一瞬一瞬を大切に!

毎日を大切にして、楽しみ、忙しく過ごしています。

新しいブログを

2007-12-16 17:17:30 | Weblog
有難うございます。未だにご覧頂いていたのですね。
新しいブログは sue1214_2007 一瞬一瞬を大切に!で検索してお開き下さい。
長い事有難うございました。

あのミニトマトは

2007-07-24 20:04:39 | Weblog


前に蒔いたミニトマト(右側の植木鉢)がこんなに大きくなりました。
あの植木鉢には、一本だけ植えて、後は間引くようにとと説明書に書いてありましたので、捨ててしまうのも可哀想だしと、このプランターに残りを移植しました。
さあこれからどう成長してくれるでしょうか?
この場所は東なので、午前中しか太陽が当たりません。
様子を見て、もっと日当たりの良い所に、移動してあげようかとも思っています。
それにしても、あんなに小さい種からこんなに成長してくれるなんて、本当に植物って素直で可愛いですね!

施し

2007-07-21 20:13:59 | Weblog
 先日本を読んでいたら、とても感動させられた記事があった。

 この記事を書いた作者がインドのボンベイ(現在のムンバイ)の空港で預けておいた荷物を引き取って、これから飛行機に乗ろうとしていた時に、現地の貨幣ルピーを、もう使い切ってしまって全く持っていない事に気がついたが、持っていたトラベラーズチェックも使えず、どうやって預け料を払ったらいいか困っていた時に、そばにいた若い男性がそのお金を何もいわずに払ってくれた。
とても感激して、借りたお金を返すのに、その男性の住所を聞いたところ、
 「返す必要はないが、もしあなたが、何処かで同じようにお金がなくて困っている人がいた時には、私と同じようにして上げて下さい。」と言い、次のような話をしたそうだ。
 
 彼の父は、インド政府の立派な人物であったメノン(Menon)の補佐役だったが、この行為はメノンから引き継いでいるのだと。
 
 メノンは12人兄弟の長男で、家が貧しく、13歳で学校をやめ、労働者、炭鉱夫、教師と職を点々とし、最後にインド政府の事務員の職を得て、当時のインド政府とイギリス政府の政治家や官僚の下で、その誠実さと卓越した能力で当時のネルー首相にも一目置かれたが、特に他人への慈悲深さで評判だった。
 
 メノンが職を求めてデリーへ出てきた時、持っていたお金、I.D.カード、荷物の全てを駅で盗まれてしまい、途方にくれていた時に、傍にいたシーク教徒に、事情を説明して、職を得るまで15ルピー貸してほしいと頼んだ。シーク教徒は快く貸してくた。メノンがお金を返すために相手の住所を尋ねたところ、彼はその必要はないから、同じように困っている人がいた時に、あなたは私がしたと同じ施しをその人にするようにと言った。
 
 メノンの死の前日に、裸足で足を痛めた乞食が、サンダルが欲しいので15ルピー恵んでくれと言って彼の家にやってきた時に、メノンは娘に財布から出してあげなさいと言って、彼の生前最後の施しをした。
 
 作者にお金をくれた人は、自分もこれと同じ事をしているだけだと言い、自分の乗る飛行機へと去って行ったそうだ。

 お金の額にしたら大したものではないが、その心は素晴らしいではないか!

 こう言う心を持って、皆が生きて行く世の中になったらどんなに素晴らしいことか!

グロリオーサ

2007-07-17 19:34:01 | Weblog
五年前に、二つ球根を買って植えました。それ以来毎年咲いてくれます。正面から見たグロリオーサ。
裏側から見たグロリオーサです。雨の中で、今年も又忘れずに二本の中の一本が、咲いてくれました。


私が神=宇宙の存在を感じた時

2007-07-14 22:05:58 | Weblog
 皆さんは神の存在を感じた事がおありですか?

 私はクリスチャンでも、仏教徒でも、イスラム教信者でもありませんが、ずっと昔に、神=宇宙の存在を感じたことがあります。
もう何年前になるか忘れましたが、北欧、確かノルウェーでだったと思います。
ノルウェーの何処だったかは全く記憶にありませんが、すごい田舎で、広い一本の道が何処までも続いていた事だけは、強く印象に残っています。
バスであちこちと観光して回っていたのですが、このときはトイレ休憩で、用事が済んだ人たちは道路を渡った向かいのお土産やに行きました。これまでガイドさんに、日本と違って車は右側通行だから、くれぐれも注意するようにと言われていました。私もお土産やさんに行こうと、何の気なしに右足を道路に下ろそうとして、何だか急に背中を、後ろからものすごい力で引っ張られたような気がして、はっとしたとたん、左から物凄いスピードで車が私の顔すれすれに、通り抜けていきました。あの時右足を路に下ろしていたら、今私はいません。完全に即死していました。あの時の、私の背中を物凄い力で引っ張ったのは、神=宇宙としか思えません。
この後私は暫く、恐怖と安堵の不思議な気持ちでボーとしていました。気がつくと、右側から来た車が止まってくれて、私に路を渡るようにあいずしてくれていました。多分危なっかしかった私を見ていたのだと思います。
 あの時から、私は神に生かされているのだと、ずっと思っています。
イギリスの作家、トーマス.ハーディーが、人は生まれながらにして、その運命が決まっているのだと言う説を、彼の小説、テス等で読んだ事がありますが、確かにそうかもしれません。あの時、私の背中を強く引っ張ったあの力は、神の力だったと、今でも思います。
 神に生かされている私は、それだけの何かをしているか、といつも考え、思い悩んでいます。

