Straphangers’ Room2022

旧Straphangers' Eyeや習志野原の掲示板の管理人の書きなぐりです

超法規的措置に憧れる人たち

2013-04-26 00:11:00 | 時事
ボストン爆破テロの犯人が捕まりましたが、チェチェン人とはいえ、米国市民権を持つ合法的移民とあって、外国のテロ勢力ではない、「自国民」による犯行ということが波紋を投げかけています。

「テロとの戦い」において、通常なら保障される司法手続が適用されないこと、例を挙げれば捕縛されたテロリストを収容したキューバの米軍基地内での処遇や、ビンラディン容疑者の「殺害」などがデュープロセスとの関係で批判されていますが、海外からの攻撃、国際平和に対する脅威、という観点で国内法による保護の対象外、という整理のようです。

ところが今回は、「自国民」による国内犯罪であり、その手続において「例外」がどの程度容認されるかに注目が集まっています。
生き残ったほうの容疑者の取調べに対し、黙秘権が告げられなかった(行使機会が与えられなかった)という話も聞こえてきています。
これは日本のメディアの無理解と言うか不勉強もあり、いわゆる「ミランダルール」の例外規定に過ぎず、証言の有効性の条件となる、黙秘権など被疑者に与えられた権利についての説明をしなかった(説明をしないことについてテロ行為などの重大犯については適用除外の判例がある)だけであり、黙秘権などの権利行使については制限していないようです。

もちろんテロ行為はそうした司法手続を保障する国家そのものを危うくするものであり、厳しく押さえ込むためには手段を選ばない、という発想もあります。しかしそうであっても、「適用しない」というルールが存在するのが法治国家であり、基準もなく適用除外を決定できるというのは法治主義とはいえませんので、今後の司法手続がどのように推移するのかが注目されます。

デュープロセスといえば、我が国においては明治時代の大津事件における児島惟謙の判断が有名ですが、それとてロシア皇太子を負傷させた行為を、皇室に対する罪である大逆罪を類推適用するか、対象を厳格に解して殺人未遂にするか、という話であり、厳密に言えば法律の無視ではなく、どの法律を適用させるか、という話であり、対立する両者とも法律で裁くというスタンスに変わりはなかったわけです。

それを思うと、法律や手続の無視というのは、例えその対象がテロリストであっても、法治国家の体制を否定する危険な発想であり、そこで認めた例外が、対象を広げて、やがて法治主義の無視、人治主義に変異する可能性を常に考えないといけません。
その典型が中国や北朝鮮、かつてのソ連のような共産主義体制であり、「人民の敵」という抽象的概念を「構成要件」にして、最高刑を極刑にすることで、事実上フリーハンドになる「法律」の存在は、法治主義の概念とは程遠いものです。

もちろん国家の転覆、侵略と言ったレベルにおいて法律にこだわり私権を尊重して国家を、ひいては国民を危険にさらし、その財産を毀損する愚は絶対に避けなければならず、非常事態としての「超法規的措置」は絶対に必要ですが、それとてどういう場合に発動し、事態が収束した場合に平時の法体制とどう整合をとるのか、といった「法律」に基づくべきであり、その意味では左派系が使いたがる「超法規的措置」も厳密に言えば法令の規範によるものなのです。

であれば今回の事態はどうなのか。軍事力の行使が必要な事態なのか。警察権の行使で対応できるような事態であれば、通常の法体制で対応できるのではないのか。平時の法体制、特に憲法で保障される権利を制約するためには、相当高いレベルで国家そのものの危機が迫っていることが必要であり、「伝家の宝刀」は安直に抜かずに、しかし、ここ一番では適時適切に振りかざす、という体制であるべきです。

そう考えた時、「国家転覆」どころか「9.11」とも程遠いレベルの今回の「テロ」に乗じて、権利の制約などを大胆に実行すべき、と説く国士様御用達新聞の社説子の発想は評価にも値しないわけです。
もし左派系政権が出来て、左派体制へのテロがあったら、即座に権利を制約すべし、と主張できるのか。そんなことは絶対にしないダブスタの塊のような存在でしょう。


一発激Vリーズ その51

2013-04-25 23:54:00 | 交通
すっかり定着した三宮バスターミナル。地下街の案内にも定着しました。



ん?なんか違和感が。



ターミナルが「終点站」て、超直訳では...



