菅原貴与志の書庫

A Lawyer's Library

『寝床』 義太夫の人情が分からないなら

2011-11-19 00:00:00 | 落語と法律
新・落語で読む法律講座 第12講

 ある商家の旦那、義太夫に凝るが、上手だと思い込んでいるのは自分だけ。今夜も長屋の連中や店の奉公人に聞かせようと張り切っていた。長屋に知らせに行った店の者の報告では、長屋の連中はみんな所用があり、奉公人たちもいろいろな病気で具合が悪いという。

 腹を立てた旦那は、「みなの気持ちは、もう、骨身に染みて、よーくわかりました。あたしの義太夫が聞きたくないもんだから、長屋の連中が用事だと言ったり、店の連中が仮病を使ったりするんだろう……もういっぺん長屋を回って来ておくれ。明日のお昼までにお長屋を残らず空けてくださいまし、とそう言って……何が乱暴だい? 義太夫の人情が分からないような連中に貸しておけないから立ち退いてくれ、と言うんじゃないか。店の連中だってそうだ。あたしのうちにいると、まずい義太夫の一段も聞かなきゃならない。まぁ、たいへんにお気の毒だから、暇をとってもらおうじゃないか」などというから、穏やかではない。

 慌てた番頭が長屋をまわって一同を集め、なんとか旦那をとりなそうとかかる……。

      


 この旦那、けっして悪い人物ではない。世話好きで人情に篤いが、なんの因果かのべつ下手な義太夫を語りたがるのだ。思い起こしてほしい。これと似たような性癖のある輩は、我々の周りにも必ず一人や二人はいるはずである。ただし、彼の場合、下手といっても、普通に下手なのではない。この世のものとは思われないほどの奇声を発するドヘタなのである。

 店の奉公人は、このドヘタな義太夫の被害に遭いたくないばかりに、みんなで仮病を使ったが、旦那のご機嫌を損ねてしまい、全員解雇を言い渡されてしまった。しかし、「義太夫の人情が分からないような連中」などという理由で、クビにされたのではたまったものではない。

 たしかに民法の建前では、いつでも労働者を解雇できることになっている(民法627条1項)。しかし、労働者の側から退職するのは自由だが、労働者を解雇することは使用者の自由ではない。使用者としては、客観的に合理的で相当な理由がなければ、労働者を解雇することができないのである。これが「解雇権濫用の法理」だ。

 さて、ここでひとつの事例をお考えいただきたい。ある放送局で宿直勤務をしていたアナウンサーが寝過ごしてしまい、朝のニュース番組に穴をあけた。ところが、このアナウンサー氏、そのわずか2週間後の宿直で、またも寝過ごしてしまったのである。放送局は、本来なら懲戒相当だが、温情をもって普通解雇にしたところ、これを不服として解雇無効を争われた。果たして、この解雇は有効だろうか、それとも無効であろうか?

 裁判所は、解雇事由がある場合でも、具体的事情に照らし、社会通念上相当といえなければ、解雇権の濫用となるとして、本件解雇を無効と判断した(最判昭52・1・21)。要するに「同じ間違いを2回やってもセーフ」というのが、最高裁の考え方なのだ。一般人の常識的な感覚からすれば、相当に寛大な判断だろうし、それだけ労働者の権利は強く守られているということでもある。この解雇権濫用の法理、現在では労働契約法16条に明文化されている。

 ちなみに、旦那の都合で明渡しを求めるにも正当事由が要求されることは、第7回『小言幸兵衛』(6/20)でも述べたところである(借地借家法28条)。「義太夫の人情が分からないような連中に貸しておけない」では、とても店立てをくわせる理由にはならない。

      


 ようやく番頭の説得が奏効し、機嫌を直した旦那がみっちりと義太夫を語りはじめた。

 しかし、芸にも何もなっておらず、とても聞けたものではない。ふるまわれた酒やご馳走をたらふく食べた聴衆は次々に寝てしまう。座が静かになったので、旦那がさぞかし感に耐えて聞いているのだろうと簾を上げて見れば、みんながゴロゴロと横になっている。カンカンに怒った旦那が、ひょいと見ると、小僧の定吉がただ一人で泣いている。「どこが悲しかったか?」と聞くと、「あそこンところでございます」、「あそこは私が義太夫を語った床じゃないか」、「あそこが、わたしの寝床なんでございます」。



【楽屋帳】
 素人芸(俗にいう旦那芸)噺では一番有名で、義太夫(上方でいう浄瑠璃)が流行った時代のお噺。原話は安楽庵策伝の『醒睡笑』(1628年)にある。八代目桂文樂、五代目古今亭志ん生、五代目春風亭柳朝などの高座で知られ、義太夫がテーマの作品はほかに、『軒づけ』『豊竹屋』などがある。
 さて、解雇権濫用の法理だが、労働契約法には罰則が用意されていないため、合理性なき解雇は無効となるものの、使用者が刑罰を受けたり行政処分を受けることはない。しかし、法律上無効な解雇を行っていた場合、過去2年間に遡って、賃金の支払を労働者から請求される可能性があるほか、従業員の地位の確認の訴えの中で、将来分の賃金の支払を和解案として求められる可能性がある。企業経営者としては、くれぐも注意しなければならない。


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