まこの時間

毎日の生活の中の小さな癒しと、笑いを求めて。

電車の朝

2014-04-15 | 暮らし

今日は金大医で、診察の日だ。先週の予定だったのだが、怒涛の1週間だったので延ばした。病院へはいつも電車で本を読みながらのんびり行く。今日はyちゃんとランチの約束もある。

ホームでは、殆どの若者は携帯をしている。異様な光景だ。

わたしの横の若いお姉さんが化粧をし始めた。本格的につけまつげや、まつげをカールする。「電車で化粧は、やめなはれ」の歌が頭に浮かんできた。「やーめなはれ、やーめなはれ・・・・」そして、仕上げの口紅をする頃、計ったように金沢到着だった。

で、下りるときにどこからか唸り声のような声がする。二つほど後ろの席だ。誰かが急いで乗務員に知らせに行った。どうも誰かが倒れて唸っているようだ。その間、向かいの席の人は緊張の表情で固まっている。みんな遠巻きにしている状態だ。

わたしは、矢も楯もたまらず、飛んで行って白髪のおばあさんを抱えた。ううう・・と、唸るばかり「胸ですか?薬はありますか?」首をふる。背中を抱え手を握ると、しっかりと握り返してくる。「大丈夫ですよ、救急車を呼びましたから・・」と、いうと座席の上や下へと悶え苦しむとはこのこと。ひたすら抱えて、手をさする。背中をさする。ほんとはどうしていいか分からないのに、自然にほっておけなくて、自分の身内のように「おかあさん。大丈夫、大丈夫、もう少しだから・・」と、言っていると駅員が3人来て「今、救急車がきます。身内の方ですか?」と、聞かれて「いいえ。お任せしていいですか?」と、交代する。

改札を通り、東口に出たころピーポーのサイレンが聞こえてほっとした。なんで何の躊躇もなく、あのおばあさんを抱いていたのだろう。少し前の私だったら、気になりながらも遠巻きにして、フェードアウトしていたかもしれない。わたしはこんな人間だったのか。どうも、旦那の窮地をいろいろな人たちが救ってくれたので、こういう行動になったのだと思う。先週2回も救急車に乗ったので、他人ごとではなかった。何の処置ができるわけではないが、ひとりで苦しんでいる人を見ていられなかった。


朝が来た

2014-04-15 | 暮らし

プランターのチューリップが咲いた。

孫は「じぃじに、きれいな花みせてあげよー」という。

川の周りの竹をきれいに刈り取ったせいで、家の前から対岸の桜まで見えるようになった。うちの前からでも十分花見ができる。桜はもう散りかけだ。

4月10日で今年も100日目。0655で「今年も今日で100日めーーーー」と、叫んでいた。

朝が来た~ 朝が来た~ 今日も朝が来た 昼が来る~ 昼が来る その次昼が来る

地球が半分回りゃ その次夜が来る もう半分回ったら 次の日だ・・・ 朝が来た 朝が来た

今日も朝が来た シャラララララ シャラララララ だから 大丈夫

この歌を歌うと なんだか泣けてくる。なぜだっ!

 子供たちは、なぜいつも走っているのだ。なんだか笑える。

 


タブレット端末

2014-04-14 | 暮らし

旦那がブログを観たいというので、タブレット端末を買った。一般病棟に替わりますということで、嬉しくてすぐに電気屋へ行くと、ドコモへ行くべきと言われ、すぐにドコモショップで長い時間かけて買って帰る。ドコモではケースは電気屋の方が安いという。もう行ったり来たりは邪魔くさくなってそこで買う。

それにしても、人が話をするたびにお金を取るシステム、情報をやり取りするたびにお金を取るなどという商売は、昔なら詐欺のようなものだ。不思議な世の中だ。とにかく、病室に持っていき操作を教えた。やっとご飯を食べられるようになったような重病人に、ストレスかなと思ったが、旦那は読んで「面白かった」という。面白い内容ではないのだが。

看護師が「あ、アイパッド」と、旦那とそのものの組み合わせが意外だったのかもしれない。娘は「おかあさん、一人で買えたんか?」という。失礼な。とはいえ、質問ばかりした。

