結婚するまでは絶対にしなかった事でも、結婚して自分の家庭を持って初めてやってみる事がある。必要に迫られてやったことのない家事をする、という類の事ではなく、してもしなくてもいいような、やりたきゃやれば?的な、+αの、おまけの事。たとえば日曜大工とか、季節によって器を替えるとか。
私の場合は庖丁を砥ぐ、というのがこれにあたる。
我が家では庖丁を砥ぐのは祖父と決まっていた。盆栽を趣味にしていた祖父は、植木鋏や鎌など、刃物の手入れをこまめにした人だった。その時必ず母に声をかけ、一緒に庖丁を砥いでくれていた。
当時の庖丁は今のようにステンレス製ではなく、鉄製で、ちょっと油断するとすぐに錆びた。物を切る刃の部分はまだしも、峰や腹のところは水滴がついた形に赤い錆が浮いて、不規則な水玉模様を作り出していた。
それが、祖父の手が単調なリズムで砥石の上の庖丁を往復させるうちに、綺麗に消えてなくなり、鈍く曇ったような庖丁の地金が雨の日の瓦屋根のように光を反射させる。刃の部分は冷たく鋭く白く輝きだす。眠っていた庖丁が目を覚ます、その感じが面白くて、幼かった頃の私はよく、庖丁を砥ぐ祖父のそばにしゃがみ込んでいた。
祖父のおかげで、我が家の庖丁は常に具合良く使われていただろう、と思う。残念ながら私が庖丁の切れ味云々を知る頃には、彼はこの世の人ではなくなっていて、必然的に我が家の砥ぎ屋も閉店していたのである。よく母と「キャベツの千切りしたら、キャベツが切れんと息が切れてしまうわ」と笑ったほど、我が家の庖丁は切れないシロモノになっていた。
祖父の息子である父も、刃物を砥ぐのは好きだ。庖丁にしても、その隙間に刃を通せば砥げるようになっている器具を購入し、何度となく砥いでくれた。が、使い方がよくないのか使い手が上手くないのか、その器具で庖丁が満足いくように砥ぎあがったことは、ない。刃こぼれがしたり、刃が一直線を描かずに途中でねじれたりした。それに砥いだ直後は確かによく切れたが、2、3日のうちに切れ味は元の木阿弥になった。
庖丁を砥ぐという事がどんなに難しいか、また、下手に砥ぐと砥ぐ前よりも切れなくなる、という事を身をもって知っていたので、庖丁を砥ぐなんて大それた事、独身の頃には、自分の家では絶対にしなかった。本当に上手い人だけがする、言わば私にとって「聖域」だったのだ。
結婚したら、今度はその聖域は「だー」に引き継がれた。500円で買った砥石、目の粗いのと細かいのが表裏で一体になっている、基本中の基本、のような
それで、彼は頼めばいつでも庖丁を砥いでくれた。曰く、庖丁に限らず刃物を砥ぐのは好きらしい。
ところがある夜。
昨年の暮れか今年の初めか、ともかく冬だった。洗い物を片付けていて、ふと見ると、庖丁の刃の部分に小さな錆が浮いていた。錆、とは違うのかもしれないが、洗ってすぐに拭かなかったから水滴の形に黒く変色していたのだ。子供も産まれたし(っても6年以上前ですよ)、「だー」の帰宅も随分遅くなったし、そういえばもう随分と庖丁を砥いでもらっていなかった。
今までにも同じような事は何度もあり、その度に私は磨き粉をつけて庖丁を磨いてきた。が、どうしてかその時、このぐらいなら砥いだらすぐに綺麗になる、と思ってしまった。もし、砥いで切れ味がさらに落ちても、また砥げばいい、と。
魔が刺した、とでも言うべきか。
思い立ったが吉日。それからすぐに砥石を水に浸し、30分後には台所で私が庖丁を砥ぐ静かな音が、リズムだけは祖父と同じように単調に繰り返された。見様見真似。お手本は「だー」でもあり、祖父でもあった。
果して庖丁は。
上出来。思ったよりもずっと上出来。幼い頃に見た祖父の姿が良いイメージトレーニング?になったのかどうか、ともかくすこぶる上出来。黒い変色部分だけではなく刃こぼれもなくなり、刃を垂直に親指にあてると、ちゃんと指紋の溝にひっかかる感じがある。「だー」の砥いでくれた庖丁と同じ感じ。
なんだ、やってみれば出来るもんじゃん。
