簾 満月「バスの助手席」

歩き旅や鉄道旅行のこと
そして遊び、生活のこと
見たまま、聞いたまま、
食べたまま、書いてます。

国鉄との競合  (西大寺鉄道廃線跡を歩く)

2021-10-06 | Weblog


 一般的に全国の私鉄の多くは、営業収入の減少による赤字が経営を圧
迫し、それが原因で廃線に追い込まれることが多い中で、この旧西大寺
鉄道は少し事情が違っていた。
 鉄道の起点に西大寺観音院と言うドル箱を抱えていたこともあり、旅
客数は確保され、収入も安定し年度毎の決算でも殆ど黒字経営であった。



 しかし当時の国鉄が、山陽本線のバイパス的路線として赤穂線の開通
を決めたことで事情は一転、この鉄道の命運が決まってしまった。
これまで鉄道からは取り残されていた西大寺を新線が通り、東岡山と結
ばれるとあって路線は完全に被ってしまい競合する事が避けられない。



 庄内川を渡り、県道と用水路に沿ってしばらく行くと、道路脇にやや
年代を感じる二重屋根の平屋家屋が建っている。
何時頃建てられたかは定かではないが、明治44年に開業した旧西大寺鉄
道の「大多羅(おおだら)」駅の駅舎であった建物だ。
現在では地元の目黒集会場として使われている。
一部増築するなど手が加えられているので、駅舎と言われなければ判ら
ないような建物だ。



 旧線はその先で県道を外れ東に向け大きくカーブすると、左手には同
じようなカーブを描き、大多羅駅に向かうJR赤穂線が近づいてきて、
駅がその先左手の高台に見えてくる。
駅は昭和37(1962)年延伸開通された旧国鉄のもので、西大寺鉄道の
駅とは400mほどしか離れていない地である。



 西大寺鉄道の沿線には、バス路線こそないものの赤穂線の開通は経営
に与える影響は深刻で、相手が国鉄とあっては異議の申し立ても出来ず、
太刀打ちできないとの判断がなされた。
不本意ながら廃線と言う撤退である。(続)





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桜見物の駅・長利 (西大寺鉄道廃線跡を歩く)

2021-10-04 | Weblog


 財田(さいでん)駅前を出た鉄道の痕跡は定かには認められないが、
現在の駐輪場辺りを東に向けて進み、その先で大きく南に進路を変え、
東西に流れる国道2号線(現250号線)と平面交差し「長利」駅に向か
っている。



 この間を地図で確認しても、多くは住宅地や大型のパチンコ店の敷地
(以前は大型の商業施設が有ったところ)に変貌してしまった。
どこにも線路跡らしい形状の道路を認めることはできない。
僅かに団地内の道路100mほどに、それらしき痕跡が認められる程度だ。



 国道250号を越え、拡幅もされていない昔ながらの狭い旧道を暫く進
むと、歩道も整備され、やや拡幅された道路に出る。
丁度この辺りから先が線路跡を転用されたものらしく、ほぼ直線の道路
が延びている。そんな道を進むと途中の小さな児童公園の中に、「長利」
駅を示す白い駅名標が立っている。



 開業当時は「岩間」と呼ばれた駅である。
目の前を流れる百間川の対岸に、備前四十八ケ寺の第5番、高野山真言
宗派の岩間山・最明寺・山本院と言うお寺が有り、堂前には「岩間の桜」
と言われる銘木が有ったそうだ。

 ここが花見の名所として知られ、駅は花見シーズンには多くの客で賑
わったと言われているが、残念ながらその桜は枯れてしまった。



 線路跡と思しき直線道路は、その先も続きこの道のバイパスとして造
られた広い県道に接し、その先で庄内川に架かる目黒橋を渡る。
何か痕跡でも残されていないものかと、川面や土手を探してみるが残念
ながら何も見つけることは出来なかった。(続)





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長岡駅 (西大寺鉄道廃線跡を歩く)

2021-10-01 | Weblog


 幡多駅が大師駅に改称された同年、仮駅で営業を始めていた後楽園駅
が新駅に移行し、これでようやく西大寺と後楽園までの間が竣成した。
それは、西大寺と長岡間で、一日36回運転を初めた4年後の、大正4年
(1915)年11月の事である。



 大師駅跡を背に、線路跡を思わす直線的な道路を進み、乙多見の公会
堂辺りを過ぎると、左手からは山陽新幹線の高架と、その下を並走する
山陽本線が次第に近づいてくる。
やがて目の前は整然と区画された工業団地で、工場等が見えてきた。



 旧線路はここを突き抜けていたのであろうが、周辺にはその欠片も残
されていない。それどころか線路跡を特定することさえ難しい。
団地内の道路を迂回しながら、JR山陽本線の東岡山駅前の広場に出る。

 嘗てこの辺りに西大寺鉄道の「長岡」駅が有った。
今ではその面影はどこにもなく、広い駐車場になっている。



 ここは西大寺鉄道では唯一の、国鉄との接続駅であった。
当時国鉄の駅名はその地名から「長岡」と呼ばれていたが、紛らわしい
として後に財田(さいでん)と改称されている。

 現在の「東岡山」に改称されるのは昭和36(1961)年で、これはその
後の運命を決する赤穂線が、延伸開通し乗り入れる1年前のことだ。



 当初はこの駅で国鉄から乗り継いで、西大寺に向かう乗客に大きな期
待が掛けられていたようで、その為のこの区間の先行開業でもあった。
事実この頃、路線沿いには競合する路線バスも無かった事から、鉄道は
文字通りドル箱路線となった。
西大寺会陽(はだか祭)では、その参拝客輸送の収入が、一年分の収入
の大部分を賄っていたと言う。(続)





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