どこでもつながるのか?電話なのか、パソコンなのか。そして、IPADと、タブレット端末の違いは何か分からない。分からないが、電話と違って使用量で支払ではなく、うちのPCと同じような契約。1台携帯を増やした感じ?世の中の流れに追いつかない。追いつかなくてもよい。とにかく、したいことが出来るということが素晴らしい。

 


食べる喜び

2014-04-13 | 料理

大変な時にも、お腹はすく。長丁場になりそうで、おにぎりを食べる。昼はハンバーグを食べる。悲しくても食べる。これは力強い。

旦那は危険な処置を無事終えて経過は良好。よくがんばった。

弟が岡崎から来てくれた。父は外泊許可が下りて帰ってきていた。

弟が福井の病院へ寄りICUに入ったとき、白衣を着ているので新しい先生が登場したのかと思ったらしい。弟からメールで食事をしていたと知らされた。月曜からずっと点滴だったので、食事ができるようになったことは大きな喜び。

それを聞いた娘が子供たちを連れてやってきた。みんなで食べると食事はうまい。ついでに、kouは泊まってくれた。「エジソン」を一緒に読んでぐるぐるになって寝た。

食後に「最高の人生の見つけ方」(モーガンフリーマン、ジャックニコルスン)をまた観た。モーガンフリーマン演じるカーターが医者から余命宣告を受けた時に言った。「ある調査で1000人の人間を対象に、こう聞いたという。自分が死ぬ日を知りたいか。96%がNOと答えた。わたしは残りの4%だった。残された日数を知れば解放感が得られると思っていた。だが実際は違っていた。」

確かにそうだと思う。連れ合いの余命を知り、お互いに心の準備をすることがよいかと思ったが、いざというとき、地に足がつかない状態になる。何をしていても不安が湧き上がり、先回りして寂しさが襲ってくる。

TVを観てもストーリーを追いかけられない。何をしていても支えがなくふらふらしている状態だ。それを知ったからと言って覚悟をしても、いざその時は、うろたえ、悲しむだろう。

でも、不思議と食事をしている旦那を見ると、力強く希望が見えてくる。希望がなくては生きていけない。予定は自分が決めるもの。久しぶりに、心が笑った。

 

 

 


闘病日記

2014-04-12 | 暮らし

実は読書は好きだが、闘病日記だけは好んで読んだことがない。また、1冊も持っていない。

旦那にブログに書いてもいいか聞くと「いいよ。」と、言う。たぶん、おしゃべりな私が黙っているわけにはいかないと知っているのだろう。そして、せっせと書いていて初めて、闘病日記は書かずにはおられない気持ちが書かせるのだということが分かってきた。心に持っていられないのだ。

闘病日記の本の結末はたいがい「死」だ。縁起でもないと思うが、誰でも死に向かって生きていることを普通は意識しない。意識していたら身が持たない。ところが、嫌でも遭遇するその時に、泣き、うろたえ、後悔し、懐かしむ。何よりも、残される寂しさを思う。

下血の後、一命を取り留め、ほっとすると「ありがとう。的確な対処で冷静さに感謝する。」と、言われた。

その時ほんとうに冷静だった。治ると信じていた。失った血は輸血すればいいと、楽観的に思っていたからだ。無知が幸いするときがある。

二度目の静脈の血栓は腎臓から下全部が詰まっているのを見せられ、行く道は「突然死」という危険を何回も刷り込まれ、医学的な危険度の高い知識を植え付けられる。意識しないではいられない状態になる。ひとりになるたびに泣いていた。

そんなとき、家族や友達の声を聞くとホッとする。後のことを今考えて背負うことはないと言われて、聞いてくれる友達に感謝する。しかし、ひとりになるとやはり我慢できなくなる。そんな時に、パソコンに向かうと涙が流れても、少しずつ気持ちが整理されていく。闘病日記を書く意味が分かってきた。ほんとうに自分が弱い人間であることがわかり、今まで見えなかったことが見えてくる。幸せだったことが当たり前に続くわけではなく、誰もが必ず通る試練であることも知る。

こんなに弱い自分を知り、いつも支えられていたから生きて来られたことを思う。


決戦の日(血栓の日)

2014-04-12 | 暮らし

朝8時の面会に旦那のベットに5,6名の医師が集まってCTの写真を広げて話し合っていた。そのあと、話があると言われ再びマスクをして白衣を着、ICUの中の説明室へ入る。