阪神の駅の方では「総站」となっており、まだこっちの方がしっくりくるでしょう。

ちなみに現地では汽車站とか客運站と言うようです。
そういえばメ[トライナーのメ[トターミナル駅は、「客運港」ですね。



慰霊に難癖の不快感

2013-04-25 23:24:00 | 時事
春の例大祭にあわせた閣僚らの靖国参拝に中国と韓国が反発を強めています。
すぐにシンパのメディアが騒ぎ立てていますが、情勢が全く変わっていることに気づくべきでしょう。

尖閣問題や駐⊥竭閧ェ靖国参拝でこじれる、北朝鮮への圧力も期待できなくなる、というのがいつもの批評ですが、靖国参拝をしようがしまいが何の影響もないわけです。逆に言えば、中国や韓国に事寄せて自分たちの「反靖国」を正当化してきたボロがばれたともいえます。
両国政府も日本に対する圧力に使えるので騒いでいますが、一部メディアは「日本のメディアが参拝を批判している」という間接話法で報じるなど、日本の一部メディアのマッチャ塔vと距離を置く動きが見られますし、そろそろ問題視しているのは誰か、ということが白日の下になる時が来そうです。

韓国外相による、まだスケジュールすら確定していない(=政府として認識すべき段階でない)訪日の「取り止め」、また今日の尖閣での領海侵犯が、靖国参拝が原因だったとしても、どう見ても日本に対する「カード」として使う気満々の政治的パフォーマンスに過ぎません。

「カード」を切らせない、隙を見せないという意味では靖国参拝はみすみす相手に手を渡してしまう結果になるわけですが、韓国のように歴史認識に関して「1000年不変」と言い放ち、事実上永遠に謝罪しろ、というような傲岸不遜な対応を見ては、我が国が戦没者の慰霊という、まさに精神的な営みに関してこれ以上「配慮」する必要はないと知るべきでしょう。

「カード」として利用しているだけなのに加え、どう膝を屈しても付け上がるだけの両国相手にこれ以上、それこそ1000年遜るつもりでもないのであれば、政権交代もしたこのタイミングで、「我が国の戦没者の慰霊行事であり、死者を悼むという日本人にとって重要な宗教的、精神的セレモニーに対する批判は、例え隣人であっても受け入れられない話であり、猛省を求める」とくらい強く言うべきでしょう。

水に落ちた犬を溺れるまで叩くような国柄です。強く、居丈高に出たほうが勝ちという国柄です。
そもそも戦死者の追悼でしょう。原爆や震災の追悼式典で反原発派が騒いだことに対する厳しい批判に見るように、追悼の場を汚されると言うことは日本人が最も忌み嫌う行為です。それを許すかのごとく遜るのはもう止めにしましょう。そして非礼な批判は厳しくはねつけることで、相手に分からせる時期と言えます。

一方で、靖国問題が国際問題化したのはA級戦犯合祀が原因であり、慰霊の場に政治、外交問題を持ち込んだ靖国神社の側に問題がある、という意見が根強くあります。だから「国」として靖国参拝にかかわることは避けるべきだ、という意見はもっともらしくも見えます。
さらに昭和天皇がA級戦犯合祀に不快感を示し、合祀後は参拝を避けている、と見られることも、こうした意見を後押ししています。

確かに「戦(病)死者」に限定して、戦災での犠牲者は除外しているとか、終戦の詔勅が渙発された後の自決した人を含むという部分にわだかまりがあることは認めます。(なお、終戦の日の午後に「出撃」した宇垣中将以下の特攻隊は戦死扱いにならないため合祀されていない)
ですから本来は戦(病)死や殉職と同列に扱うべきでないという意見には一定の説得力があります。

さはさりながら戦犯はどうなのか。戦争中の行為を理由に事後法で裁かれたわけです。戦争による軍人の犠牲、という意味では、戦後の自決よりも合祀される資格があるといえます。戦争「犯罪」人というから問題に見えますが、そもそもそれが裁かれる対象なのかどうかも不明瞭で、総ての戦争参加者においてこの「新基準」で裁くのであればともかく、敗戦国だけに強いられる責任という意味では「勝者による復讐」を超える意味がありません。

昭和天皇の「意思」についても、そもそも論として普段は天皇のことなど気にも留めない、尊重する気など毛頭ないような人が、こと靖国問題に限っては昭和天皇を持ち出して文字通り錦の御旗のように掲げるご都合主義が気になります。
それは置いておいても、いかにこれらA級戦犯に苦しめられたとはいえ、我が国がその国法で裁いたのでもなく、法的根拠もなく処刑された人の慰霊に差をつけると言う発想は、いかに天皇であってもやや感情が過ぎると言う評価こそ妥当でしょう。

