簾 満月「バスの助手席」

歩き旅や鉄道旅行のこと
そして遊び、生活のこと
見たまま、聞いたまま、
食べたまま、書いてます。

東海道の宿場町・豊橋 (JR乗り潰しの旅・飯田線)

2021-01-06 | Weblog


 渥美半島の付け根に位置する豊橋の町は、中世の頃は「今橋」、江戸
時代には「吉田」と呼ばれていた。
今の「豊橋」と成るのは明治2(1869)年以降の事である。
中世に今橋城が築かれて以来の城下町で、この町が一層の繁栄を来すのは、
天正年間に徳川家康が江戸に移り、その後入城した池田輝政が城郭を広げ、
三河吉田藩として城下を整備したことによる。



 又この地は江戸時代に入り旧東海道34番目の吉田と呼ばれる宿場町と
なり、豊川水運の湊町でもあった事から町は大いに賑わった。

 豊橋駅の東口から市電に乗ると三つ目の駅が、「札木」である。
その線路に直交する東西の道路が旧東海道で、この辺りが旧吉田宿の中
心的な場所だ。



 当時の宿場規模は、本陣・脇本陣が各1軒あり、旅籠は65軒有った。
東海道の街道筋に沿って「表町十二町」「裏町十二町」から成る宿内に、
1,293軒の家があり、人口は5,277人と伝えられている。
宿場には娼家も多く、飯盛り女、遊女がいて、当時の旅の情報書などで
も頻りにその様子が伝えられている。



 吉田宿の名物として、昔から知られている物に菜飯田楽がある。
大根葉をご飯に混ぜて炊き込んだ菜飯と、豆腐に調味した味噌を塗り焼
き上げた味噌田楽を組み合わせたもので、今でも当時から続く店が街道
筋に残っている。



 美人のことを「べっぴん」と呼ぶが、元々は、ウナギ屋が「すこぶる
別品」のキャッチフレーズで売り出したところ大評判になり、この言葉
が全国に広がり極上品を「別品」=「別嬪」=「美女」と成ったもので、
その発祥となったうなぎ屋もある。

 又創業が百数十年前という、みたらしの店なども有り、歴史ある町だ
けに老舗も多い。(続)



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渥美半島(JR乗り潰しの旅・飯田線)

2021-01-04 | Weblog
 「名も知らぬ遠き島より 流れ寄る椰子の実一つ
  故郷の岸を離れて 汝はそも波に幾月」



 伊良湖岬に滞在した柳田国男から、浜に流れ着いた椰子の実の話を聞
いた島崎藤村がそれを元にイメージして創作した「椰子の実」の一節で、
明治34(1901)年に発表された。
伊良湖岬は太平洋と三河湾を隔てる渥美半島の先端の岬である。



 渥美半島は豊橋付近から西南西に突き出すように延びた半島で、その
長さはおよそ50キロメートル、幅は5~8キロメートルと言われている。
沖を流れる黒潮の影響で、年間を通じて温暖な気候で平均気温が高く、
日照時間が長く全国でも有数の農業地で、特に電照菊が知られている。



 半島の先端伊良湖岬は愛知県を代表する観光地の一つだ。
岬には「日本灯台50選」に選ばれた、白亜の伊良湖岬灯台が立っている。
潮流が速く、暗礁が沖まで続く難所と言われる伊良湖水道の航海の安全を
担う灯台の光は、12.5海里(約23㎞)を照らすという。



 沖には、三島由紀夫の小説「潮騒」の舞台として知られる神島(三重
県)が見える。
岬にある「日出の石門」は、太平洋の荒波で真ん中が空洞になった岩で、
これを見下ろす園地には、藤村の「椰子の実」歌碑が立っている。
大中寅二が作曲した国民歌謡の楽譜付きで、詩も全文が刻まれている。


 
 半島の太平洋側には凡1キロにわたって「恋路ヶ浜」と呼ばれる砂浜
が続いている。昔都を追われた男女の恋の逃避行先がこの地で、二人の
恋は叶わぬまま二人は死んで貝になったとの言い伝えが有り、いまでは
恋のパワースポットとして知られている。(続)



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境川 (東海道歩き旅・遠江の国)

2021-01-01 | Weblog
「人真似に 我も喰わなん 白須賀の さるか馬場の このかしわ餅」



 白須賀宿を後にした旧街道は、緩やかに下る道に転じ、暫く行くと
「夏目甕麿邸跡 加納諸平生誕地」の石碑が有る。
更に古い庚申堂を右に見て、やがて旧国道1号線と合流する。
この辺りが、小さな松の生い茂る「猿ヶ馬場」と呼ばれる原山の地で、
境宿・立場のあったところだ。



 「猿馬場の茶店に柏餅を名物とす」或は、「あずきを包みし餅 裏表
柏葉にて包みたるもの」等と言われ、詩にまで読まれた名物・かしわ餅
が知られた地である。

 一軒ぐらい名物を商う店が残っていれば良いと期待してやってきたが、
今はこれを商う店はどこにも無く、それどころか店らしい店も何もない
寂しいところだ。



 国道1号線に出て、その歩道を300m程行くと農業用水のような小さ
な川を越える。うっかりしていると見落として、そのまま通り過ぎてし
まいそうな程目立たない川だ。

 是が遠江の国と三河の国を隔てる境川で、昔は「板橋八間」と言われ
る橋が架けられていた。
国を分ける川は、どこでも一様に「境川」と呼ばれていたようだ。



 今でもこれが静岡県と愛知県の県境で、川は愛知県が管理をしている。
国道には「愛知県豊橋市」を示す大きな表示板が立ち、歩道脇の草むら
には、県境を示す古びた三角柱が隠れるように埋め込まれている。



 川を越えれば、旧東海道は三河の国へと入っていく。
白須賀から三河国の最初の宿場二川までは、1里17丁(5.8㎞)の道の
りが待っている。暫くは単調な国道の歩道を歩く道である。
(東海道歩き旅・遠江の国 完)



次回から「JR乗り潰し 飯田線195.7㎞ 鈍行列車の旅」が始まります。

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