blog Donbiki-Style

筆者:どんびき(地域によりカエルの意)

マニュアルの弊害

2007-12-05 23:03:28 | 日記
今月になってやや重いテーマを書いているが、月が替わって意気込んでそうしているわけではない。
3日付けの記事を書いていて頭の中がいろいろとふくらんだので、昨日今日と続編を書くことになった。

現代は「管理社会」とか「マニュアル社会」とか言われるが、管理やマニュアルというのはザックリ言って思考のデジタル化を進めるものにほかならない。
マニュアルに書いてあることのみが許され、それ以外のことは許されないというのだから、まさにシロかクロかの両極端である。
両極端のものにより構成されるのがデジタルだというのは昨日書いた通りである。

私の勤務先は、全国チェーン店の1店舗だ。
全国には600もの店舗があるが、どうやらこの会社は全国どこに行っても同じサービスを受けられることを理想としているようだ。
同じ規模の店なら、いわゆる棚割りや商品のレイアウトはほぼ同じと言っていい。
洋服などで北や南といった地域差が若干ある程度で、各店それぞれの特長というものはないに等しい。

この会社はいろんなチェーン店の中でもひときわ中央集権的である。
各店がどうやって売上を上げるかという戦略は、各店の店長ではなく本部がやっている。
店長とはいっても権限はなく、あやつり人形のようなものだ。
各店長の裁量で、一時期の盛り上げを狙うようなイベント的な手法を取ることはご法度である。
本部の決めることのみが唯一絶対で、店長はあくまでもそれを従業員に徹底させる役目でしかない。
こんな店長だったら、やっているほうは面白くも何ともないのではなかろうか。

時々下りてくる本部からの通達を見ても、驚くのはそういった文書の中にやはり「絶対」とか「完全」とかいう言葉が頻繁に使われているのである。
いわく「マニュアル通りにやれば事故は『絶対に』起きません」とか、「店長は本通達の主旨を従業員に『完全に』理解させること」とか。

このような、0か100か、マルかバツか、といった単純な思想は何か危険な匂いがする。
極端に言えば、他を一切認めないという意味で「原理主義」に近い。
しかし、たかが一会社の本部が決めるマニュアルが、世の中の常識と必ずしも一致するわけではない。
それが証拠に、このクリスマスの時期に全国の店が飾りつけさえしていない。
子供を相手にする商売で、これは異常である。
しかしこの会社では、売上に直結しないことは全てムダとみなされ、BGMすらもかかることはないのである。
「売上に直結しない」=「ムダ」とは、まさにデジタル的思想そのものだ。
ムダに見えるものこそ実は大事なのだということが、全く理解されないのだから恐ろしい。

字数が増えたので、続きは明日に。

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思考のデジタル化

2007-12-04 20:57:01 | 日記
昨日の続きのような話になってしまうが、今日は「思考のデジタル化」について書いてみたい。

デジタルの世界というのは「0」と「1」で出来ている。
「無」と「有」の両極端で構成されているのがデジタルである。
アルかナイかだから、中間がない。
中間がないということは「あいまいさ」もないというのは昨日書いた通りである。

私の勤務先はお店だから当然いろいろな人が来る。
最近で驚いたのは、靴の中敷きを買ってすぐに使いたいからハサミを貸してくれと言ってきた人である。
断る理由もないので貸したが、店のカウンターを占領して延々と中敷きを加工している姿を見ると「それでいいのか」と思ってしまう。

なぜこんな例を出したかというと、この人はまさに思考がデジタル化している典型であるからだ。
この人は、店員(=私)に「ダメ」と言われなかったから、店の貴重なスペースに居座って中敷きの加工をした。
確かに店のマニュアルでは、中敷きの加工にハサミを貸すことを断れ、とは書いてない。
しかし、ダメと書いてないから、言われないから「いい」というものではない。
「ダメでない」から「いい」というのは、極端な思考である。
ダメとは書いてなくても、こうした行為は明らかに常識外れだ。
中敷きの加工は普通は家でするものだろう。

近年は社会に余裕がなくなって、ゴネ得や言ったもの勝ちが堂々とまかり通るようになってきたように見える。
取れるものは何でも取ってやろうという人間が、最近では評価されるようでもあり、何となく悲しい気持ちにはなる。

明日は、マニュアルと思考のデジタル化の関連について。
コメント (2)
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アナログ派?デジタル派?

