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映像作品とクラシック音楽 第23回 『羊たちの沈黙』

2021-07-01 22:10:00 | 映像作品とクラシック音楽
クラシック音楽が印象的な映画についてグダグダ語るシリーズ。今回は殺人鬼ハンニバル・レクターさんが血まみれでバッハのゴルトベルク変奏曲に聞き惚れる『羊たちの沈黙』です


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少し前ですが、アカデミー賞授賞式にて、主演男優賞は大方の予想では『マ・レイニーのブラック・ボトム』で熱演を見せながらも若くして他界した故チャドウィック・ボーズマンだったのですが、発表されたのは予想を覆して『ファーザー』のアンソニー・ホプキンスでした。授賞式の主催者もチャドウィックの受賞を確信してか授賞式の大トリを作品賞発表ではなく主演男優賞にして、チャドウィックを称えて感動的に締めくくろうと考えていたと思うのですが、受賞したのは会場に来ておらず住まいのイギリスは夜だからお年寄りのアンソニーはぐうぐう寝ていてリモート出演もなく、どっちらけな感じで授賞式が終わってしまいました。なんとなくアンソニーがヒールになってしまいましたが、もちろん彼は全然悪くないのです。

その受賞作の『ファーザー』もこないだ鑑賞したのですが、映画も、脚本も、音楽も、そしてアンソニーの演技も素晴らしいもので、彼の二度目のオスカー受賞も納得でした。
命を燃やし尽くすようにギラギラしていたチャドウィックの熱演も素晴らしかったものの、認知症をリアルに体感させるようなアンソニーの年齢を重ねたが故の演技の深さ、上手さはやはりすごかったのです。


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そんなアンソニーの1回目のアカデミー賞受賞作で彼の代表作とも言えるのが『羊たちの沈黙』です。
思えば1991年度アカデミー賞での『羊~』の受賞もけっこう番狂わせでした。この年は『バグジー』か『JFK』かと言われ、よくできたギャング映画だけど飛び抜けた感じのない『バグジー』と、めっちゃ面白いが政治的すぎる『JFK』のどちらがとるべきかと議論を呼び、かと思えばディズニーアニメの『美女と野獣』がアニメ映画としてたぶん初の作品賞ノミネートとなり、いっそ『美女と野獣』がとれば丸く収まるのでは…なんて授賞式前はささやかれておりました。
ところがふたを開けてみれば『羊たちの沈黙』がアカデミー賞史上3作品目の主要5部門独占(作品、監督、脚本、主演女優、主演男優)を果たしたのでした。
もちろん『羊~』は抜群に面白い映画ではあったものの、こんな恐怖映画テイストのサスペンス映画が作品賞を受賞するなどアカデミーの歴史でも前例がなかったのです。アンソニー・ホプキンスと言う人はなんとなく番狂わせを呼ぶ人なのかもしれません。


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『羊たちの沈黙』でアンソニーが強烈な存在感を見せつけたシーンは、終盤のレクター博士の脱走シーンだと思います。それ以外の場面は言ってみれば、ただ棒立ちで喋るだけでしたから(それでも十分脳裏に焼き付く恐ろしさでしたが)。
このレクター脱走シーンでは、アンソニーホプキンス演じるレクターは二人の警官を殺害したばかりか、おぞましい方法で血祭に上げるのですが、その際に特設牢の中に持ち込まれたカセットテープデッキから、バッハのゴルトベルク変奏曲が奏でられており、レクターが警官を惨殺した後でゴルトベルク変奏曲の音色にうっとりと聞きほれているような短いカットがあります。このカットが彼の狂気をさらに強く印象付けていました。
この場面で流れているゴルトベルク変奏曲ですが、エンドロールによるとジェリー・ツィマーマンという方の演奏です。
しかし、レクターがなぜ牢屋にカセットデッキを持ち込んで音楽を楽しむことを許されたのか?映画を観ているとその説明がありません。脱走シーン冒頭のカセットデッキが写るカットがやや唐突のように思えます。

実はこの場面、原作ではきちんとその辺の経緯が描かれております。
トマス・ハリスの原作では、上院議員(その娘が猟奇殺人鬼に拉致され殺されそうになっている)に、レクターが犯人を教える代わりに、グレン・グールドの演奏するゴルトベルクを要求するくだりがあるのです。


~~原作より~~

「それはありがたい。いずれ何かを思いついたときのために、電話がほしいのだがね…」
「手配させましょう」
「それと、音楽だな。グレン・グールドの弾くゴルトベルク変奏曲がほしいのだがね。過大な要求かな?」
「けっこうよ」


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そして、脱走シーンでもゴルトベルク関連の描写があります。


~~原作より~~

テーブルの脚に鎖でつながれたプレイヤーのカセットを裏返して、再生のボタンを押す。グレン・グールドの弾くバッハのゴルトベルク変奏曲。苦しみと時を超えて、美しい音楽が明るい監房と警吏たちのいる部屋を満たした。
テーブルを前に鎮座しているレクター博士にとって、時間は行為のさなかのようにその歩をゆるめ、拡散した。音符はテンポを失うことなく離散した。バッハの、急に襲いかかってくるような銀の音色ですら彼の周囲の鋼鉄に当たってきらめきながら、柔和な音になる。

