Straphangers’ Room2022

旧Straphangers' Eyeや習志野原の掲示板の管理人の書きなぐりです

積極的か止む無くか

2016-06-23 23:58:00 | 交通
有料着席サービスを批判すると、貧乏人の僻みのように取られることも多いのですが、残念ながらそれなりにそういうサービスを使っている前提で、でもそれに「別料金」はおかしいよね、という話です。

ただ、この手の議論を歪めているのが、社会派や「経済テツ」に多く見られる近親憎悪的なヲタ叩きの感情です。
この手の感情に共通するのが、夜行列車、新快速など無料高速列車、無料列車への転換クロスシートなどハイレベルなアコモに対する全否定に近い批判であり、「安くて良いサービス」を求める利用者の「当然の要求」をヲタ叩きの一念で否定する行動が真っ当な結論に至れるのか、甚だ疑問です。

有料着席サービスが受け入れられている、と言える状態は、本来「安いサービス」「高いサービス」を選択できる状態で高いサービスに対する一定の需要が認められるときです。日中の中電のように普通車とグリーン車のどちらにも座れる状態で、グリーン車に座る人がどの程度いるのか。多くの社会派や経済テツの方々にはお気の毒ですが、グリーン車はガラガラですよね。もちろん乗っている人もいますが、「その程度」としか言いようがないレベルであることが多いです。


(品川駅の品のない広告)

その現実が厳としてあるからこそ、「テコ入れ」をしているわけですが、有効な施策は結局料金を下げるか、サービス格差をつけるかです。新幹線や特急のグリーン車にしても、実態は料金の割引があって一定の利用を確保しているわけです。グリーン車利用可のフリーきっぷ(フルムーンなど)はその代表ですし、新幹線接続特急ではグリーン車利用可、という大盤振る舞いの企画商品もその一種です。東海道新幹線が300系以降開放式グリーン車を3両連結と増やしていますが、これも当時のグリーン車用ビジ回が個札の普通車指定席とほぼ同額ということでお得感があったが故の需要であり、足下は企画商品や「グリーンプログラム」で「水増し」しています。

航空機も例外になく、ANAのプレミアムクラスも上級会員のアップグレード需要に支えられている部分が大きく、上級会員が少ない地方路線では閑散としていることも多いです。羽田‐伊丹だとさすがに「一定の需要」が有意に認められていますが、1便当たり最大でも21席です。JALのクラスJは「人気」ですが、これも法人契約先だと普通席の運賃でクラスJに乗れるという特典があることが大きいです。


(品川駅のなりふり構わぬ誘導)

料金対応とャWティブなサービス格差で誘導できない。で、結局手を染めたのが「安いサービス」のレベルを下げることです。
それも単なるサービス「格差」ではなく、サービスそのものが「無いに等しい」状態にすることで、そのサービス自体が「高いサービス」でないと得られないようにしたわけです。
端的に言えば、座席定員を減らしてしまう。あるいは需要に明らかに見合わない座席提供数にする。航空機や高速バスなどと違い立席であれば乗車できるところがミソで、「乗車拒否」ではないという整理です。

この手法、利用者の「体調」を人質に取るという卑怯な手法です。「体調」は優先座席の対象者とはならないレベルだが、それが蓄積するとボディブローのように効いてきて、就労、就学の継続に支障する、つまり、人生を狂わされるリスクに直結します。それを回避するには始発駅付近に引っ越すか、「有料サービス」を使うしかない。そしてそれが半ば意図的に演出されているとしたら、「公共交通」の名に値するか。「独占」を盾に何でもありの世界です。


(品川駅ではあちこちに氾濫)

青春18きっぷのシーズンにホリデー料金で使い唐オて「安い」と満足しているような層には見えないでしょうが、1回770円(平日50㎞まで)の料金はそれ自体は「安い」ですが、毎日使うとなればどうなのか。定収がある人間は収入に見合う支出を設計しているわけで収支は硬直的なのです。ですからそこから1万円を捻出する、というようなことは案外と難しいわけで、だからこそあの手この手で笛を吹いてもなかなか反応しないのです。