昨夜は点滴に少しずつ血栓を溶かす薬を入れるという話が、血栓が腎臓の横の所まできていてリスクは高いがフィルターをかける方法もあるがどうするか?と、尋ねられた。選択権をゆだねられるとは。「先生はどちらがお勧めですか?」「どちらもリスクはあるが、そのままでは血栓が心臓に行き、突然死の可能性が高い。フィルターはかけるときに静脈が破れる場合がある。」どちらも危ないのだ。それで、決めるのは家族なのだ。でも、わたしにとって大切な人だが、娘や妹にとってもかけがえのない人だ。相談する時間をください。1%でも確率の高いほうを決めたいと思う。「ちなみに旦那さんはカテーテルを入れてフィルターをかぶせることに賛成してます。但し大変危ない。結局、娘たちと相談しフィルター説の方を選んだ。何もしないよりしたほうがいい。つきましては、術中に何かあっては大変なので家族の方の面会をということになって、仕事中の娘と婆さんと旦那の妹とご主人が来てくれた。みんなを呼ぶ間、もし2度と会えなかったらと思うとまた泣けてきたが、全員そろったら気持ちは落ち着いた。

みんなが集まるとパワーも増す気がする。絶対うまくいく、先生はリスクを強調するのは万が一の時のため。そう思って待っていると眠気が襲ってきた。待合室でぼやっとみんなの話を聞いて待っていた。

3時半。呼ばれてICUに入る、スリッパを替え、消毒をし白衣をはおり、今日の朝からこの動作を何回も繰り返している。処置は無事成功し血栓も少しずつ溶け出してきたとのこと。医学の進歩と、みんなの目に見えないパワーのおかげ。医師と看護師の活躍は、無力な私にとっては神様みたいに思える。ひたすら感謝。

予断はゆるさないとはいえ、婆さんも涙をにじませて喜んでいた。


乗り越えられるか

2014-04-11 | 暮らし

夕方病院から呼ばれた。状態が悪いので福井の循環器病院へ転院することになった。夜7時30分に救急車で福井へ。今週2度目の救急車同乗。

説明が聞けたのは11時だった。血が止まったら今度は血栓ができて手術も、フィルターもできない状態だった。娘たちと一緒に聞いて冷静にしていたが、帰って風呂に入ったら、涙が止まらなかった。もうすべての時間を一緒に過ごしたい。この時をどうやって乗り越えればいいのか分からない。

いろいろなことは、平然と乗り越える自信はあったが、これだけはダメだ。大切な人との別れだけは耐えられない。娘たちは、希望を捨てないでと慰めてくれるが、いまここにいないことがすでに寂しい。

残る奇跡を信じるというのもつらい。もう5年目になる癌は自然と体に悪さをしているのだ。この状況を乗り越える力が出るだろうか。血液をじわじわ溶かす間に、血栓が心臓に入ったら突然死です。と、何回も突然死という言葉を繰り返された。言葉は心をそこへ持っていく。

どんなことがあっても越える。しかし、今まで旦那に何でも話していたので、家に帰って話し相手がいなくて寂しい。ブログでしゃべるしかない。夜中に黒ちゃんに8月の大会の出席を取り消してもらうことを連絡した。夕方に急変した旦那の状況も話した。黒ちゃんは奥さんを癌で亡くしているので、気持ちを汲んでくれる。一言一言に優しさがある。意外としぶといもんだよとも言ってくれた。

夜、持ち帰った旦那の携帯と腕時計を眺めても泣けてくる。余命宣告にも泣けてきた。いざとなると弱いのである。腕時計をはめて、お気に入りの呉服屋で買った作務衣っぽい服を抱いて寝た。しっかり朝まで寝ていた。疲れていたのかもしれない。

気持ちは八方塞の状況に絶望的な気分になる。この山は越えられるのか。


予定 その3 不確定

2014-04-11 | 暮らし

8月の大会の係員の予定表がでた。出欠を聞かれたので、今の状況が良くなっていくとみて、なるべく出席したく、「出席」と意思表示をした。選択肢の中に「不確定」という項目があり、今の状況をかんがみ「不確定」と言ったほうが良いのか迷ったが、予定には出るという意思表示をしなくては話は進まないのではと思った。また、状況は好転する希望のうえからも。