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彼はゴルトベルク変奏曲の構造に興味をひかれていた。まただ。サラバンドのバスの反復進行が何度もくり返される。彼は旋律に合わせてうなずきながら、歯の縁を舌でなぞっていた

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唸りを生じて振り下ろされた警棒がペンブリーの後頭部を一撃し、彼は棍棒で殴り殺された魚のようにぶるっと震えて長々と横たわった。
レクター博士の脈拍は、体を激しく動かしたおかげで百を超えたものの、すぐ正常にもどった。音楽を止めて、耳をすます。


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さらに終盤でもレクターがグールドのピアノによるバッハの「インヴェンションとシンフォニア」を聴きながらクラリスに手紙を書いている場面があります(映画にはない場面です)


原作ではこれくらいグールドが好きなレクターですが、映画ではなぜグールドの音源を使わなかったのでしょうか?
カセットデッキの写るカットの唐突さを思うと、どこかでレクターが音楽を要求するシーンが本当はあったのではないかと思うのです。
また映画ではレクターが上院議員との会見のために移送される前に、精神病院のチルトン院長に「他にも要求がある」と言っているのですが、そのわりに具体的に「他の要求」が語られていません。この「他の要求」がゴルトベルクではないのでしょうか?
これは予想ですが、原作通りにグールドのゴルトベルクを要求するシーンが本来はあったのだけど、権利の関係か何かでグールドの音源を使うことができず、その要求場面は削られたのではないでしょうか。(グールドグールド言ってる割に全然違う人の演奏で悦にふけっていたら途端にギャグシーンになってしまいますから。)
しかし映画での上院議員とレクターの会話シーンは非常にテンポがよく、シーン尻もきれいです。あのシーンの途中や、あの後にグールドを要求するやり取りが入る余地は無いように思えます。
恐らく撮影の段階でグールドの音源が使えないことがわかり、編集でオミットしたのではなく、撮影直前くらいに脚本から削ったのではないでしょうか? ここは原作の通りにグールドのゴルトベルクを使ってほしかったなと思い、少し残念です。


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グールドはゴルトベルク変奏曲のレコーディングを2回行っており、1回目は1955年で彼のレコーディングデビュー作だそうです。
2回目は1981年です。グールドは82年没なので、最後のレコーディングに近いのではないでしょうか。
ゴルトベルク変奏曲は普通は60分くらいになる曲ですが、グールドは55年録音ではたった37分で弾いています。81年でも50分くらいです。既存の概念などものともしない孤高の天才という感じで、常識の通じない恐怖の怪物レクターにとって何か共感できる部分があるのかもしれません。レクターみたいな怪物に共感されてもグールドさん困っちゃうでしょうが。

原作のレクターは1975年には収監されたことになっており彼が要求したグールドのゴルトベルクとは当然55年版のことかと思います。あるいは精神病院の監獄の中でグールドがゴルトベルクを新録したことを聞きつけてその81年版を是非聞いてみたいと思ったのかもしれません。
看守を惨殺するときに流れていたのが55年版か81年版かは原作で明示されていませんが、なんとなく81年版の方が殺しの伴奏にはあってるような気がするな…と思います。恐ろしい想像ですが。

映画版のレクターは1980年にはまだ収監されていなかったことが台詞からうかがえますので、81年版ゴルトベルクを聞いていたかもしれませんね。


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『羊~』の続編の『ハンニバル』は劇場公開時に一度観ただけで全然覚えていないのですが、こちらでもゴルトベルクが使われているそうです。
『ハンニバル』はリドリー・スコットの大物を気取ったような演出が鼻についてあまり好きじゃないんですよ。
シリーズ三作目で『羊~』の前日譚にあたる『レッド・ドラゴン』(ブレット・​ラトナー監督)のB級感丸出し演出の方がむしろ良かったですね。
個人的にはやっぱり『羊たちの沈黙』がシリーズで一番の傑作だと思います。
『羊~』は全編通してこれでもかと顔主体のカット割りとなっており、顔顔顔の映像がどこか狂気じみていますし、それが故にレクターとクラリスの会話シーンも浮かないし、レクターの狂った天才ぶりも強調されます。
映画を作る側の人間としましては、『羊~』は顔の撮り方、会話シーンのリズムのとり方、編集におけるモンタージュの効果の出し方の参考にもなり、見返すことの多い映画です。


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ちなみに私の一番好きなアンソニー・ホプキンスは『日の名残り』(1993)ですね。
演技の技巧という点では『羊~』や『ファーザー』ほどわかりやすくはないですが、『羊~』のわずか2年後なのにレクターを微塵も感じさせない、精神的な弱さを誇り高さでカバーしているようなキャラクターづくりは本当に神がかっていたと思います。

そんなところで、また映画とクラシック音楽でお会いしましょう

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