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嗚呼 満豪開拓団

2009-07-29 19:46:29 | Weblog
羽田澄子氏の作品を岩波ホールで見ました。
解説書によると、1936年に起きた二・二六事件後、政府の農村救済対策に対する農民の不満もあり、この事件後に出来た広田弘毅内閣が、当時の人口増加、そして資源の乏しい日本、又農村対策として20年かけて100万戸・500万人を満州に送り込む国家プロジェクトを計画した。関東軍に守られながら、満州の広大な土地を所有出来ると言う甘い言葉に釣られて、主に貧しい農村の次男坊達が開拓団に応募して行ったのだった。終戦の一ヶ月前に行った人もいたそうだ。
戦争末期になると働ける男達は皆軍に招集され、その上ソビエト軍が参戦すると、残された女子供達は当然鉄道で安全な場所に連れって行ってもらえるはずだと思ったが、鉄道は軍の高級将校とその家族だけを乗せて行ってしまい、女子供を主とする開拓団員達は、関東軍が駐留しているはずの方正(ほうまさ)に向かって歩いた。
この逃避行で多くの女、子供、老人達が飢えと疲労で泣きながら死んで行ったと言う悲惨きわまりないものだった。
そしてかろうじて目的地の方正に着いても、関東軍はおらず、そこに集まった避難民の多くが零下30度の冬を越す事が出来ずに、飢えと、栄養失調、発疹チフスで死んでいったと言う。1946年春、それらの死体が溶け出し、県政府がその4500体に石油をかけ、三日三晩かかって焼いたと言う。後にこの骨の山を日本人の残留女性が、畑で作業中に発見し、県の政府に墓を建てたいと申し出る。
最終的には、日本軍国主義と日本人民は違う、一般人民は軍国主義の被害者だとする周恩来首相の計らいで、「方正地区日本人公墓」が建てられ、日中友好のシンボルとなっている。
このドキュメンタリーは、新潟から方正行きのツアーがあり、それに参加した羽田さんが、参加した人々の体験やその他の人々の軌跡を辿ったり、実体験を聞き取ったりした実録であり、これらの事実を通してこの悲劇を多くの人々に語り、伝えています。二時間に及ぶ長い実録でしたが、以前テレビ等で見たドキュメンタリーの方が、短く纏め上げて何となく感動したように思ったのはなぜでしょうか?
開拓団員の犠牲者は約7万2000人、実帰国者は約1万1000人(うち6500人は死亡)と推定されているそうです。
以前テレビで残留孤児の肉親を探している場面を見ましたが、彼らが産着の切れ端、セピア色になった写真、被っていた帽子などを手に懸命に捜し求めている姿を見ては、胸を締め付けられました。
戦争では沢山の人々が犠牲になりました。
でも満豪開拓団は戦争の最大の犠牲者であったと思います。
これだけ沢山の犠牲者を出した日本政府の無責任な行為に対して、政府はもっと暖かい手を差し伸べてほしいです。