酔月庵 A Side

設計屋系システム屋から見た世界

Web上での正しくコミュニケーションをするために

2004-08-13 19:38:01 | コミュニケーション
書きかけの文章が消えてました。ショック、、、。

 気を取り直して、前回の続きです。

 私は、BLOG上の短い文章を元にした場合には、読み手が書き手の書き足りない分を推測で補おうとするために、常に正しく書き手の意図を理解する事は不可能だと考えます。(通常の会話であれば不明点があればすぐに質問をして確認する事ができますが、文章の場合にはそれが困難であるため誤解が入り込む余地を大くしています)。
 
 さて、その話を前置きとして、ネガティブ・バトルとポジティブ・コミュニケーションの違いについて、私の考えを書いてみます

 ネガティブ・バトルとポジティブ・コミュニケーションの最も明白な違いはその目的です。
 「バトル」であれば、目的は相手を打ち負かす事、もしくは自分が勝つ事でしょう。言い換えれば、相手の評判を落とす事、もしくは自分が有能である事を示せれば目的達成となります。
 一方で「コミュニケーション」であれば目的は当然「伝える」事です。賛成の意思であれ、反対意見であれ、相手に言いたい事が伝われば目的達成となります。

 同じ点を指摘して批判するにしても、たとえ相手に対して敵意が無かったとしても、言い方によってバトルにもコミュニケーションにもなります。例えば根拠を十分に説明せずに結論ばかりを述べたとしたら、言いたいことは相手に伝わるでしょうか?

 書き手側は、少しでも相手に言いたい事が伝わるように、自分の文章に対して注意を払うべきだと考えます。
 逆に読み手側は、短い文章から相手の言いたい事を正しく読み取る事は不可能であるとの意識に立って、推測によって相手の意図を決め付けるような事はせずに、「仮に自分の推測が正しいならば」という前提で考えたり、推測が正しいかどうかを確認するために相手に確認したり、裏づけとなる情報を調べる、といった努力が必要だと私は考えます。

 さて、どのような書き方をすれば相手に正しく意図が伝わるようになるか、具体的な書き方については書店に並んでいるコミュニケーションや文章の書き方やディベートに関する書籍に説明を譲るとして(逃げてすみません)、今回はWeb特有の方法のみについて書いてみます。
 Web特有の方法、それは目新しい事でも何でも無いですがハイパーテキストです。過去の記事にリンクを張る、詳しい説明や解説をしている他の専門家の文章にリンクを張る、Web上に数多く存在している客観的な数値情報(を検索できるサイト)にリンクを張る、等の方法がそれです。
 記事の引用だけでなく、オリジナルの記事に簡単にアクセスでき、引用者の解釈が正しいかどうかを確かめる事もできます。今までのテレビや紙を通してのコミュニケーションに比べたら画期的な事です。リンクによって、客観的な事実を引用できる、同じ説明を繰り返さなくても良い、優れた先人の考えかたを活用できる等、メリットは非常に大きいものです。(論文を書きなれた方のサイトなどは、このハイパーテキストを実に有効に活用されていますよね。)
 例えば、新聞やテレビでは根拠が良く分からないままに「これにより、***となるもよう」などという根拠が良く分からない解説よりもはるかに説得力を持った文章(まさにTextを超えたHyperText)を作る事ができます。私は既に新聞やテレビの報道よりも、一部の専門的な知識を持った人が書く(HyperTextの)BLOGの方がはるかに説得力のある記事を書いており、「正しく伝える」という点では既存のメディアを超えていると思います。
 Web上のコミュニケーションは、文章によるコミュニケーションのために意思疎通が困難というハンデがあるけれど、ハイパーテキストという他には無い強力なメリットがあります。これらを駆使して、少しでも相手に言いたい事を伝えられる文章を書いて行きたいですよね。(「じゃぁ、お前のBLOGはどうなんだ。」、と言われると、「以後努力します。」という答えになってしまうのが情けない事ですが)

 相手に「伝える」事に注意が払われていない書き手や、文章のみから相手の言いたい事が分かったと勘違いしてしまう読み手によって、かみ合わない議論のために双方で無駄なエネルギーが消費されているのを見ると、私は悲しくなります。せっかく文章を書くからには、正しく言いたい事を伝えて、エネルギーを建設的な方向に使っていきたいですよね。
 
 さて、今回バトルとコミュニケーションの違いについては書いてみましたが、またしてもあまりに長くなってしまったためにネガティブとポジティブの違いについてまで書けませんでした。この点については、エントリーを改めて、例を交えながら次回書いてみたいと思います。

正しいコミュニケーションはそんなに簡単な事ではない

2004-08-12 23:59:05 | コミュニケーション
 私が考える「ポジティブ・コミュニケーション」というものについて、私の考えを書いてみます。( H-Yamaguchi.net考えること、伝えることを読んだ事も書こうと思ったきっかけの一つです。)
 少し長い上に寄り道の多い文章ですがご容赦ください。

