「伝説の灘校教師が教える 一生役立つ学ぶ力」 橋本武・著、日本実業出版社、2012年2月1日
p.17 実はこの「学ぶ」という義務を「遊ぶ」という気持ちに切り替えられれば、子どもたちは進んで「学ぶ」ことに参加するようになります。
p.22-4 実際、このようなことができたとしても、一見、何の意味もありません。しかし、学びとはときに意味がなくても面白ければいいのです。これも「遊ぶ=学ぶ」なのですから。
しかも、こういった遊びをしているうちに、頭が刺激を受け、記憶力も促進される。また、何かもっと難しいことを覚えなければならないときも、このような経験をしているかしていないかで、差が付くわけです。
p.49 ただし、子どもに対し「国語力は大事だ」ということを言ってみたところで、どうしようもありません。そうではなく、自然とそういったことがわかる、感じられるようにもっていくのが教師、大人の役目。
p.72 とにかく読めるだけ読めばよい。わからなくても読み通してさえおけば、次に細かく見ていくときに必ず役に立つ。全部がわからないということはないだろう。わかるところもあるのだから、まずはそこだけ理解すればいいのだと。
p.97 「こうしろ」と指図されたり、あるいは、「こうはするな」と注意されたりしたら、新米教師は言われた通りにやればそれで事足れりと思ってしまうのでしょう。しかし、上に何も言われなければ、いやでも自分のなし得る最善の方法を考えて実践しなければなりません。
ですから、好きでこうと決めたことに馬車馬のように突き進んで行くことができたのは、自分の性格もさることながら、こうした無言の指導法のおかげでもあったわけです。
p.106 こうして子どもたちは、授業を受けるのではなく、自然と授業に「参加」していきました。自然に面白がる、自然に楽しめる、そうすれば、自然と学ぶようになります。押しつけでは絶対にこうはなりません。
p.108 教師の仕事というのは自分の人間性を生徒にぶつけること
p.122 それから、人に対しての発言に気をつけろということも、常に言い続けました。たとえば、友だちに腹を立てたときも、怒る前に「こんな言い方をしたら相手はこう思うはずだ」と、一度頭で考えてから行動しろということです。
p.125 何と言っても、灘校には生徒に対する成文化した決まりがありません。つまり、一見何もかも自由だと思い込める環境だと言えます。今の世の中も似た感じかもしれません。だからこそ、分不相応な自由を諭す際には、わかりやすい理をもって納得させる、これが一番効き目があるのです。
p.126-7 自由という金看板を楯にして自己中心的な行動をとる子には、それをきつく戒めなければなりません。
自分のことしか考えられない、頭に入ってこないということは、まだまだ子どもだということ。人に対する思いやりの気持ち、これが自然と身に付いたとき、人ははじめて大人になるのです。
p.154-5 「横道」にすっかりそれたあとに、改めて本筋を見てみる、本筋に戻ってみる。すると、本筋たる勉強や仕事はきっと前よりずっと湯豊かになるでしょう。
人間が生きていくかぎり、いろいろなことに直面し、いろいろなことを考えなければならないでしょう。そうなると、「横道」経験が多ければ多いほど、そうしたさまざまな事態への対応力もより高まるのです。
p.159 「横道」というものは、つまり考えるきっかけのこと。この「横道」は、実は日常生活のあらゆるところに張り巡らされています。要は、これに気づくかどうかだけなのです。
こんなことは、調べてみてもわからないかもしれない。しかし、わかるかわからないは別にして、そういったことを考えること自体が面白い。
p.17 実はこの「学ぶ」という義務を「遊ぶ」という気持ちに切り替えられれば、子どもたちは進んで「学ぶ」ことに参加するようになります。
p.22-4 実際、このようなことができたとしても、一見、何の意味もありません。しかし、学びとはときに意味がなくても面白ければいいのです。これも「遊ぶ=学ぶ」なのですから。
しかも、こういった遊びをしているうちに、頭が刺激を受け、記憶力も促進される。また、何かもっと難しいことを覚えなければならないときも、このような経験をしているかしていないかで、差が付くわけです。
p.49 ただし、子どもに対し「国語力は大事だ」ということを言ってみたところで、どうしようもありません。そうではなく、自然とそういったことがわかる、感じられるようにもっていくのが教師、大人の役目。
p.72 とにかく読めるだけ読めばよい。わからなくても読み通してさえおけば、次に細かく見ていくときに必ず役に立つ。全部がわからないということはないだろう。わかるところもあるのだから、まずはそこだけ理解すればいいのだと。
p.97 「こうしろ」と指図されたり、あるいは、「こうはするな」と注意されたりしたら、新米教師は言われた通りにやればそれで事足れりと思ってしまうのでしょう。しかし、上に何も言われなければ、いやでも自分のなし得る最善の方法を考えて実践しなければなりません。
ですから、好きでこうと決めたことに馬車馬のように突き進んで行くことができたのは、自分の性格もさることながら、こうした無言の指導法のおかげでもあったわけです。
p.106 こうして子どもたちは、授業を受けるのではなく、自然と授業に「参加」していきました。自然に面白がる、自然に楽しめる、そうすれば、自然と学ぶようになります。押しつけでは絶対にこうはなりません。
p.108 教師の仕事というのは自分の人間性を生徒にぶつけること
p.122 それから、人に対しての発言に気をつけろということも、常に言い続けました。たとえば、友だちに腹を立てたときも、怒る前に「こんな言い方をしたら相手はこう思うはずだ」と、一度頭で考えてから行動しろということです。
p.125 何と言っても、灘校には生徒に対する成文化した決まりがありません。つまり、一見何もかも自由だと思い込める環境だと言えます。今の世の中も似た感じかもしれません。だからこそ、分不相応な自由を諭す際には、わかりやすい理をもって納得させる、これが一番効き目があるのです。
p.126-7 自由という金看板を楯にして自己中心的な行動をとる子には、それをきつく戒めなければなりません。
自分のことしか考えられない、頭に入ってこないということは、まだまだ子どもだということ。人に対する思いやりの気持ち、これが自然と身に付いたとき、人ははじめて大人になるのです。
p.154-5 「横道」にすっかりそれたあとに、改めて本筋を見てみる、本筋に戻ってみる。すると、本筋たる勉強や仕事はきっと前よりずっと湯豊かになるでしょう。
人間が生きていくかぎり、いろいろなことに直面し、いろいろなことを考えなければならないでしょう。そうなると、「横道」経験が多ければ多いほど、そうしたさまざまな事態への対応力もより高まるのです。
p.159 「横道」というものは、つまり考えるきっかけのこと。この「横道」は、実は日常生活のあらゆるところに張り巡らされています。要は、これに気づくかどうかだけなのです。
こんなことは、調べてみてもわからないかもしれない。しかし、わかるかわからないは別にして、そういったことを考えること自体が面白い。
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