百歩譲ってA級戦犯の合祀はやはりふさわしくない、とコンセンサスが出来て、神道の思想上はありえない「御魂」を抜くことになったとしても、ではそれで中国や韓国が納得するかと言うと、その保証は全くないわけです。それどころか主張すれば墓暴きに類するようなことまでする、というわけで、握った「カード」は絶対に手放さないでしょう。
そうなれば、死者を辱めて得るものは何もなし、という最悪の結果になるだけです。

靖国問題で中国や韓国に対して毅然とした対応を、と主張すると、国交がどうの、経済関係がどうの、という主張が出てくるのですが、それこそ領土問題と違い、「主権」や「権益」と無縁な日本人の精神の問題です。そして尖閣問題で冷え込んだ日中貿易で中国もまたダメージを受けているわけですから、よほどの馬鹿でない限り、内心への介入に拘ることはないでしょう。ただ、あの斜め上を行く国だけは分かりませんが...





あっという間に19兆円

2013-04-23 23:07:00 | 時事
朝日の「プロメテウスの罠」の新章は、原発維持を巡る官僚の攻防ですが、その冒頭に出てきたのが、核燃サイクルをストップさせようと若手官僚が作った「19兆円の請求書」という「怪文書」(反原発派は「レメ[ト」というのでしょう)です。

確かに当時センセーショナルに扱われた記憶がありますし、19兆円、場合によっては50兆円というコストに途方もないものを感じました。
しかし、今にして思えば、これもよくあるレトリックだったわけです。交通の世界でも便益論でよくみられる、シーソーの片方だけ積んで、これだけ効果がある(コストがかかる)、というやり口です。

なぜこれがレトリックか、というと、19兆円でも50兆円でも100兆円でも、その見返りになるメリットがそれ以上なら意味があるのです。もしくは交通モードの話であれば、別のモードのほうにそれ以上の便益があれば意味がないわけです。
しかしその部分を伏せてコストやメリットを論うことで、大変だ、とか、有益だ、と議論してしまうわけで、「19兆円」もタイトルからしてそうした効果を狙っているようでした。

しかし、それがシーソーの片方と言う「事実」が、皮肉にも震災と原発事故によって露見したわけです。
法令に基づかない「要請」という名の強制による「脱原発」は、年間5兆円のコストアップ、国富流出を招いているのです。さらに円安により、その赤字幅は拡大するわけです。

そう、年間5兆円と見積もっても、ちょうど震災から丸4年、2年後の春には19兆円を超えるのです。50兆円でも8年後には達します。
「19兆円の請求書」と引き換えに得られる資産もそれが生み出すメリットもない状態で、漫然と「燃料費」として支払われるのです。
年間5兆円、という足下のコストアップ、国富流出は、原発の安全対策、さらには核燃サイクルの確立などの投資とそれが生み出す投資効果を我々から奪っているのです。産油国やガス産出国、そして商社やブローカーの利益になるだけの支払いに化ける格好で。


安さだけでなく見るべきもの

2013-04-23 23:06:00 | 時事
最近店頭に並ぶ水産物にいわゆる「海のエコラベル」がついているものを見かけます。
これは持続可能な漁業で獲られたものである、という認証であり、国によっては輸出入や流通時にこういった認証を要求するようになっています。

こうした生産プロセスのあり方を問う、言い換えれば価格や品質だけでなく、どうやって生産されたか、と言うところまでを問う動きは、広い意味で捉えると、企業が社会とどう向き合っているのか、という評価であり、これまで「お上」による規制で危ういバランスを保っていたり、規制が有名無実でやりたい放題だったりした企業活動に対する一定の歯止めになりますし、長い目で見れば企業活動を社会全体と共存させていくことで、企業自体の持続可能性を高める効果が期待できます。

もちろんそうなるには、ありがちな「大企業ケシカラン」病の発想や、経済活動を悪と見るようなお花畑的な原始共産主義や文明批判を極力排除する必要があるわけで、どちらかと言うとビジネスベースで評価、推進したい制度と言えます。
そして企業の側も、CSR活動の一環として向き合うケースが増えているわけです。