さて、不確定という予定には、何が入るのだろう。例えば、我が家のように年寄りをあっちにも、こっちにも抱えていると、いつ何が起きるか分からない場合「不確定」と、いうのか。それは本人の意思を聞くので、起きもしない事柄を聞くのではないが、確率が高いと言えば、今日この頃の変化にとんだ毎日からは「不確定」と、答えるのか。それなら、欠席か・・いや、出るつもりだが何かあったら出られないという意味。となると、すべての人に何かあったら・・は、あてはまるが。逆に、出ますと言って、穴を開けるようなことは返ってまずいか。とか、考えだしたら気持ちが揺れた。こうゆう状態を、うじうじ考えるという。

ところで、病気を抱えていても、会社でも弓道協会でも「会長職」を、引き受けている旦那は偉いと思う。ある意味「不確定」な体なのだ。それでも、本人の意思はそこへ行こうとすることによって気力が出ると思える。

今日大部屋へ移るという旦那を見舞いに行くと、相変わらずICUにいて、血圧が低く脈拍も早いので様子を見るため延期。この状態は「不安定」という。

 


予定 その2 会議

2014-04-10 | 暮らし

予定の中で苦痛なのは会議だ。会社などでは、あらかじめ方向性がついていて、報告を下ろすか目標に向かっての(工事であったり拡販であったり)の知恵を出す。あるいは、大会を成功させるための打ち合わせ会議は綿密に行わなくてはならない。しかし、世の中にはもやもやしている会議がある。方向はあるんだけど、そっちへ向こうとすると、地面の水たまりを覗いて意見する人がいる。

過日も、ある会議で合否の話が出た。学科問題にABCのランクなどいらないのである。合否しかないとわたしも思っていた。そこをついた良い意見に、S女史も、迷っても最後はきっちり判定してそのことに自信をもってほしいと言われた。しかし、うやむやになった。でも、少なくとも覗いている水たまりに石は放り投げなくてはならない。心の底で拍手したが、ここは議決機関ではなく申し合わせ会なのでそのまま流れた。事件は現場で起きているんだっ。

また、絶対に言わないでおこうと臨むのに、生来父のDNAと同じで、頭は悪いくせに正義感が強く、それで失敗するのに懲りないというわたしは、またやってしまったのである。

小百合は黙って微笑んでいればよいのだが。幹部が黙っていたらその件には触れないでおこうと大人の判断をしていたのに、幹部が「特例あり」と、発言した。あぁ、だめだっ!「突っ込むわけではないですが・・」と、言って突っ込んだ。しかし、どうも突っ込まれたという意識もないような反応で、空振りに終わった。しかし、後で同意をしてくれた仲間がいて救われた。例えば、貧血をおこして倒れる小百合を支えてくれる仲間を大切にしたい。

さて、予定の話が会議の話にすり替わったが、要するに、出来れば会議は出たくない理由は、無駄な時間がもったいないと思ってしまうところがある。わたしはせっかちで、違う意見の人の話をちゃんと聞けないことも反省の一つだ。自分が主催する場合は、根回しもできるが、会場で突然渡された資料を理解するまでに時間がかかる。他人の意見はまず聞かなければ。良い意見は声を大にして応援し、違う意見にはバトルもやむを得ない。

みんな会議にはどういう(予定)未来を抱えて臨むのだろう。少なくとも、忙しい時間の中から集まる貴重なみんなの時間をあだやおろそかにはしてはいけない。よほどの重大事件がない限り、終了時間の延長も考えにくい。


予定と運命

2014-04-09 | 暮らし

旦那が入院した時にしなくてはならないことの一つに、まず予定のキャンセルだった。会社への連絡から、体育協会への連絡。そして、わたしの予定もキャンセルしなくてはならない。それでも、どうしても遂行したい予定が残る。ここが大切だ。

それで、ふと思ったのは「予定」というのは、未来のことで、自分がそこへいこうと既に決めてある事柄。なので、予定があることは未来があること。しかし、いろいろな予定に振り回されているとき、本来行きたい自分の道が見えない時があるのではないだろうか。