 以前に私の日本のBLOGの可能性というエントリーの中でBLOGを通した創造的コミュニケーションの可能性について書きました。それに対し、週間!木村剛からネガティブ・バトルからポジティブ・コミュニケーションへというエントリーでトラックバックをいただきました。この「ネガティブ・バトルからポジティブ・コミュニケーションへ」という考えかたには全面的に賛同します。この考えかたに賛同している方は、その後の「週間!木村剛」での反応を見る限り、私だけではないはずです。多くの方が、ポジティブ・コミュニケーションという考えかたに賛同しているのに、賛同を表明している方の中からもネガティブバトル的なやり取りが発生しているのを見ると、とても悲しくなります。

 一旦話がそれますが、私の仕事について少し述べてみます。私はシステムエンジニア(以下SE)の仕事をしています。私の仕事はSEの仕事の中でも特にアプリケーションエンジニア(以下AE)という部類に属しており、システムの設計を中心とした仕事をしています。具体的には、システム化の対象とする業務についてお客様と打ち合わせをして、その内容を設計書(仕様書という言い方がこの業界では一般的ですが)を作成します。この設計書を元にして、開発者(プログラマーと言われる開発のプロフェッショナルの方々)がソフトウェアを作成していくわけです。
 AEとしての私の仕事はコミュニケーションが主体です。お客様がやりたい事を正しく設計書に表現できるか、私の意図を正しくプログラマーに伝えられる設計書になっているか、お客様に対する聞き手としての役割と開発者に対する伝え手としての役割の両方の役割を持っています。AEが正しくコミュニケーションが取れないと、ばかげた伝言ゲームのように、お客様の意図するものとはかけ離れたものが出来上がってしまいます。そうならないために、我々AEは、正しく相手の意図を把握する事と正しくこちらの意図を伝える事に対しては、相当の注意を払い相当の労力をかけています。(だから我々の仕事は時間もお金も掛かるのデスヨ)
 「言い換えると、こういう事ですよね?」と、相手が言った事を別の言葉で言い換えたり、「すると、この場合にはこんな結果になりますよね」と例を(極端な例も交えた方がより間違いが無い)挙げて確認をしたり、「その関係を図に書くとこうなりますよね」とホワイトボードに図を書いてみたりと相手の発言を正しく理解するために相当の労力をかけています。そして聞いた内容を元に文章や図を使った設計書を作成して、内容を説明した上で「この内容で宜しいですね?」とお客様の了解を得て、やっと正しく相手の言う事を理解するに至るわけです。これだけの労力をかけないと、誤解というものがあちらこちらに入り込んでしまうのです。
 同様に、伝える局面においても、異なる視点から表現した複数の設計書を作成して、口頭でも説明をして、相手が理解したかどうかを確認する「じゃぁ、こういう場合はどういう結果になる?」と例を挙げて質問をして(説明をした後に相手が「分かりました」と言ったとしても、多くの場合完全に正しくは理解されていない)、やっと正しく伝えられたという状態になります。
 正しいコミュニケーションのために、我々AEはこれだけの労力をかけています。

 さて、そんな私の考えからすると、BLOG等におけるせいぜい数十行の文章から相手の意図を正しく理解する事や、数十行のコメントから相手に意図を伝える事など不可能だと思えるのです。
 我々AEが最も危険視するのは、すぐに「分かった」と言う人です。頭の良い人ほど、その人の知識や経験を元にして先を読み、すぐに「分かった」と言います。確かに80%くらいの割合でそれは正しいのだけれど、20%くらいの割合で正しく理解していない。すぐに「分かった」と言う人は、結論を導き出す際にその人の推測が入ってしまうのです

 わずかの文章から、相手の意図を正しく理解する事はできない。理解したと思ったとしても、それは読み手が書き手の行間を補う「推測」が行われているのです。事実ではなく推測を元にした結論は、必ずしも正しいとは限りません。

 あまりにも長くなったので、エントリーを分けます。
 
 

殴った方が骨折する事もある(ネット上での他人批判の話)

2004-08-05 04:28:29 | BLOG
 週間!木村剛ジャーナリストなら匿名性に逃げ込まないでほしい!のエントリーで言及されている例などのように、ネットにおける他人批判が問題になるケースが、ここのところいくつか発生しているようです。これらについて簡単に私の考えを述べてみます。

 仮にA氏がB氏の事を批判しているとします。
 匿名であれ、実名であれ、B氏を批判するA氏の文章・発言に説得力が無ければ、良識ある読み手・聞き手ならば、批判対象のB氏ではなく、非難を行っているA氏に対して悪い印象を持つでしょう。
 
