なにしろ この人と出会わなければ
今 僕はここに居ない
高校三年生の時に
広島から東京へと
手当たり次第にデモテープを送った
唯一 興味を示していただいたのが
現 芸能事務所「研音」の創設者である
この野崎敏夫さん 通称Bossだった
インターネットのない時代だからこそ
長い手紙に託した音楽への想いは
拙いながらも その筆圧と情熱が
野崎氏(ボス)の心にどれだけか響いたのかもしれない
便箋何枚かに自分の思いを書き尽くし
小遣いはたいて写真館で写真を撮り
数曲のデモを録ったカセットと一緒に
願いとあきらめも込めて
これが最後 と送った先が研音だった
どこの馬の骨とも分からない小僧に会いに
1976年の春のある日
広島までわざわざ出向いていただいた
故 野崎敏夫氏と 1976年 事務所の隣のレッスンルームにて撮影
当時 経理から出る給料8万円円の封筒に
ご自分のスーツのポケットから4万円入れて月に12万円
当分はこれでやれ 内緒だからなと渡された
上京したばかかりの時期はほぼ毎日
四谷三丁目のアパートで曲を書き
レッスンルームで歌の練習ばかりしていた
YAZAWAの「サブウェイ特急」という曲を唄っていたら
ボスが入ってきて お前は迫力がいいな
これは誰の歌だ こんな曲がいい
永ちゃんに書いてもらうか!なんて冗談まじりに
拳でリズムをとりながら
この写真はその時に撮ったもの
ボス40歳
2024.6.11
俳優の反町隆史が連絡をくれ
野崎氏の訃報を知った
6月1日に亡くなったという事だった
まだまだ 実感も湧かない
その前にも3月31日に国際フォーラムで
研音所属の俳優陣やアーティストが総出により
創設45周年の記念コンサートをやるんだと
彼から連絡をいただいたばかりだった
3月31日と言えば ボスの誕生日
ボスが僕の広島の実家にて
当分の間 息子さんを自分に預けてくれと
両親に挨拶しに来てくれた日のことを思い出す
僕はこんなにまで人の人生に関わり
そしてその夢を背負ったことがあるだろうか
詞や曲の事が大好きだった人
勝っても負けても 次へ次へと
それをエネルギーに変換していった人
来る人拒まず 去る人大事に
一切 人の事を悪く言わなかった人
広島からの新幹線にて
隆夫 この川を渡れば東京だよと
それまで寝ていたボスが多摩川の手前で
むくっと起きて言った
僕自身は 故郷広島をあとに
不安と期待に一睡もできなかった
そして 確実に
あの多摩川を飛び越えた日から
僕自身の音楽人生は始まった
感謝という言葉をどんなに使っても言い尽くせない程に
ボスに対して今思う言葉が見つからない
本当に恵まれた音楽人生への第一歩を
僕への信頼とともに与えていただいた
大手芸能事務所「研音」の創業者
野崎俊夫氏が今月1日に死去 88歳、老衰のため
お前もようやく作曲家として食えるようになったな
いつだったろうか 言ってくれた
心底嬉しかった
ボス ずっとずっと ずっと
ありがとうございました
合掌
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ボス
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