『「空気」の研究』 山本七平・著、文春文庫、1983年10月25日
p.14-5 「いや、そう言われても、第一うちの編集部は、そんな話を持ち出せる空気じゃありません」
大変面白いと思ったのは、そのときその編集員が再三口にした「空気」という言葉であった。彼は、何やらわからぬ「空気」に、自らの意志決定を拘束されている。いわば彼を支配しているのは、今までの議論の結果出てきた結論ではなく、その「空気」なるものであって、人が空気から逃れられない如く、かれはそれから自由になれない。
p.21 「空気」といわれる以上、それが一種の力をもちうるのは、何らかの気圧のような圧力があるからであろう。人はそれを感ずるから「空気」と表現したに相違ない。従って、この空気に対抗して論争した論説を、その空気が消え去った後で読むと、その人びとが、なぜこんなに一心不乱に反論していたかが、逆にわからなくなってくる。
p.22 従ってわれわれは常に、論理的判断の基準と、空気的判断の基準という、一種の二重基準のもとに生きているわけである。
p.59 福沢諭吉はお札は踏めたが、これは「過去のお札」だから踏めたのである。それ自体は何ら根本的解決ではないから、すぐに彼にも絶対に踏めない「文明開化」の新しいお札が出てくる。教育勅語であり、御真影である。“化学的”な言い方に従えば、双方とも紙であり、一方は印刷インキ、一方は感光液がついているだけの物質である。
p.14-5 「いや、そう言われても、第一うちの編集部は、そんな話を持ち出せる空気じゃありません」
大変面白いと思ったのは、そのときその編集員が再三口にした「空気」という言葉であった。彼は、何やらわからぬ「空気」に、自らの意志決定を拘束されている。いわば彼を支配しているのは、今までの議論の結果出てきた結論ではなく、その「空気」なるものであって、人が空気から逃れられない如く、かれはそれから自由になれない。
p.21 「空気」といわれる以上、それが一種の力をもちうるのは、何らかの気圧のような圧力があるからであろう。人はそれを感ずるから「空気」と表現したに相違ない。従って、この空気に対抗して論争した論説を、その空気が消え去った後で読むと、その人びとが、なぜこんなに一心不乱に反論していたかが、逆にわからなくなってくる。
p.22 従ってわれわれは常に、論理的判断の基準と、空気的判断の基準という、一種の二重基準のもとに生きているわけである。
p.59 福沢諭吉はお札は踏めたが、これは「過去のお札」だから踏めたのである。それ自体は何ら根本的解決ではないから、すぐに彼にも絶対に踏めない「文明開化」の新しいお札が出てくる。教育勅語であり、御真影である。“化学的”な言い方に従えば、双方とも紙であり、一方は印刷インキ、一方は感光液がついているだけの物質である。