『よき経営者の姿』 伊丹敬之・著、日本経済出版社、2007年
本書は経営者のあるべき姿を、顔つき、仕事、資質、育ち方、失敗、退き際の6章から分析し、解説したものである。帯にもあるように、昨今の経営者の多くに対して「社長ごっこはもうやめよう」と、自らの姿に対して冷静な反省を求めている。
折りしも、関西テレビの社長が、ようやく辞任を表明した。
関テレ:旧体制引きずり信頼回復できる?…疑問の声噴出
情報番組「発掘!あるある大事典2」のねつ造問題で、放送への信頼を根幹から失墜させた関西テレビ(大阪市北区)。経営責任を追及され続けてきた千草宗一郎社長は3日、ついに引責辞任を発表した。その一方、千草社長は取締役として経営陣に残り、陰の実力者とされるフジテレビ出身の出馬迪男会長の留任も決定した。「再生」を誓う関テレだが、旧体制を引きずったまま信頼回復ができるのか。疑問の声が噴出している。
問題発覚から2カ月半。千草社長は「ずっと責任の取り方を考えてきた。再発防止策を構築するのが責務だと考えてきた。問題が大きくなり、視聴者に対する説明責任を果たした後、最終判断を下すべきだと考えていた」と、この日に判断が至った経緯を明かした。
一方で、取締役として経営陣に残る判断について、「きちんと責任を取ったと考えているのか」「不信払しょくにつながるのか」と報道陣から厳しい質問が相次いだ。しかし、千草社長は「今後、再発防止、改善に努め、視聴者の信頼を取り戻すことこそが、責任を果たすこと」とかわし、判断が甘いとの批判を一蹴(いっしゅう)した。
また、処分が報酬の自主返上だけにとどまった出馬会長の責任について、「会長は、会社経営全般をみていく。社長は業務執行の最高責任者ということで、同じ代表権者でもそこが違う」(片岡正志常務)と苦しい説明。千草社長も「すべて私の責任と思っております」と答えるにとどまった。
「よき経営者の姿」とは正反対であることはいうまでもない。番組をおろそかにしておきながら、直接自分が手を下していないことで、結果責任はあるとしてもあまりにも罪の意識に乏しい。番組への信頼性を確実にしてこなかったのは担当者だから、自らの責任は軽いと思っているのではないか。減給程度で済むと思っていたのかもしれない。
番組へのコミットメントをたいして行ってこなかった、不作為にも近い状態ではないのだろうか。
だから突然、権力の座から追われることに抵抗する。しがみつくともいう。自らの運営や人事の誤りこそ、最大のミスであることに気づいていないようにすら見える。明らかに退き際のタイミングを逸しているようだ。
まだ体力的にも年齢的にも、十分できる思っているにちがいない。しかし判断能力において、とっくに終焉を迎えていることは明白である。数字的な年齢が問われているのではない。
本書では、「こうした退き際の間違い、とくに「まだ」の間違いを起こさせる最大の要因はおそらく、権力への未練である。未練が、「まだ」と思わせる。」(p.208)と述べている。
経営陣に居残る(居座りつづける)というのだから、これからも影響力を行使し続けるということだ。それでは退いていないことと同じではないか。「もっとも醜い退き際であろう。」(p.208)という、まさに典型的な悪しき経営者の姿が、関西テレビでは進行している。経営陣ではない社員の悲哀はいかばかりか
本書は経営者のあるべき姿を、顔つき、仕事、資質、育ち方、失敗、退き際の6章から分析し、解説したものである。帯にもあるように、昨今の経営者の多くに対して「社長ごっこはもうやめよう」と、自らの姿に対して冷静な反省を求めている。
折りしも、関西テレビの社長が、ようやく辞任を表明した。
関テレ:旧体制引きずり信頼回復できる?…疑問の声噴出
情報番組「発掘!あるある大事典2」のねつ造問題で、放送への信頼を根幹から失墜させた関西テレビ(大阪市北区)。経営責任を追及され続けてきた千草宗一郎社長は3日、ついに引責辞任を発表した。その一方、千草社長は取締役として経営陣に残り、陰の実力者とされるフジテレビ出身の出馬迪男会長の留任も決定した。「再生」を誓う関テレだが、旧体制を引きずったまま信頼回復ができるのか。疑問の声が噴出している。
問題発覚から2カ月半。千草社長は「ずっと責任の取り方を考えてきた。再発防止策を構築するのが責務だと考えてきた。問題が大きくなり、視聴者に対する説明責任を果たした後、最終判断を下すべきだと考えていた」と、この日に判断が至った経緯を明かした。
一方で、取締役として経営陣に残る判断について、「きちんと責任を取ったと考えているのか」「不信払しょくにつながるのか」と報道陣から厳しい質問が相次いだ。しかし、千草社長は「今後、再発防止、改善に努め、視聴者の信頼を取り戻すことこそが、責任を果たすこと」とかわし、判断が甘いとの批判を一蹴(いっしゅう)した。
また、処分が報酬の自主返上だけにとどまった出馬会長の責任について、「会長は、会社経営全般をみていく。社長は業務執行の最高責任者ということで、同じ代表権者でもそこが違う」(片岡正志常務)と苦しい説明。千草社長も「すべて私の責任と思っております」と答えるにとどまった。
「よき経営者の姿」とは正反対であることはいうまでもない。番組をおろそかにしておきながら、直接自分が手を下していないことで、結果責任はあるとしてもあまりにも罪の意識に乏しい。番組への信頼性を確実にしてこなかったのは担当者だから、自らの責任は軽いと思っているのではないか。減給程度で済むと思っていたのかもしれない。
番組へのコミットメントをたいして行ってこなかった、不作為にも近い状態ではないのだろうか。
だから突然、権力の座から追われることに抵抗する。しがみつくともいう。自らの運営や人事の誤りこそ、最大のミスであることに気づいていないようにすら見える。明らかに退き際のタイミングを逸しているようだ。
まだ体力的にも年齢的にも、十分できる思っているにちがいない。しかし判断能力において、とっくに終焉を迎えていることは明白である。数字的な年齢が問われているのではない。
本書では、「こうした退き際の間違い、とくに「まだ」の間違いを起こさせる最大の要因はおそらく、権力への未練である。未練が、「まだ」と思わせる。」(p.208)と述べている。
経営陣に居残る(居座りつづける)というのだから、これからも影響力を行使し続けるということだ。それでは退いていないことと同じではないか。「もっとも醜い退き際であろう。」(p.208)という、まさに典型的な悪しき経営者の姿が、関西テレビでは進行している。経営陣ではない社員の悲哀はいかばかりか