『どうしても「許せない」人』 加藤諦三・著、KKベストセラーズ(ベスト新書)、2008年1月19日
p.23 小さい頃に自己蔑視を強いられた人は、気がつかないうちに気が遠くなるほどの憎しみの感情を、心の底に溜め込んでいる。人が迎合しているあいだに無意識の領域で支払っている代価の大きさは、ものすごいものである。
p.26 あなたは、周囲の人から不当な扱いを許していたのではないか。抗議すべきところを卑屈に笑っていたのではないか。周囲の人があなたを心理的に虐待することを許していたのではないか。
p.27 あなたは、迎合すれば守られると思っている。しかし違う。あなたは闘うことで守られるのである。闘うあたなを粗末に扱ってはいけないと感じる。
迎合とは「虐待を続けていいですよ」というサインでもある。あなたが迎合したら、相手はあなたを舐める。そしてあなたはもっと虐待される。
p.40-1 自分を憎み、軽蔑した人は他人を恐れている。そして実は他人を憎んでいるのである。人を憎むといっても表面的には礼儀正しく振る舞い、好意的でさえある。しかし心の底では具体的なある人を憎んでいる場合もあれば、人生や世の中全体を憎んでいる場合もある。
p.64 人間は目的があればどんなことにも耐えられるというが、自らの自我の確立のために、憎しみの感情のコントロールをするのである。
p.67-8 憎しみの感情に飲み込まれそうになったときに、これを自らの自我確立の作業をする“良いチャンス”と捉えることである。
不幸は必ずしも「悪いこと」ではない。
p.80 心の痛むような人は、もともと人を地獄に突き落とすことはしない。騙す人は、人を地獄に突き落とす喜びを感じて、自分に「自信」をつけているのである。
ずるい人というのには、人の心がないと思った方がよい。騙す人は普通の善良な人の感覚がない。
p.83-4 人を騙す人を観察すると、確かになんとも異様な雰囲気を醸し出している。自分の利益、それが彼らの全世界である。それ以外のものは何もない。自分の利益のためなら、どのような人でも騙す。恩義のある人でも騙す。命の恩人でも騙す。嘘をつく。
それでいて自分がひどいことをしているという意識はまったくない。なぜなら彼らにとってリアリティーのあるものは、自分の利益だけだからである。他人の気持ちなど彼らにとっては何のリアリティーもない。自分が騙した人がどれだけ傷つき、苦しみ、滅びていっても、何も感じない。人に同情するということは一切ない。
p.87 「命を大切にする」とはどういうことだろうか。それは、自分の限られた命を、生産的に生きるということである。
p.103 我々は育つ過程で、モラルや社会常識に反するさまざまな「許されない感情」をもつ。そして中には、それを「悪」として無意識へ追いやる人もいる。そうすれば、自分の感情が否定されるため、自分が自分であることが許されなくなる。自分を許せない人は、まわりも許せなくなる。
p.105 自分が変われば世界は変わる。それは自分が変われば、今まで悔しかったことが、悔しいことではなくなるかもしれないという意味である。自分が変われば、怒りの対象であった世の中が、感謝の対象になるかもしれないという意味である。悔しいことが悔しいことでなくなるかもしれないという意味である。
p.128 「将に将たる器」という言葉がある。将たる器とは感情的、どんなにつらくても憎しみを乗り越える人である。「許せない」という感情を乗り越えられる人である。
p.129 人は理屈で、人の上に立つのではない。心で人の上に立つのである。自分自身に対する不公平を許せることが人の上に立つ器量である。自分に嫌なことをした人の気持ちを考えてあげられる「心のゆとり」が、人の上に立つ器量である。
p.132 多くの人は、長い人生で、悔しさで嶺がはちきれそうになるときが、たびたびあるだろう。そんなときには「いつか思い知らせてやる、必ず勝ってみせる。最後は必ず勝つ」、そう心に誓うことである。
p.167 生命力が落ちているときには、悩みを顕微鏡で拡大して見てしまう。これもまた悪循環を形成していく。
p.175 「必ず」ということを誓うのである。つまりこの「悔しい事態」に自分は「必ず対処できる」という確信を持つのである。