同様に、奨学金や環境保護の基金といった高い公益性を持つ財団の運用では、その投資先を単に格付けや利回りだけで判断するのではなく、投資先の公益性や、ファンドの目的との親和性を重視する傾向にあります。そういう意味では先日話題?になった高野山の運用失敗はそういう概念というか哲学がないことを示しているわけで、檀家からのお布施など、つまり「浄財」を宗教活動のために運用するのを、ハイリスク商品に求めたのですから、一部の報道で出ていた「坊主には無理だった」と自省する幹部に対する金融商品に対する知識、リスク認識を問うよりも、そもそもの「儲かりゃ良い」と言う発想を問うべき話です。

ちょうど決算シーズンですが、決算の数字は企業にとって最も大事な結果です。しかし、決算の数字だけでは企業の価値は計れない、という何かしらの歯止めが無いと、どこまででも暴走していくわけです。昨今話題の「ブラック企業」はその最たるものですが、「人材」という生身の人間を使い捨てて成長していく企業は、決算の数字だけを見れば優秀ですが、そのプロセスを厳しく問うべき存在と言えます。

既に海外での児童労働の問題や、一部の国における囚人などによる強制労働疑惑など、製造原価の多くを占める労務費削減における最低限のボーダーラインはありますが、労務費の安い途上国に進出するビジネスモデルが否定されていない状況は、生身の人間に関して問題のあるプロセスで生産された商品が氾濫していると言えます。

同一労働なら同一賃金、と言う主張はもっともらしく見えますが、国によって租税公課の設定が違うように、想定される所得水準には差異があります。各国の所得分布で見て同一レベルであればまだしも、中国や東南アジアレベルの労務費でないと競争できないから、そこらへんと同一水準で、となると、事実上の賃金水準の切り下げに過ぎません。

そういう意味で物議をかもしそうなのが今朝の朝日に出ていた某製造小売業の「世界同一賃金」でしょう。
いちおうその国での生活水準を考慮した賃金体系、と言う建前になっていますが、低い方に収斂していくことは火を見るより明らかです。最低水準に近いところでの賃金のフラット化が見えている制度を臆面もなく打ち出すあたり、さすが離職率が半分を超え、メンタルヘルスで3%が休職しているという、安全衛生の根本が問われる名うてのブラック企業の本領発揮といえます。

だいたい、日本と中国、東南アジアの経済格差、所得格差、賃金格差を十二分に活用してここまでのし上がっておいて、同一労働だから同一賃金とは笑わせます。途上国に行けばそうならないから会社が成功したというのに、基盤を気づいたらあとは労務費を上げない口実探しですから。

そもそも上級社員には高給を出す、といいながらも、約4900人の正社員のうち50人が対象です。一握りのエリートになれれば平均年収2000万円、と釣って、それ以下は「中位層」ですら平均年収670万円と言うのですから恐れ入ります。
どうせ最初は平均年収320万円でこき使われ、出世しても670万円では人生の設計も立ちません。高卒のブルーカラーが最後に現場の係長(樺キ)になるほうがよほど収入がいいわけで、催眠商法のように活躍を夢見させられても現実は過酷というよりも搾取です。
そう、頂点に立つ社長だけは4億円の年収をがっぽり懐に入れると言う構造ですから、こんなにあからさまなシステムも珍しいです。

機械を安く仕入れられるため、カタログスペック以上に操業して、本来の耐用年数の1/6とか1/10と言う期間で半分以上が壊れても気にしないで生産しているようなものです。こうした使い捨ては機械であっても気が引けるのに、生身の人間で平然と行うのですから、こういう生産プロセスを本来は厳しく問うべき対象と言えますし、「海のエコラベル」のように、安全衛生、労務管理、労働報酬について一定の基準を充足している企業に対する認証制度、というものもあって然るべきでしょう。そしてそうでもしないとこの手の「人材使い捨て」を排除できません。

しかし現実はブラック企業が栄えるわけですが、このあたりは消費者の意識の低さも指摘せざるを得ません。
「激安」を歓迎してデフレで自爆するようになって10年以上になるというのに、まだデフレ産業を歓迎しているわけです。デフレ産業に依存しないと生活が成り立たない、という悲痛な叫びもあるでしょうが、やはりそこを断ち切らない限り、永遠にデフレスパイラルが続くのです。

冒頭で例示した認証制度や投資先の話にしても、日本発のものでないばかりか浸透もいまひとつという現実があるわけで、デフレやブラック企業を規制したとしても、消費者がデフレやブラック企業の支持に回るという文字通りのブラックジョークの状態が今の日本です。