜由美に対する複雑な感情・振舞いが全くの第三者たる我々の感覚と一致するはずがそもそもないのだ)。現世編のマルチエンディングと記憶の喪失は確かに多重人格的なのだが、それはあくまで強固な行動原理に支えられており、「白紙」の主人公と同一でないことに注意する必要がある(ゲームとしての事情も去ることながら、約50時間に及ぶ事象の分岐があの範囲で収まる必然性を確保するためにも、一貫した行動原理はなくてはならないものである)。


要するに、有馬たくやは「白紙」(可変)的な、言い換えればプレイヤー従属的な部分が相対的に少ないのであり、その一貫した行動原理が現世編に始まって最後の最後まで物語を規定している以上、上記の反論は物語の構造を無視したものだと言わざるをえないだろう。


さて、エンディングの性質とたくやのキャラクターとの齟齬を問題にする合理性を改めて確認したところで、たくやが本編でどのように描かれているかを検証したいと思う(前者については、冒頭で挙げた過去ログを参照してほしい)…のだが、先まで書いていたら4000字を超える可能性が濃厚になってきたのでここまででとりあえず前半とし、次の記事(リンクを貼る予定)でたくやの振舞いを具体的に取り上げていくことにしよう。


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