「この事態を何とか改善する力が自分にある」と信じることである。それは自分を信じることである。
p.23 小さい頃に自己蔑視を強いられた人は、気がつかないうちに気が遠くなるほどの憎しみの感情を、心の底に溜め込んでいる。人が迎合しているあいだに無意識の領域で支払っている代価の大きさは、ものすごいものである。
p.26 あなたは、周囲の人から不当な扱いを許していたのではないか。抗議すべきところを卑屈に笑っていたのではないか。周囲の人があなたを心理的に虐待することを許していたのではないか。
p.27 あなたは、迎合すれば守られると思っている。しかし違う。あなたは闘うことで守られるのである。闘うあたなを粗末に扱ってはいけないと感じる。
迎合とは「虐待を続けていいですよ」というサインでもある。あなたが迎合したら、相手はあなたを舐める。そしてあなたはもっと虐待される。
p.40-1 自分を憎み、軽蔑した人は他人を恐れている。そして実は他人を憎んでいるのである。人を憎むといっても表面的には礼儀正しく振る舞い、好意的でさえある。しかし心の底では具体的なある人を憎んでいる場合もあれば、人生や世の中全体を憎んでいる場合もある。
p.64 人間は目的があればどんなことにも耐えられるというが、自らの自我の確立のために、憎しみの感情のコントロールをするのである。
p.67-8 憎しみの感情に飲み込まれそうになったときに、これを自らの自我確立の作業をする“良いチャンス”と捉えることである。
不幸は必ずしも「悪いこと」ではない。
p.80 心の痛むような人は、もともと人を地獄に突き落とすことはしない。騙す人は、人を地獄に突き落とす喜びを感じて、自分に「自信」をつけているのである。
ずるい人というのには、人の心がないと思った方がよい。騙す人は普通の善良な人の感覚がない。
p.83-4 人を騙す人を観察すると、確かになんとも異様な雰囲気を醸し出している。自分の利益、それが彼らの全世界である。それ以外のものは何もない。自分の利益のためなら、どのような人でも騙す。恩義のある人でも騙す。命の恩人でも騙す。嘘をつく。
それでいて自分がひどいことをしているという意識はまったくない。なぜなら彼らにとってリアリティーのあるものは、自分の利益だけだからである。他人の気持ちなど彼らにとっては何のリアリティーもない。自分が騙した人がどれだけ傷つき、苦しみ、滅びていっても、何も感じない。人に同情するということは一切ない。
p.87 「命を大切にする」とはどういうことだろうか。それは、自分の限られた命を、生産的に生きるということである。
p.103 我々は育つ過程で、モラルや社会常識に反するさまざまな「許されない感情」をもつ。そして中には、それを「悪」として無意識へ追いやる人もいる。そうすれば、自分の感情が否定されるため、自分が自分であることが許されなくなる。自分を許せない人は、まわりも許せなくなる。
p.105 自分が変われば世界は変わる。それは自分が変われば、今まで悔しかったことが、悔しいことではなくなるかもしれないという意味である。自分が変われば、怒りの対象であった世の中が、感謝の対象になるかもしれないという意味である。悔しいことが悔しいことでなくなるかもしれないという意味である。
p.128 「将に将たる器」という言葉がある。将たる器とは感情的、どんなにつらくても憎しみを乗り越える人である。「許せない」という感情を乗り越えられる人である。
p.129 人は理屈で、人の上に立つのではない。心で人の上に立つのである。自分自身に対する不公平を許せることが人の上に立つ器量である。自分に嫌なことをした人の気持ちを考えてあげられる「心のゆとり」が、人の上に立つ器量である。
p.132 多くの人は、長い人生で、悔しさで嶺がはちきれそうになるときが、たびたびあるだろう。そんなときには「いつか思い知らせてやる、必ず勝ってみせる。最後は必ず勝つ」、そう心に誓うことである。
p.167 生命力が落ちているときには、悩みを顕微鏡で拡大して見てしまう。これもまた悪循環を形成していく。
p.175 「必ず」ということを誓うのである。つまりこの「悔しい事態」に自分は「必ず対処できる」という確信を持つのである。
「この事態を何とか改善する力が自分にある」と信じることである。それは自分を信じることである。