まこの時間

毎日の生活の中の小さな癒しと、笑いを求めて。

再び東寺  大日如来様

2013-05-10 | 暮らし

何故亀さんなのか。仏像の撮影禁止、スケッチ禁止なので、しゃあなしに亀を写したが、亀の曼荼羅も悪くないなあ。

東寺の講堂内、白亜の壇上に大日如来像があり、その像を中心に五智如来をはじめ、五菩薩、五大明王、四天王、梵天、帝釈天の二十一軀の仏像がある。これは弘法大師の密教の教えを表現する立体曼荼羅と呼ばれる密厳浄土の世界と言われる。

この中央に坐する大日如来様と目を合わせると、本当に体ごと吸い込まれるほどの迫力がある。

弓道の学科試験に「澄の方策とは」という問題がちょくちょく出題される。ひたすら日頃の修練が重要であるということになる。改めて「平常心」で事にあたるというのは、少し違うかもしれない。「平常心、平常心」と、心に唱える時はすでに平常心ではない。

で、技量を日頃から磨かなくてはならないが、しかるべき時は常にやってくる。その時には、完成されない未熟なわたしを抗うことなく受け入れ発揮しなさいと、言われたような気がして、心の底からじわっと熱い気持ちが湧いてきた。

しかし、そのまんまを受け入れるのは、浄土真宗の南無阿弥陀仏であって、弓道では修練を積んでいない空っぽのそのままではいかんのである。そこには、修業が必ず要求される。日々の研鑽。こんなに重く苦しい修業は他にない。なぜなら、たいがいの修業は、苦節何年と積み重ねると名人になったり、人間国宝になったりするが、生半可の弓の修業をいくら積み重ねても、何も見えてこない。それどころか、恥の上塗りという状況も出てくる。山を車を押して登っているようなものと、ある先生がおっしゃった。

あたしは小さな乳母車でも押しましょう。と、なるのでいつまで経っても未熟なのである。が、大日如来様はおっしゃった。そのまんまで、充分可愛い・・と??病んだわたしに旦那は言う。「あんたは、とっても長生きしそうだ。」


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