 根拠薄弱な他人批判を書いたエントリーに対して、良識ある第三者の冷静なコメントが続くのを見ると、私は少し安心します。
書き手の個人的な感情に扇動されて批判先に対して悪い印象を持つほど、読者は馬鹿ではありません。

 他人批判をするならば、その他人批判によって御自分の評価を自ら貶めるリスクがある事をお忘れなく。良識ある人ならば、いい加減な根拠で批判なんかできないはずだし、批判に説得力を持たせようとするならば、根拠の説明を十分に行うはずだ。そうしなければ、批判しているつもりが自分の恥を晒すだけの結果に終わります。

BLOGで議論をポジティブに進めるために

2004-08-01 21:20:48 | BLOG
 週間!木村剛「悩める母親党」が投げかけたコト:政策論とポジティブ・コミュニケーションというエントリーと、その前後に行われた議論について、思った事を書いてみます。(&、専業主婦の逆襲のニシオさんへのリスペクトを込めて)

 BLOGでの議論には、誤解が入り込む余地が多いのではないかと私は考えます。
 通常の会話であれば、すぐに不明点について確認の質問があり、何度か質問と回答を繰り返す事で、お互いの認識を合わせていきます。
 しかし、ネットなどにおける文字をベースとしたリアルタイムではないコミュニケーションの場合には、内容を相手に確認しながら議論を進める事が難しいため、書き手の意図を誤解する事が多くなるのではないでしょうか。
 特にBLOGの場合、話題の即時性から十分な時間をかけて文章を練っている余裕が無い場合が多く、文章のみから書き手の意図を完全に正しく読み取る事は難しく、誤解が入り込む事も多いのではないかと思います。

 そんなBLOGにおいてコミュニケーションをポジティブに進めていくために、
反対意見を書く場合には以下のような書き方をしてはどうだろうか、と私は考えます。

(1)相手の考えの全てに対して反対なのか、それとも部分的に反対なのか
(2)全てに対して反対の場合は、代案としてどのような考え方をあなたは考えるのか
   (何もしない方が良い、というのも代案の一つではあります)
(3)部分的に反対ならば、どの部分をどのように変えれば良いと考えるのか

 文章の書き方によっては「一部を変えた方が良い」という改善の提案のつもりで書いた文章が、文章のみからでの印象では全否定の内容のように解釈されてしまう事も有ります。こういった誤解から、議論にブレーキがかかってしまう事があるとしたら残念でなりません。


 という事を踏まえた上で、

 私は木村剛さんの悩める母親を救うために力を結集しようという、考え方には賛成します。
 しかし、「母親」に限定しては「多くの人の賛同を得る」事は不可能であると考えます。それは、「父親も悩むべきだ」というべき論ではなく、既に「父親も悩んでいる」という事実があるからです。

 想像してみてください。田舎を離れて東京で家族三人で暮らしている家族の事を。
仮に子供が幼稚園生だったとしましょう。母親が病気で一日、たった一日、寝込んだとします。そんな時、誰が子供を幼稚園まで連れて行くのですか?誰が子供のお弁当を作るのですか?誰が子供を幼稚園に迎えにいくのですか?そんな時には父親しかいないのです。他に選択肢が無いのですから父親が幼稚園への送り迎えや(手段はどうあれ)お弁当を用意するのです。そんな過程において、父親が子育てに無関心でいられるわけが無いのです。
 「父親も悩むべきだ」ではなく、「既に父親は母親と一緒に悩んでる」のです。
 そういう事実があるのに、わざわざ「母親」と限定する事で、一緒に悩んでいる「父親」を仲間はずれにする必要は無いでしょう。彼ら「悩める父親」が快く賛同できるような名前をつけた方が、より多くの方の賛同が得られるのではないかと思います。

 私自身は独身なのですが、私と同年代の親子だけで暮らしている父親達は、みな上記のような悩みを持っています。
(そして、彼らが困っているときに仕事でサポートする役割が我々独身者に回ってくるのですが。)

 否定ではなく改善の要望として、私の考えと同じような考えを述べられている方も多くいらっしゃると思うのですが、『「母親」というジェンダー用語で反発してしまう人たち』という言葉でひとくくりにされてしまったとしたら悲しいことです。

 今回の木村さんのエントリーの趣旨からは多少外れてしまうとしても、木村さんのエントリーにポジティブな考えを持ちながら改善要求をしてくださった方々のために、
「この指摘は尤もだ。しかし、」という議論の進め方をしていただければ、このエントリーに対する読者の印象は、ずっと良いものになったのではないでしょうか?

 誤解からポジティブな議論にブレーキがかからないように、反対意見を書くときは、全てが反対なのか、部分的に反対なのか、そしてどうすれば良いと考えているのか、を書くようにしていきませんか?