ちなみに、「輸送改善」をしたら「増収」がないと回収できない、という社会派や経済テツは多いですが、およそ世の中の商品において旧型より改良されているからといってあからさまに値上げをしているでしょうか。
改良された商品のコストはその販価全体で回収するのであり、付加価値だけを切り離して回収計画を立てることはありません。鉄道も然り。増発や増結をしても、対象路線全体で回収、償却できれば無問題であり、切り離して考えるやり方はある種のごまかしにすぎません。




「互譲の精神」とは

2016-06-22 00:46:00 | 交通
京成電車に掲出されているこのャXター、羽田と成田に乗り入れるという京成電車ならではというわけで、歌舞伎に相撲に浮世絵というイラストの吹き出しは英、韓2ヶ国語「しか」書いていないことから、インバウンド客向けの掲示のようです。



インバウンド客にマナーを説くのなら中国語がないのは非常に謎ですが、まあそれはさておき、気になるのはそこに「互譲の精神」とあること。



法律の世界で、和解が成立する時に用いられることが多い表現ですが、マナーを説く際に一般的に用いられるかというと疑問です。
そういう意味ではあの「江戸しぐさ」が「エセ用語」で「道徳」を説く構図と相似形なんですが、なぜか「江戸しぐさ」には粘着的と思えるほど批判する人も、今回の京成のャXターを批判する声は聞こえません。まあマイナーで気が付かないのかもしれませんが。

言っていることは同じであり、その「根拠」は片や「架空」、此方「造語」といい勝負なんですけどね。日本語抜きでインバン客に押し付けている分、趣獅ニ目的は賛成しますが、結構際どくもあります。



当然を付加価値とするなかれ

2016-06-22 00:25:00 | 交通
鉄道、というか公共交通における「着席」は本来あって当たり前の「前提」のはずが、いつのまにか「サービス」と捉えられているばかりか、あまつさえ「付加価値」として別料金を徴収する対象になっています。

こういうと輸送力不足を来している状態で着席など夢のまた夢なんだから、としたり顔で事業者の論理を振りまく社会派諸氏や経済テツの面々が湧いてくるのですが、それが恒常化している状態が正常なのか、という疑問を抱くことすらできないわけですし、いわんやその状態が「限界」なのか、「出来るのにやっていない」だけなのか、という判断、評価もしないでただ事業者側の論理を利用者に押し付ける対応は有害ですらあります。

利用者にしわ寄せをして収益を確保する、という状況に慣れきった麻薬中毒のような状態になった事業者が、いくらエコだなんだと言って公共交通利用促進を訴えても聞く耳を持たないわけです。公共交通なら所要1時間程度の区間で、時間が倍かかってもクルマを選択するのが当たり前になっているという現状は、公共交通が提供する「サービス」に対する不信任であり、一般的な「市場」であれば退場を促される状態です。

これまで何回も主張しているのですが、「着席」は旅客輸送においては輸送と不可分の「前提」であり、それを「サービス」と見做したり、「付加価値」と考えることは、料理屋や食器や箸を別売りにするとか、宿屋がベッドや布団を別売りにすることと同じであり、そんな料理屋や宿屋は瞬時に市場から淘汰されます。
しかし公共交通の場合はそれが「サービス」「付加価値」とされ、それを別売りすることが肯定されるどころか賞賛される「異常事態」にあるわけです。

もちろんコストの適正な転嫁という前提がありますが、それこそ着席が「付加価値」となってしまうような利用者数を前提にしたら、固定費に属するこの手のコストは1人当たりの負担に直せば相当薄まります。それこそ料理屋や宿屋であればそうした「付加価値」に対する投資は顧客の増加で吸収できると割り切っているのですが、公共交通の場合はそういう発想にありません。
それどころか利用者にしわ寄せし、不可分の「前提」に別の値札をつけて増収を図る、でも「残りの対価」は割り引かない、という経営が可能なんですから楽なものです。

ちょっとでも「格差」があれば銭をとる、という行動は世間から「しみっちい」と後ろ指を指されるものですが、交通業界ではそれが花盛りで、メディアもヲタもそれを絶賛するという不思議な世界です。特に「しみっちい」のがLCCで、座席間隔がちょっとでも広いとか、降機時に早く出れる前方席だとか、景色が見れる窓側だからとかで、座席そのものは一緒なのに追加料金を平然と徴収するわけです。