逆に、目標に対して予定を立てて夢に近づくということは大切だ。年を重ねると、自身で予定を決めるのではなく所属の中で、行事ごとが決められ、責任の下で予定に対し真摯に遂行していこうとする。

予定を外していくことが、肩の荷を下ろすようなところがある。そして、ひきこもりの予定を立てるのも悪くない。

 


新日本風土記 金沢

2014-04-09 | 弓道

先週、新日本風土記を旦那と観ていた。途中、驚くべき映像にふたりして釘付けに。

金沢のゆかりの風物、兼六園の雪吊りや茶屋遊び、九谷焼の入札のようす、金箔、漆器等々おなじみの情景が紹介されていく中で、何気なく観ていたら「よし坊」というおでん屋さんが出た。そこの客として従弟が名前入りで紹介された。そのおでん屋のご主人と、山仲間だったこと、よし坊が癌で亡くなって店をたたもうとした家族を、会社の同僚と白山登山に誘ったということ。

身近な人がTVに予告なしに出て、おまけに結構な時間、物語として出るということは誇らしい。

彼は、某産業の部長で、会社で山岳部を立ち上げているということは聞いていた。おまけに、山の本などに名前入りで山の紹介などが載っている。父方の従弟だが、どうも父方は祖母のルーツから、深田久弥を意識している気がする。日本百名山で有名な深田家とのつながりを大切にしている。

TVを観た時間が遅かったので、翌日の朝携帯メールをしたら、娘の結婚式だという。なんとめでたい。

是非に「よし坊」へ、行かなければ・・・


主は留守

2014-04-08 | 暮らし

実家の父が入院中に、母と相談して縁側のカーテンを替えることにした。実家へ行くたびに廊下を通ると気になっていたが、父が自分で替えると言い張るのでほっておいたが、父に万が一のことがあったら、ここは座敷に面しているので人目にさらされるボロボロのカーテンは、触ると破れそうだ。

うちの内装をお願いしたSさん夫婦に金沢から来てもらい、「カーテン1枚で交通費も出さず、ごめんね」と、言いつつ弓道の研修会の打ち合わせも兼ねて、お茶をしてから実家へ向かう。2間の長さのカーテン見本を決め、そのあと桜のきれいな熊坂川を散策。ふたりとも、加賀にこんなところがあるとは・・と、喜んでくれた。

我が家に置いてある桜の盆栽も満開だ。娘が、旦那の誕生日に贈ってくれたものだ。このときはまさか主が留守になるとは思いもせず、昨今の弓道事情を語り合っていた。

 


緊急入院

2014-04-08 | 暮らし

わたしが保育園へ孫を迎えに行って帰ってくると、旦那が真っ白な顔をして「下血をしたので、早退して〇下先生に診てもらい紹介状を書いてもらったので、明日市民病院へ連れて行ってほしい」という。この頃は、癌が骨にまで転移しているので、腰も痛いのだ。下血は大腸癌か?旦那に覚悟は決めといたほうがいいよ、分かった時点で治療に向かうんやから大丈夫と言い、検査もあるので食事をせずに休むわと言っているところへ、娘が子供たちを迎えにきた。

「わーーお父さんの顔、真っ白や。」と、驚き容態を聞いて、子供たちにじいじがつらいんやから静かにしなさいと言いながら帰って行った。

食事の支度を終えたころ、旦那が2階の寝室へあがると言うので付き添った。ソファから立ち上がったとき、緩めていたズボンが下へ落ちたので、どうせパジャマに着替えるのだからと脱がせたときに、すでに足も上がらないくらいで、わたしにつかまって脱ぎ、居間のドアのところでふにゃっと沈み込んだ。なんとか私の肩に手を回し階段のところまで行ったが足があがらない。

階段の手すりにつかまってもらい「下の座敷に布団を敷くから、2階へあがらんとこう」と、声をかけ座敷に向かおうとしたら、廊下に血がぽたぽた落ちた。急いでタオルを取りに行って戻ると、牛乳パックをぶちまけたくらいの血が廊下に広がったので、もう救急車しかない、40キロの私が80キロ近い旦那を支えられない。

