-まえがき-
第二次世界大戦に於いて敗戦国となった日本の、昭和二十年四月に国民学校1年生になった少女が、
その明くる年に、戦災の痛ましい状況も知ることなく、八王子の叔母のところへ養女として、
ちょっと不安と希望を胸に出発することになったのでした。
『追 憶』
国民は、新聞を凝視した。
“ ピカッ、ドン ”
もくもくと、巨大な、きのこ雲が浮き上がり、不気味な感じを、私は強く心にとらえたものであった。
この春、私は女子国民学校へ入学したのであった。
その頃学校では、女先生も背には防空頭巾、足にはゲートルを巻いて、手には鞭を持って、きりっと身づくろいをし、
厳しさで優しさが打ち消されるような先生のイメージが浮かび上がって来る。
「では、教科書を開いて。」
先生の声で、姉のお下がりの国語の本を開いてみる。

「アカイ、アカイ、アサヒ、アサヒ。」
「はい、皆んなで大きな声で読みましょう。」
皆んな声を揃えて読み返していると、

「警戒警報発令。」
という声で一斉に整列し、防空頭巾をかぶって黙々と先生の指示に従って、排水路にうつっぷせを当然のようにするのであった。
しかし、まだこの地方では爆撃も受けず、のどかな自然の中で自由に遊び、行事を待ちわび、
大人の心配をよそに、どこかで大変な恐ろしい爆弾が落とされ、家が焼かれたり、死んでいく人々もいるということは知っていても、
七才の子供としては身につまる感覚は持てなかったようであった。
各家々には、火の粉を払い除ける纏や、鳶口とか、竹槍は、すぐ目の届くところに立て掛けてあった。
又、町内会の人々が日の丸の旗を振って、出征兵士を見送るのをながめていて、いさましく、立派だなと思うだけで、
その陰の悲しさまで感じとることが出来なかった。
ある夜、そののどかな自然の中にも突如、行軍の靴音が石道を「ザク、ザク」と30分も続くこともあるようになり、
空き地では、射撃の演習も行なわれるようになると、私もどことなく戦争の恐ろしさを感じざるを得なくなった。
この頃、何の不自由も感じない七つの子供でしたが、食べ物の不足には不満であった。
五人の子供と祖父母を抱えての両親の苦労は並大抵のものではなかったようであった。
しかし、父と祖父は、家業の大工の弟子を抱えながら黙々と働き、母は、子供のことを祖母に任せて、畑仕事に精を出していた。
一度も両親から苦しい時代だから我慢しなさいと注意されるまでもなく、そこに現実を見せつけられ、子供なりに何にも無いのだと感じとらされた。
姉達は一言も文句をつけずに食膳について、黙って食べているのを見ると、不満を言ってはいけないと分かりながらも、
大根の干し葉を刻んで、ご飯と一緒に味噌で味付けして煮込んだものが苦手で、我がままを抑えきれず、テーブルの下に潜って大声で泣いてみるのであった。
誰もなだめすかしてくれず、どうにもならないとあきらめ、一食抜きということになる有様で、その罰(ばち)があたって、兄弟中で一番ちびで不格好である。
学業も次第に落ち着いて出来なくなり、上級生は学徒動員で工場や田畑やその他の重要な場所にそれぞれ配置され、労働を惜しみなくやらなければならなかった。
下級生は全員近く野山に出かけて、アカシアの葉をたくさん取って来て、乾燥させ、粉にして、
上級生の女生徒が作ってくれた、ふんわり出来上がったパンを食べた記憶と共に、味が今だに口の中に残っている。
どことなく渋くて、アカシアの特有の香りがつんとして、でもまずい記憶は微塵もない。
きっと、最高であっただろう、当時の食べ物としては。
~ ②へつづく ~
第二次世界大戦に於いて敗戦国となった日本の、昭和二十年四月に国民学校1年生になった少女が、
その明くる年に、戦災の痛ましい状況も知ることなく、八王子の叔母のところへ養女として、
ちょっと不安と希望を胸に出発することになったのでした。
『追 憶』
国民は、新聞を凝視した。
“ ピカッ、ドン ”
もくもくと、巨大な、きのこ雲が浮き上がり、不気味な感じを、私は強く心にとらえたものであった。
この春、私は女子国民学校へ入学したのであった。
その頃学校では、女先生も背には防空頭巾、足にはゲートルを巻いて、手には鞭を持って、きりっと身づくろいをし、
厳しさで優しさが打ち消されるような先生のイメージが浮かび上がって来る。
「では、教科書を開いて。」
先生の声で、姉のお下がりの国語の本を開いてみる。

「アカイ、アカイ、アサヒ、アサヒ。」
「はい、皆んなで大きな声で読みましょう。」
皆んな声を揃えて読み返していると、

「警戒警報発令。」
という声で一斉に整列し、防空頭巾をかぶって黙々と先生の指示に従って、排水路にうつっぷせを当然のようにするのであった。
しかし、まだこの地方では爆撃も受けず、のどかな自然の中で自由に遊び、行事を待ちわび、
大人の心配をよそに、どこかで大変な恐ろしい爆弾が落とされ、家が焼かれたり、死んでいく人々もいるということは知っていても、
七才の子供としては身につまる感覚は持てなかったようであった。
各家々には、火の粉を払い除ける纏や、鳶口とか、竹槍は、すぐ目の届くところに立て掛けてあった。
又、町内会の人々が日の丸の旗を振って、出征兵士を見送るのをながめていて、いさましく、立派だなと思うだけで、
その陰の悲しさまで感じとることが出来なかった。
ある夜、そののどかな自然の中にも突如、行軍の靴音が石道を「ザク、ザク」と30分も続くこともあるようになり、
空き地では、射撃の演習も行なわれるようになると、私もどことなく戦争の恐ろしさを感じざるを得なくなった。
この頃、何の不自由も感じない七つの子供でしたが、食べ物の不足には不満であった。
五人の子供と祖父母を抱えての両親の苦労は並大抵のものではなかったようであった。
しかし、父と祖父は、家業の大工の弟子を抱えながら黙々と働き、母は、子供のことを祖母に任せて、畑仕事に精を出していた。
一度も両親から苦しい時代だから我慢しなさいと注意されるまでもなく、そこに現実を見せつけられ、子供なりに何にも無いのだと感じとらされた。
姉達は一言も文句をつけずに食膳について、黙って食べているのを見ると、不満を言ってはいけないと分かりながらも、
大根の干し葉を刻んで、ご飯と一緒に味噌で味付けして煮込んだものが苦手で、我がままを抑えきれず、テーブルの下に潜って大声で泣いてみるのであった。
誰もなだめすかしてくれず、どうにもならないとあきらめ、一食抜きということになる有様で、その罰(ばち)があたって、兄弟中で一番ちびで不格好である。
学業も次第に落ち着いて出来なくなり、上級生は学徒動員で工場や田畑やその他の重要な場所にそれぞれ配置され、労働を惜しみなくやらなければならなかった。
下級生は全員近く野山に出かけて、アカシアの葉をたくさん取って来て、乾燥させ、粉にして、
上級生の女生徒が作ってくれた、ふんわり出来上がったパンを食べた記憶と共に、味が今だに口の中に残っている。
どことなく渋くて、アカシアの特有の香りがつんとして、でもまずい記憶は微塵もない。
きっと、最高であっただろう、当時の食べ物としては。
~ ②へつづく ~