確かにそれは究極の「公平」ではありますし、着席という最低限の「前提」を維持したうえでの「付加価値」である点が鉄道などとは異なりますが、「公共交通」として取り扱われるべきジャンルにおいて、価格に反映しうる「差異」の域を超えている感が否めません。特にLCCは総じて運賃支払に別途手数料を設定しており、回避できないコストを別表示にするという異常な価格表示が容認されているのも含めて、「LCCだから」と容認、擁護されている内容を白紙で見直すべきです。

話を鉄道などの「着席」に戻すと、本数、編成ともに限界の朝ラッシュ時に完全着席を目指すと、新線や線増といった半端でない設備投資が必要となるため、この分野においては「混雑率」という閾値を設けることは否定しません。
しかしそれ以外の状況においては常に「出し惜しみ」をしていないかを検証し、監視する必要があるわけです。本来であれば市場から淘汰されるべき水準で利用者にしわ寄せをすることを排除する必要があります。

ところが現実は「出し惜しみ」が横行し、「ゆう活」に対応しようとしたらピーク時よりも混み合う本数の少ない早朝の列車にもまれるとか、土休日のお出かけタイムにすし詰めの列車が走るような状況です。
当然増発、増結対応すべきケースが山積しているのに、実際にやっていることは「付加価値」として有料サービスの導入。有料サービスであれば大々的な設備投資をしてでも増結するとか(中央線快速)、他地域であれば銭をとるなんて考えられないレベルのアコモでの有料化(215系のボックスシート、TJライナーなどのLCシート)です。


(グリーン車に乗らないと得られないことを当然視してませんか?)

それが通用するのも首都圏という特殊な市場がなせる業であり、他地域であれば「銭とられるライナー」と揶揄された末に退場を余儀なくされた「セントラルライナー」のような末路を歩むのが関の山ですが、だからといって市場の特殊性に甘えて「阿漕な」商売をすることを無条件で容認、歓迎すべきなのか。

さらにいえば、一般事業法人であれば、バリアフリー対応、環境対策その他「儲からない」方面への投資ですら、市場に参入する条件として負担していますが、それを理由にしたあからさまな価格転嫁もしていません。そういう意味では交通事業者はその手の投資も理由をつけて先送りしたり、公共の補助を目いっぱい要求したりと、このあたりも「感覚」が相当違います。

結局は「独占」という特殊な環境が原因です。
競争環境にあれば起こりえないような事業者優位の事態が発生しているからです。あるいは複数の事業者が示し合わせて事業者優位の取引条件を押し付ける。こういった状況は自由経済の我が国においては本来否定されるものであることは独禁法を例に出すまでもない話です。

一方で公共交通、特に鉄道は巨大な装置産業であり、自由競争を許したら共唐黷ノなるリスクが高いわけで、サービスそのものがなくなったら社会の損失であることから、逆に参入規制を敷くことで独占を容認して、無用な競争による疲弊を防止しています。しかし独占状態を積極的に創出することで、本来は競争の果ての自然独占により発生する各種の「弊害」が一足飛びに発生するのですが、そこを運賃規制で競争状態と同じレベルにコントロールする、ということが教科書的解説です。

ところが「規制緩和」が進行する中で、独占の弊害防止として機能していた規制まで緩和されたこと、さらには運賃料金だけではなくサービス全般が独占による弊害の表れになる、ということへの対応が抜けていたことで、「着席」が付加価値となるようなおかしな事態が定着したわけです。

サービスの切り詰めどころか切り捨てのような状態でも商売が成立するのは、別に利用者の支持でもなんでもなく、独占状態だからに過ぎません。
着席サービスに金を出す人が多いから今の鉄道会社の施策は正しい、としたり顔をする手合いも多いですが、劣悪な環境を回避するために本来不要な支出を強いられていることを積極的に肯定しているわけで、一般事業法人ではありえないような「殿様商売」を肯定する詭弁にすぎませんし、利用者から見たらそれこそ「社畜」か「走狗」か、という有害な存在と言えます。



