負けるな知的中高年◆本ときどき花のちコンピュータ

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国家に許される暴力で人々は鯨のような死に方をしてきた

2004年11月24日 | 詞花日暦
良い国家や悪い国家ではなく、
国家の存在自体を疑ってみるべき事態がきた
――安部公房(作家)

 日本でも鯨の群れが海岸に漂着(ストライディング)するニュースが、ときおり新聞やTVに登場する。ちなみに平成十五年三月から五月の短い期間でも、漂着件数一一二件、十頭を筆頭に複数頭のケースは三件にものぼる。
 昭和五十九年、安部公房は「人間だって鯨のような死に方をしないという保障はどこにもない」と、米での講演原稿に書き留めた。まだソ連崩壊前、彼の脳裏には全面核戦争があったのだろう。しかし核の脅威、細菌戦やテロはいまも人々を脅かしている。日本は憲法を変え、戦争に備えようとさえしている。
 安部が書いた「国家だけになぜ暴力が許されるのか」という問いかけは、現在も生きつづけている。日本人は古来、お上という「国家」に寛容で、政治から経済まで国に一任して済ます生活態度に狎れてきた。「想像力の不足する楽観主義」は、ひとりが駆け出せば、全員が反応して駆け出す不安定さに満ちている。アメリカに追随する政府や政治家や官僚が口にする国家や国益を疑ってみないと、鯨のように死に急ぐ恐れがある。

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2 コメント

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Unknown (tubakuro)
2004-12-03 05:13:24
「国家だけになぜ暴力が許されるのか」は明らかに今に生きています。中国で数千万人が文革の際に虐殺され北朝鮮でもソ連でもものすごい数の人間が鯨のように殺されてきました。「国家」というものが強く意識されているこれらの国で国家の暴力が



問題なのは、明らかにここに存在する暴力に対してどう対処していくか、ということだと思います。自分達が暴力を放棄し国家にも同等に暴力の放棄を要求する。それはそれで高尚なことであり達成すべきことだと思いますが、現実に存在するものを無視は出来ません。そういったものにどう働きかけていくか、が難しい問題だと思います。
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コメント、ありがとうございます (菅原)
2004-12-03 09:20:50
国家以前にも、領主や部族や王権や宗教などといったもののために人々は死を強いられました。近代国家の今、私たちができる働きかけは、常に国家の動きに異を唱え続けることではないでしょうか。最終的には参政権しか残されていないわけですから、国家を牛耳る政治家・政権に対し、「ノン」の意思表示を明確に示す行動です。選挙に参加しない国民が半数近くいる現状が変わっていくことしかないようです。平凡のようですが、それしか残されていないと思います。どうでしょうか。一滴の水が岩を動かすしかないのでは?
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