婆さんに、「お父さんが大変やから救急車を呼ぶから」と、言って旦那のそばにいてもらい、バスタオルを2,3枚持ってきて渡す。

娘の携帯を呼びながら、119を回し両耳に電話を当てて、救急の人との問い合わせに答えていく。娘は「もしもし?」と、言ったがさっき家に寄っていたので様子を察知してくれた。119を切ると同時に娘の電話も切って、下着とパジャマを急いではかせてタオルを当て、上も羽織らせる。律儀に旦那はワイシャツを脱ごうとするので、そのままでいいからと促しているうちに救急車到着。タンカを廊下に置いたが腰の痛い旦那はしゃがめないことを隊員は知らない。急いで柔ちゃんみたいに旦那の下に潜り込んで一緒にしゃがみこみ何とかタンカに横たえ、隊員に運ばれ、玄関外に待機しているストレッチャーに乗せられた。付き添って救急車に乗り込んだが、血圧が90と50から80と45とか言っているのを聞きようやく事の重大さに心配になってきた。毛布から出た足は冷たく質問にしっかり答えてはいるものの顔面蒼白。救急隊員で真っ先に入ってきて対応してくれたのは女性だった。てきぱきと支持し、保険証、薬の手帳をかばんに入ればたばたとしていたので、心配は後回しだった。

病院の夜間入口から待合室に入り待っている間、看護士があちこちと走り回っている。もうひとりの娘に連絡したら、すでに連絡を聞いていてすぐに来てくれる。外科の先生の「輸血はまだか・・」という声に、万が一の時にAB型は誰だったかとぼんやり考えていた。検査、CTと造影剤の承諾書など書いて待っているうちに11時過ぎていた。集中治療室に入ってからやっと対面。頬は赤みが差し、血圧は正常。「ようやく血圧も安定しました」と看護士。本人はにこにこして冗談までいうほどになった。

先生の説明を聞くと、腸内からの血が止まらず、カメラを入れたところは異常がないので、CTによると、上のほうと思われるが、止まらなければ手術も考えるとのこと。婆さんに連絡すると「それじゃ鍵かけとくね」と、言われ、待ってくれ私は鍵を持っていない。「開けといて・・」婆さんは、旦那の入院に私が付き添うと思ったのだ。息子の惨状を見たら今日は帰れないと思ったのもやむを得ない。まさか、ほっぺを赤くして冗談をいうまでになったとは考えにくい。

先生や看護士や救急隊員のみなさんのお蔭だ。仕事とはいえ、ほんとうに頭が下がる。

後で、考えると2階に上がっていなくて良かった。ズボンを脱がせていて良かった。真夜中で寝入っていなくて良かった・・と、しみじみ思うところだった。

 

 


恐竜博物館

2014-04-05 | 小さきもの

勝山の恐竜博物館へ一度行きたいと思っていた。先週、ちょうど春休みなの孫と旦那と出かけたが、旦那は病気のため結構歩くのもしんどそうなので、わたしはカメラを持って、ふたりの自由な動きに対応しへとへとになった。

しかし、なかなか面白く、恐竜の動いているのが5歳のkenには、少し怖かったようだ。本物ではないと知りながらも、後ずさりしていた。

帰りに化石を発掘するところで、植物の化石を係員の人に何回も何回も尋ねては、「植物の化石だよ」と、言われるたびに「やったー。持って帰ってもいいですか?」と、繰り返し、石がポケットにどんどん溜まっていく。

まさしく子供たちのロマンなのだ。

 

 


父、快方に向かう

2014-04-05 | 暮らし

落ち込んでいた父も、冗談を言い、体重を測りながら「認知症になった分だけ軽くなった」と、言い看護士に「自分で言っている間大丈夫やわ」と、言われていた。90歳のおばあさんにいじられて、同室の人に「病院内でコンパするかもしれん」と、言われている。

何はともあれ早く退院してもらいたい。母は、資源ごみを出すのに、1キロほど離れた公民館まで行くことが出来ないので、一緒にごみを出しに行く。小雨の中で腰の曲がった母が父の飲んだ焼酎の瓶などを分別しているのがいとしい。今はなんでもないことが、年を取ると出来なくなるのだと実感した。

一日でも健康でいられますように。また、私が元気で皆の役に立てることが嬉しい。2年前の闘病生活は今の自分を生むためにあったような気がする。