格差社会

2007-07-12 21:59:46 | Weblog
 先日テレビを見ていたら、ハンバーガーの早食い競争とやらをやっていた。
過去数回優勝している日本人が顎まで外しながら頑張ったが、連続優勝は出来なかったようだ。

 同じ日に、やはりテレビを見ていたら、フィリッピンのマニラの貧民街に住んでいる少女とその家族の話をやっていた。父を失い、母は病で床についていて、幼い弟二人の家族を、その幼い少女がごみの山の中から、お金になる物を探して売り、生活しているそうだ。日に100円から120円の収入になればいいほうで、それも母親の薬代に消えてしまい、この数日何も口にしていないとか。やっとお米が買えて、炊いたご飯に塩をかけただけの食事を、家族で嬉しそうに食べていた。学校にも行きたいが、とても行けないと、悲しそうに語っていた少女が哀れだった。このハンバーガーの一つでもあげられたらどんなにか喜ぶ事だろう。

又、日本では、持病があって働けないのに、働けと言われ、生活保護を止められた50代の男性が、ガス、電気、水道を全て止められ、日記におにぎりが食べたいと書き残して、餓死しているのが発見された、との記事を読んだ。
 何で役所はその後のフォローをしないのか? 地方公務員は日本で最も高い給料をもらっているそうではないか。どう言う仕事をしているのか。しかっり仕事をしてくれよと言いたい。

 同じ人間として生まれながら、ここまで格差があるとは。
いくら宣伝とは言え、一方では無理をして早食い競争までし、この少女の様に何も食べることが出来ない日々を送り、やっとありつけたご飯を、嬉しそうに大事に食べて、やっと生きている人々。おにぎりが食べたいと書き残して餓死した男性。
 
 私は、毎日美味しいご飯を頂ける事を、感謝しなければいけないと痛感しています。物価も税金も高くなり、随分生活も大変になって来たけれど、でも美味しいご飯は毎日いただけますから。

 それにしても、得体の知れない事務所費を、10年間で9000万使いながら、たかが年間900万と嘯いたお方は、その明細書も提出せず、私たちの税金で、ファーストクラスに乗ってヨーロッパへお出かけなさったとか。こう言う方々には、このフィリッピンの少女の心の中の叫びや、おにぎりが食べたいと言って餓死した男性の悲痛な願い、など馬耳東風なんでしょうね。

中国旅行 追伸

2007-07-05 22:08:49 | Weblog
棗の木。乃木さんの馬をつないだ木。皆枯れて三本目です。でも又枯れているようです。
会見所のそばに茂っていました。

瀋陽にて。ケンタッキーフライドチキンやさん。中国語で読めますか?何となく解るような気もしますが。
瀋陽の町角の自転車修理やさん。自転車は昔北京で見た時ほど多くなかったです。ワーゲンが沢山走っていたので、びっくりしましたが、現地のガイドさんの説明によると、このワーゲンは型の古い昔ので、安く、日本車が燃費も安く人気だそうです。でも値段が日本より4~5倍高く、金持ちしか乗れないそうです。


今回の旅行では、ハルピン駅で数人の乞食を見かけました。一人は両手首がないおじいさんで、私たちの後をずっとついて来ましたが、現地のガイドさんがお金をやらないでくれと言うので、可愛そうですがあげませんでした。いくらあげてももっとくれ、と言ってついて来るからだそうです。おばあさんもいました。夫婦だったのかもしれません。
 前に日本のテレビで、中国の都会と田舎の貧富の差について放映していましたが、ITで金持ちになった30代の若者達と、田舎の貧しい人々の生活の差のひどさにびっくりしました。年収7万円の田舎で、一家で暮らす家の娘が、3ヶ月間、わたつみの出稼ぎに行く話でした。その娘は携帯を買うのが目的で出かけたのですが、厳しい労働と寒さと、蚕だなみたいな所での寝泊り、お風呂には一度も入れない生活を体験して、寡黙になり、何も買わないで、帰国すると言う話でした。
 今回は都会しか行きませんでしたから、都会の様子しかわかりませんでしたが、
町には田舎から、色々な農産物を背負ってやって来た、大勢のおばさんや若者達が、道端に大きな風呂敷を広げて、その上に色々な品物を並べて売っていました。
警察の取り締まりが厳しいので、すぐ逃げられるように、風呂敷を敷いているのだそうです。いざと言う時に風呂敷ごと持って逃げられるから。日本の終戦直後と同じです。でも皆逞しいです。今の日本にはこの逞しさが全く見られませんね。平和ぼけですかね。元気なうちに、南京大虐殺記念館にぜひ行って見たいと思っています。