「批判封じ」は逆効果

2016-06-22 00:21:00 | ノンジャンル
何かに対して不平を言う、批判をしたら、「じゃあお前がやってみろ」というカウンターを喰らうことが多々あります。
その変形として、批判される側も大変なのにリスペクトが足りないとか、文句を言うとバチが当たる、ありがたく思わなければいけない、というものもありますが、いずれにしても、批判を真正面から受け止めることない「逆ギレ」の一形態と言えます。

そもそも一人で何でもできるわけがないのです。でも他人のやり方がおかしいことは自信を持って言える。社会人であれば何かしらの分野での「プロ」であり、様々な分野の「プロ」に接する機会も多いだけに、あれはおかしい、あれは素晴らしい、という評価を適切に行えるのです。

で、「お前がやってみろ」です。
出来ないことは百も承知で、自分でやるやらないを尺度にした評価にすりかえることで、批判者に非があるかのように扱う。
こうなると勝手な「勝利宣言」であるどころか、批判封じの面もあるわけで、批判に対して捨て台詞めいた「批判」というのは、議論というに値しない状況です。

さらにその変形として出てくるのが、「何もしないくせに」というもの。
いわゆる「市民運動」を批判すると往々にして出てくる批判の形態なんですが、その行動を絶対的にやるべきという前提であれば、何もしないで批判だけ、という批判もあてはまるのですが、やること自体に異を唱えているのにやらないで云々というのはそもそも論点がずれています。

そもそも万難を排して、率先して行動に移すことが「是」のベクトルであれば、交通不便地域の取り組みにおいて折に触れて紹介しているように、行動に踏み切る勇気と行動力をリスペクトしているのであり、行動を起こすことを「非」と見做しているから批判しているに過ぎません。その意味では、これも批判封じの言説に過ぎないのです。

常々批判をしている側としては、きちんと正面から反論をして頂ければ真摯に答えますが、批判封じとしか取れない行動に対しては対応できませんし、反論できないからそういう言動になってしまうとしか言いようがありません。
言い換えれば、そういう「批判封じ」に流れることで、逆に批判を確固たるものにしてしまう逆効果になってしまうのではないでしょうか。老婆心ながらそう思うのです。



神輿も担ぎ手も...

2016-06-21 23:11:00 | 時事
参院選が明日告示され、7月10日の投開票まで熱い戦いが繰り広げられます。
告示されると何かと制約がある中、各党の代表が主要拠点を回ったりする「事前運動」も活発ですが、メディアもいろいろ焚き付けるというか、アジビラと化しています。

まあ例によっての朝日ですが、今朝の天声人語は日本を代表するコラムの名が泣くような非道い出来です。
プードルを購入したらドーベルマンがついてきた、とか、「あたらしい憲法の話」のパロディとか、支離滅裂の内容です。
そうでもしないと政権批判ができないほど野党がだらしないわけで、本来リベラル勢力や革新勢力が主導するような政策まで与党がものにしてしまうようでは、野党の存在意義ってなに、という話です。

そういう意味では、プードルにドーベルマンという「価値あるおまけ」がついてくるのが政権与党であり、プードルを購入したつもりがプードルはおらず、別の駄犬がついてきた、というのが今の野党なんですよね。政権の座にあった時の「裏メニュー」をよもや忘れたとは言わせないわけで、マニフェストを実施どころか無視してまで「裏メニュー」にご執心だった対応は、政権与党を「争点隠し」と批判する以前の問題でしょう。


(地方では「なかまたち」ではなく新社会と組んでいる!)

野党統一候補、と言いながら、揃った政党を見たら「時代遅れ」とは言いませんが、懐かしの革新政党、と言いたくなるような面々で、街頭での運動員も往年の活動家というような高齢者がもっぱらでは、国民の支持は遠いです。


(あの独裁者を彷彿と...)

勝手に名づけた「戦争法」のフレーズに酔いしれているようでもありますが、ャXターに描かれた党首の姿が歴史上有名な「独裁者」にイメージが被るのもトホホな状態ですし。