負けるな知的中高年◆本ときどき花のちコンピュータ

「知の崩壊」とかいって、いつの間にか世の中すっかり溶けてしまった。
「知」の復権に知的中高年よ、立ち上がれ!

西方浄土へ海を渡る僧侶は「救けて」とつぶやいた

2004年11月27日 | 詞花日暦
世を厭い人を厭う老人の
厭世からの行為としか解されぬ
――井上靖(作家)

 補陀落渡海(フダラクトカイ)は、九~十八世紀まで、補陀落と呼ばれる西方浄土へ海を渡る宗教的な行為だった。和歌山県那智勝浦町にある補陀落山寺の事跡がその典型例。寺の横の小高い丘に登った。矮小な潅木を押し分けて行くと、いくつも卵塔婆が並ぶ。渡海上人たちの苔むした石塔である。
 井上靖の「補陀落渡海」は、永禄八年(一五六五)、この寺の住職、六十一歳の金光坊が秋の海に船出する心理を描いた。小舟に乗り込んだ僧侶は、あろうことか「救けてくれ」とつぶやく。井上は「老人の厭世からの行為」と見なし、「信仰とも観音とも補陀落浄土とも無縁」と書いている。
 あてどない楽園を求めて海に出る行為は、近代人にとっては愚かなこと。が、近代の心理学はわずかここ百年のことでしかない。もっと長い歴史を閲してきた人々の心の営為が、その十数倍もの間、日本人の奥底にひそかにたゆたっていた。もし古い日本人の深みに澱む幽かな心の風景を探りたいなら、表層的な近代人の心理学を捨ててかからねばならない。