大連へ

2007-07-01 17:11:05 | Weblog
大連へは、日本の新幹線にあたる列車「長白山」に乗りました。瀋陽から約四時間かかります。座席は軟座(一等車)と硬座(二等車)があります。軟座で快適でした。
旧大和ホテル。
旧大和ホテルの窓辺で休んでいたはとの親。時々飛び立って行き、餌を持って帰ってきて、傍に居た子鳩にあげていました。
その子鳩。

大連港です。ここから黒龍江省、吉林省等から、戦後やっと逃げて来た多くの日本人が、日本の舞鶴へと向かった港です。この港へたどり着けたのはごく少数の、幸運な人々だったのでしょう。
日露戦争の激戦地、東鶏冠山、203高地へ行きました。その時戦死した人々の慰霊塔です。
水師営。ここで日本の乃木大将とロシアの代表が終戦の締結をした場所。
この部屋で調印したそうです。右横にあるテーブルはその時用いたものだとか。


この建物のなかにあった記録写真の展示してあったものからです。日本の軍人が中国人に如何に残酷なことをしたかを物語っています。日本に逃げてきた開拓団の人々も悲惨でしたが、現地にいた中国の人々も沢山犠牲になったのです。よくこの写真をみて、私たちは、人々が如何に戦争で悲惨なめにあったか、戦争は絶対してはならない事だ、と反省しなければいけないと思います。以上中国東北地方の旅の報告です。

瀋陽にて

2007-06-29 17:39:23 | Weblog
清王朝ゆかりの北陵入り口。
北陵内門。


城壁上より見た城内。
王の墳墓。

瀋陽故宮。世界遺産。
瀋陽故宮正門。

王の住居。左手が居間、右手が寝室。第一夫人との住居だったそうです。この正面の左右にそれぞれ三つ、計六個、ちょっと小さめの住居がありましたが、側室達の住居だったとか。正室の住居に入ると、すぐ左横に皮で張ったちょっと広めの場所があり、少し先に大きな釜が二つありました。この場所で生きた豚の耳の中に、煮えたぎった酒を入れ、豚が痛さに泣き叫ぶと、すぐに湯が煮えたぎっているこの釜の中に入れて茹で、皆で食べたとか。哀れなので写真は撮りませんでした。豚の臓物は外にある大きな瓶の中に入れ、カラスに捧げたとの事。これは清の太祖ヌルハチ(1559~1626)が、明との戦いで追われ、あわやと思った時に沢山のカラスがヌルハチの体を覆い隠し、カラスを不吉と思った明軍が去って行き、ヌルハチの命を救った為だそうです。

長春にて

2007-06-26 17:21:07 | Weblog
旧満州の首都だった長春。偽満皇宮博物院。清朝第12代、最後の皇帝だった愛新覚羅溥儀氏(1906~1967)の家。1934年に日本軍部に擁せられて満州国の皇帝となった。悲劇の皇帝。
偽満州皇宮博物院正面入り口

玄関入り口。二階への階段。
庭から見た建物。

溥儀氏の書斎。綺麗になっており、往時が偲ばれました。
第一夫人の寝室。晩年は阿片で体は衰え、逃走中の車中で亡くなったそうです。

溥儀氏が関東軍の関係者と面会した部屋。
邸内の中庭。外出も自由に出来ない溥儀夫妻にとっては、唯一の心の安らぎの場所だったかもしれません。

旧満鉄病院。現在の大連大学付属中山医院。
医院についての歴史が書かれていた。


長春の町の夜景。中国は物凄い勢いで発展しています。
あまりけばけばしくはない、程よい光の夜景でした。

郊外から町に来てももを売っていたおばさん。
レストランの入り口に立っていた女性が持っていた花束。何のお祝いでしょうか。

レストランの中にあった魚屋さん。同じおさしみでも並べ方が日本とはちょっと違いますね。
何か面白そうな食べ物でしたが、何だかよくわかりませんでした。

お花みたいな飾りつけ。これも食べ物です。
いろいろな種類のしゅうまいや、餃子など。綺麗に並べてありました。