麻疹が流行っているそうです。
特に大学生の罹患が多いようで、昨日は早稲田が臨時休講になったこともあり、大きなニュースになっていました。なんでも、昼2番目の4限目から突然休講、ロックアウトという異常な対応を取ったくらいです。
我々の世代だと子供の頃にそれなりに罹る子供がいた病気ですが、今時はそうも言ってられないようです。遠い昔に予防接種を受けたのか、それとも自然に免疫を取得したのか。おたふく風邪への罹患の記憶がないのに、近所の子供たちの間で流行した時に免疫チェックを受けたら免疫があったような感じなのかもしれません。
うろ覚えですが、当時は風疹と水ぼうそうは予防接種がなく、ものの見事に罹患しています。
ですから、風疹よりも「浮「」麻疹は、予防接種を受けているはずですが...
さて、今回の流行は、麻疹の予防接種が任意になった頃に接種適齢期にあり、実施率が低い世代である学生層を中心としています。
麻疹、風疹、おたふく風邪の新三種混合が1993年に中止になっており、それから14年経った現在、未就学児の時期に接種を受けなかったこの世代が突出して罹患しています。
本来はもっと子供に流行る病気ですが、こちらは単独接種を無料で実施することも多くなっており、谷間の世代が生じているのです。
なぜこのような事態になったのか。
新三種混合が中止になったのは、おたふく風邪のワクチンで無菌性髄膜炎に罹患する副作用が発生したからです。冷静に考えれば、無菌性髄膜炎は致死的ではなく、後遺症も残さないわけで、ワクチン対象となる病気の害と比べたら問題にならないはずですが、「市民団体」「マスコミ」が「副作用」だけを取り上げて社会問題化した事が大きいのです。
インフルエンザの流行も、そもそも学童の集団接種を続けていれば死に至るような重篤なケースが多発することも少なかったわけで、集団接種の中止も新三種混合と同じ1994年、そしてその「運動」の担い手も同じなのです。
その意味では、現在の麻疹、そして毎年のインフルエンザの流行にしても、マスコミが問題視することほど滑稽なものはありません。
強制接種の中止の旗を先頭切って振ってきたのがマスコミです。現在見られるその当然の結果につき、自らの不明を恥じることはあっても、予防接種を云々する資格などないのです。
当時の「運動」が10数年たって、今日の結果を招いた責任を反省するとともに、「運動」のお先棒を安易に担ぐことがどういう害悪を社会に与えるのか、という反省材料として後世への財産にしないといけません。
特に大学生の罹患が多いようで、昨日は早稲田が臨時休講になったこともあり、大きなニュースになっていました。なんでも、昼2番目の4限目から突然休講、ロックアウトという異常な対応を取ったくらいです。
我々の世代だと子供の頃にそれなりに罹る子供がいた病気ですが、今時はそうも言ってられないようです。遠い昔に予防接種を受けたのか、それとも自然に免疫を取得したのか。おたふく風邪への罹患の記憶がないのに、近所の子供たちの間で流行した時に免疫チェックを受けたら免疫があったような感じなのかもしれません。
うろ覚えですが、当時は風疹と水ぼうそうは予防接種がなく、ものの見事に罹患しています。
ですから、風疹よりも「浮「」麻疹は、予防接種を受けているはずですが...
さて、今回の流行は、麻疹の予防接種が任意になった頃に接種適齢期にあり、実施率が低い世代である学生層を中心としています。
麻疹、風疹、おたふく風邪の新三種混合が1993年に中止になっており、それから14年経った現在、未就学児の時期に接種を受けなかったこの世代が突出して罹患しています。
本来はもっと子供に流行る病気ですが、こちらは単独接種を無料で実施することも多くなっており、谷間の世代が生じているのです。
なぜこのような事態になったのか。
新三種混合が中止になったのは、おたふく風邪のワクチンで無菌性髄膜炎に罹患する副作用が発生したからです。冷静に考えれば、無菌性髄膜炎は致死的ではなく、後遺症も残さないわけで、ワクチン対象となる病気の害と比べたら問題にならないはずですが、「市民団体」「マスコミ」が「副作用」だけを取り上げて社会問題化した事が大きいのです。
インフルエンザの流行も、そもそも学童の集団接種を続けていれば死に至るような重篤なケースが多発することも少なかったわけで、集団接種の中止も新三種混合と同じ1994年、そしてその「運動」の担い手も同じなのです。
その意味では、現在の麻疹、そして毎年のインフルエンザの流行にしても、マスコミが問題視することほど滑稽なものはありません。
強制接種の中止の旗を先頭切って振ってきたのがマスコミです。現在見られるその当然の結果につき、自らの不明を恥じることはあっても、予防接種を云々する資格などないのです。
当時の「運動」が10数年たって、今日の結果を招いた責任を反省するとともに、「運動」のお先棒を安易に担ぐことがどういう害悪を社会に与えるのか、という反省材料として後世への財産にしないといけません。