2007-12-03 21:26:20 | 日記
今は2007年だが、2011年に向けた「地デジ」のPRは毎日のように見る。
こんなに前から宣伝しなくてはいけないのは、ほとんど全ての家庭でTVの買い替えを余儀なくされるからである。
デジタル化に伴うメリットは盛んに放送されるのだが、いわゆる低所得者層への支援策などはまだ不透明なままだ。

私の部屋のTVもまだアナログである。
側面を見ると97年製と書いてあるから、もう10年選手ということになる。
最近、地上波の映りが悪くなって、NHK教育あたりはほとんど判別できない。
原因が分からないが、スカパーはきちんと映る。
TVそのものの「寿命」ということではないようだ。
アパートのアンテナが悪いのかもしれない。
何だかんだ言っても地上波の番組には速報性があるので、全く見ないというわけにはいかないから悩ましい。

デジタル技術の進歩により、昔からするといろんなものが便利になった。
写真は、枚数をほぼ気にせず撮れ、失敗したら消せる。
音楽は、よほど扱いが粗雑でない限り、ノイズのないきれいな音で聴くことができる。
日常のやりとりも、メールでしゃんしゃんと済ますことが出来る。
旅行やコンサートチケットの予約も、PCやケイタイから自由自在だ。

反面、デジタルの世界では白黒がハッキリしすぎて「あいまい」なところがない。
道具としてデジタルを利用するのはいいが、思考までデジタル化ということになると何のための人間かということになる。

私自身はどちらかと言えばアナログに寄った人間である。
今の時代、ネットでスイスイやってしまえることもあえて面倒な方法でやりたいと思う。
旅行のチケットは仕事場の近くの代理店に行って取るし、本が店頭になければ「注文」という極めて古典的な方法を使う。

ITの世の中にあっても、年賀状だけはなかなかすたれることはないのはどういうことか。
全てがデジタルに支配されることに、人間は無意識のうちに抵抗しているのかもしれない。

もっとも、デジタル的手法を積極的に取り入れられないのは、ほとんどの取引がクレジット決済ということも大きい。
アナログというより「古い」と言われそうだが、「後から支払が来る」というのは何となく気持ちが悪いのである。
そんなものを気にしなくてもいい身分になりたいと思うのだが・・・。

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ライブ終わって

2007-12-01 23:46:48 | 音楽
朝起きて外を見たら晴れていた。
衣類を洗濯して干した。
しかし、あとで聞いたら外はけっこうな雨で、雷も鳴ったという。
家に帰って確認したが、微妙な干せ具合だった。
着用には支障はないようで結果オーライだが、この時期の天気は分からない。

さて、今日は黒部市コラーレでの定例ライブであった。
せっかくのホームグラウンドながら、スケジュールの都合で合わせの練習に参加できなかった。
当日だけのリハーサルには不安もあったが、順番がトップであることを利用し早めに始めてじっくり練習できた。
集まってくれたメンバーには感謝である。

本番は、合わせていないわりにはよくできたと思う。
毎度のことながら、お客さんの温かい拍手というのはありがたい。
フロントの方がいい雰囲気を作ってくれるので後ろは楽である。
次の機会にはさらにグレードアップしていたい。

今回はバンドのライブの後に、私のオリジナルの発表機会を作っていただいた。
自ら「主催者特別枠」という言葉を使ったが、私のような者のためにわざわざ時間を取ってもらった。
大したステージもできないのに、本当にありがたいことである。
それにしても、オリジナルなのに2題目から手拍子が来たのには驚いた。
さらに、終わったあと1人の男性が声をかけてくれ、CDを持っていってくれた。
私のCDなどハケなくて当たり前と思って持ってきているが、毎回ゼロでない数字が刻まれるのはこれまたありがたいことである。
少しでも、誰かに伝わったのなら素晴らしいことだ。

これからも人前に出る機会はあるだろうが、歌っている最中は「無心」でいけたらと思う。
アピールとか宣伝とか格好付けとか、自分のことばかりを考えていては人に伝わらない。
とにかく持っているものを出し切ることを考えるほうがいいだろう。

今年のステージはおそらくこれで終わりだ。
音楽人の端くれとして少しは進歩できただろうか。
まだまだ来年以降、やるべきことがたくさんある。
やるべきことがある今は幸せだ。

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