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日本人の心畳のある住まい・・・

2015-08-19 21:38:40 | 副業で稼ぐ

    2015・08・20

畳の歴史・・・

奈良時代(710~794)、

現存する畳の、

古いものは奈良東大寺の、

 

 

北西にある正倉院に、

 

 

聖武天皇が使用された、

「御床畳」(ごしょうのたたみ)、

と言うのがあり、

木製の台の上に置かれ、

寝台として、

使われたものである。

 

 

これは現在の畳と同じように、

 

 

真薦(マコモ)を編んだ筵のようなものを、

 

 

5~6枚重ねて床として、

 

 

表にイ草のコモをかぶせて、

 

 

錦の縁をつけたものである。

 

 

この台を二つ並べてベッドとしていた。

 

 

(2370×1190×385mm)、

 

 

平安時代(794~1192)、

 

 

この時代に入って、

貴族の邸宅が寝殿造の、

建築様式・・

(寝殿造(しんでんづくり)は、

平安時代の都の、

高位貴族住宅の様式。

 

 

寝殿(正殿)と呼ばれる中心的な、

建物が南の庭に、

面して建てられ、

 

 

庭には太鼓橋の、

かかった池(遣り水)があり、

東西に対屋(たいのや)と、

呼ばれる、

付属的な建物を配し、

それらを、

渡殿(わたどの)でつなぎ、

更に東西の対屋から、

渡殿を南に出して、

その先に、

釣殿(つりどの)を設けた)。

 

 

となると、板敷の間に、

 

 

座具や寝具などとして、

 

 

畳が所々に置かれるようになった。

 

 

この置き畳として使われている様子は、

 

 

絵巻物等に描かれている。

 

 

そして使う人の位によって畳の、

 

 

厚さや縁についての規定があり、

 

 

その種類によって、

 

 

使う人も決まっていたのである。

 

 

京都御所の、

清涼殿は寝殿造を、

今に伝える建物として、

知られているが、

ここに使われている畳は、

平安時代の古い制度を、

残している。

 

 

「夜御殿」(よんのおとど)は、

 

 

天皇の寝室で、

 

 

部屋の中央に、

繧繝縁(うんげんべり)の、

厚畳二枚を敷き、

その上にさらに一枚置いて、

そのまわりを、

大宋屏風(たいそうびようぶ)で、

囲ってある。

 

 

(230 ×835×90)、

 

 

「昼御座」(ひのござ)は、

繧繝縁の厚畳二枚を並べて敷き、

上に御茵(おしとね・・しきもの)が、

置かれ、

儀式のときだけ、

御座されたと言われています。

 

 

(1915×950×95)、

 

 

鎌倉時代(1192)~室町時代(1338)~江戸時代(1603)、

 

 

やがて鎌倉時代から、

室町時代にかけて、

書院造(日本の室町時代から、

近世初頭にかけて、

成立した住宅の様式である)が、

 

 

完成される。

 

 

この頃になると、

 

 

部屋の周囲に畳を敷き、

 

 

真ん中を残す使い方から、

 

 

部屋全体に畳を、

敷きつめる使い方になった。

 

 

それまでの客をもてなす、

座具であった畳が、

 

 

建物の床材に、

なり始めてゆきます。

 

 

こうした贅沢な使い方が、

出来るのは、

 

 

貴族でも一部で、

 

 

富の象徴であったようです。

 

 

畳が貴族階級に普及し始めると、

 

 

今度は畳縁の文様によって、

座る人の、

階級を規定したのである。

 

 

それは、

「海人藻芥」(あまのもくず)、

(1420)に使用規定が、

記されている。

 

 

天皇は当時でも、

貴重な最高の織物である、

 

 

繧繝錦の繧繝縁が用いられ、

 

 

又神仏の前に座る、

半畳にも、

 

 

繧繝縁が使われた。

 

 

ついで親王や大臣は、

大紋の高麗縁。

 

 

公卿には小紋の、

高麗縁で、

 

 

僧正や僧侶や四位、

五位の人は紫縁。

 

 

六位の侍、

 

 

寺社を統領する、

三種の役僧は、

 

 

黄縁を使うように、

定められていた。

 

 

この頃になると布団と、

 

 

畳の役割が分かれ、

 

 

小さな部屋割りに

 

 

畳を敷きつめるようになる。

 

 

桃山時代(1573~1603)から、

 

 

江戸時代へと移るにしたがい、

 

 

書院造は、

茶道の発達によって、

 

 

軽快な書院造、

 

 

それは本格的な、

格式ばったものではなく、

 

 

茶室の工夫や、

手法を取り入れた、

 

 

数寄屋風の書院造に、

なっていきました。

 

 

茶室建築から、

畳はやがて、

 

 

町人の家に、

引き継がれてゆき、

 

 

畳が一般庶民のものと、

なったのは、

 

 

江戸中期以降のことであり、

 

 

農村においてはさらに遅く、

 

 

明治時代になってからである。

 

 

「起きて半畳、寝て一畳」

 

 

「千畳敷に寝ても一畳」

 

 

「畳の上の水練」(理論や方法を

 

 

知っているだけで、

 

 

実際の役には、

立たないことのたとえ。

 

 

「新しい畳でも叩けば埃がでる」

 

 

「女房と畳は新しい方がよい」

 

 

このような故事が、

生まれるほど、

 

 

一般に普及したのである。

 

 

この頃長屋では、

 

 

畳は長屋を借りる、

店子が運び込んで、

 

 

使ったと言われており、

 

 

大家が用意して、

おくものではなかった。

 

 

それだけに畳の手入れをして、

 

 

長持ちさせる、

知恵を身につけていた。

 

 

畳み干しをこまめにして、

 

 

傷むのを防ぎ、

 

 

表がやけたら、

裏返しをして使っていた。

 

 

こうした習慣は、

戦後まで続いたが、

 

 

過密化した最近の都市では、

干す場所もなく、

 

 

家具も多くなって、

畳を上げるのが面倒になり、

 

 

姿を消しつつあるのである。

 

 

住まいと環境より。

 

其れでは亦・・・

 

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