以来、気をよくした私はせっせと庖丁を砥ぐようになった。せっせと、とは言うものの、意外に切れ味も長持ちするので、せいぜいが一ヶ月に一回程度なのだが。
私の場合は庖丁を砥ぐ、というのがこれにあたる。
我が家では庖丁を砥ぐのは祖父と決まっていた。盆栽を趣味にしていた祖父は、植木鋏や鎌など、刃物の手入れをこまめにした人だった。その時必ず母に声をかけ、一緒に庖丁を砥いでくれていた。
当時の庖丁は今のようにステンレス製ではなく、鉄製で、ちょっと油断するとすぐに錆びた。物を切る刃の部分はまだしも、峰や腹のところは水滴がついた形に赤い錆が浮いて、不規則な水玉模様を作り出していた。
それが、祖父の手が単調なリズムで砥石の上の庖丁を往復させるうちに、綺麗に消えてなくなり、鈍く曇ったような庖丁の地金が雨の日の瓦屋根のように光を反射させる。刃の部分は冷たく鋭く白く輝きだす。眠っていた庖丁が目を覚ます、その感じが面白くて、幼かった頃の私はよく、庖丁を砥ぐ祖父のそばにしゃがみ込んでいた。
祖父のおかげで、我が家の庖丁は常に具合良く使われていただろう、と思う。残念ながら私が庖丁の切れ味云々を知る頃には、彼はこの世の人ではなくなっていて、必然的に我が家の砥ぎ屋も閉店していたのである。よく母と「キャベツの千切りしたら、キャベツが切れんと息が切れてしまうわ」と笑ったほど、我が家の庖丁は切れないシロモノになっていた。
祖父の息子である父も、刃物を砥ぐのは好きだ。庖丁にしても、その隙間に刃を通せば砥げるようになっている器具を購入し、何度となく砥いでくれた。が、使い方がよくないのか使い手が上手くないのか、その器具で庖丁が満足いくように砥ぎあがったことは、ない。刃こぼれがしたり、刃が一直線を描かずに途中でねじれたりした。それに砥いだ直後は確かによく切れたが、2、3日のうちに切れ味は元の木阿弥になった。
庖丁を砥ぐという事がどんなに難しいか、また、下手に砥ぐと砥ぐ前よりも切れなくなる、という事を身をもって知っていたので、庖丁を砥ぐなんて大それた事、独身の頃には、自分の家では絶対にしなかった。本当に上手い人だけがする、言わば私にとって「聖域」だったのだ。
結婚したら、今度はその聖域は「だー」に引き継がれた。500円で買った砥石、目の粗いのと細かいのが表裏で一体になっている、基本中の基本、のような
それで、彼は頼めばいつでも庖丁を砥いでくれた。曰く、庖丁に限らず刃物を砥ぐのは好きらしい。
ところがある夜。
昨年の暮れか今年の初めか、ともかく冬だった。洗い物を片付けていて、ふと見ると、庖丁の刃の部分に小さな錆が浮いていた。錆、とは違うのかもしれないが、洗ってすぐに拭かなかったから水滴の形に黒く変色していたのだ。子供も産まれたし(っても6年以上前ですよ)、「だー」の帰宅も随分遅くなったし、そういえばもう随分と庖丁を砥いでもらっていなかった。
今までにも同じような事は何度もあり、その度に私は磨き粉をつけて庖丁を磨いてきた。が、どうしてかその時、このぐらいなら砥いだらすぐに綺麗になる、と思ってしまった。もし、砥いで切れ味がさらに落ちても、また砥げばいい、と。
魔が刺した、とでも言うべきか。
思い立ったが吉日。それからすぐに砥石を水に浸し、30分後には台所で私が庖丁を砥ぐ静かな音が、リズムだけは祖父と同じように単調に繰り返された。見様見真似。お手本は「だー」でもあり、祖父でもあった。
果して庖丁は。
上出来。思ったよりもずっと上出来。幼い頃に見た祖父の姿が良いイメージトレーニング?になったのかどうか、ともかくすこぶる上出来。黒い変色部分だけではなく刃こぼれもなくなり、刃を垂直に親指にあてると、ちゃんと指紋の溝にひっかかる感じがある。「だー」の砥いでくれた庖丁と同じ感じ。
なんだ、やってみれば出来るもんじゃん。
以来、気をよくした私はせっせと庖丁を砥ぐようになった。せっせと、とは言うものの、意外に切れ味も長持ちするので、せいぜいが一ヶ月に一回程度なのだが。