Straphangers’ Room2022

旧Straphangers' Eyeや習志野原の掲示板の管理人の書きなぐりです

麻疹の流行

2007-05-22 20:06:11 | 時事
麻疹が流行っているそうです。
特に大学生の罹患が多いようで、昨日は早稲田が臨時休講になったこともあり、大きなニュースになっていました。なんでも、昼2番目の4限目から突然休講、ロックアウトという異常な対応を取ったくらいです。

我々の世代だと子供の頃にそれなりに罹る子供がいた病気ですが、今時はそうも言ってられないようです。遠い昔に予防接種を受けたのか、それとも自然に免疫を取得したのか。おたふく風邪への罹患の記憶がないのに、近所の子供たちの間で流行した時に免疫チェックを受けたら免疫があったような感じなのかもしれません。

うろ覚えですが、当時は風疹と水ぼうそうは予防接種がなく、ものの見事に罹患しています。
ですから、風疹よりも「浮「」麻疹は、予防接種を受けているはずですが...




さて、今回の流行は、麻疹の予防接種が任意になった頃に接種適齢期にあり、実施率が低い世代である学生層を中心としています。
麻疹、風疹、おたふく風邪の新三種混合が1993年に中止になっており、それから14年経った現在、未就学児の時期に接種を受けなかったこの世代が突出して罹患しています。

本来はもっと子供に流行る病気ですが、こちらは単独接種を無料で実施することも多くなっており、谷間の世代が生じているのです。

なぜこのような事態になったのか。
新三種混合が中止になったのは、おたふく風邪のワクチンで無菌性髄膜炎に罹患する副作用が発生したからです。冷静に考えれば、無菌性髄膜炎は致死的ではなく、後遺症も残さないわけで、ワクチン対象となる病気の害と比べたら問題にならないはずですが、「市民団体」「マスコミ」が「副作用」だけを取り上げて社会問題化した事が大きいのです。

インフルエンザの流行も、そもそも学童の集団接種を続けていれば死に至るような重篤なケースが多発することも少なかったわけで、集団接種の中止も新三種混合と同じ1994年、そしてその「運動」の担い手も同じなのです。

その意味では、現在の麻疹、そして毎年のインフルエンザの流行にしても、マスコミが問題視することほど滑稽なものはありません。
強制接種の中止の旗を先頭切って振ってきたのがマスコミです。現在見られるその当然の結果につき、自らの不明を恥じることはあっても、予防接種を云々する資格などないのです。

当時の「運動」が10数年たって、今日の結果を招いた責任を反省するとともに、「運動」のお先棒を安易に担ぐことがどういう害悪を社会に与えるのか、という反省材料として後世への財産にしないといけません。




神輿異聞

2007-05-21 15:57:25 | 時事
浅草の三社祭で、宮出しの際に神輿に乗ることを神社側が禁止していたにもかかわらず、乗った人が出ました。
神社側は乗ったら来年の宮出しは中止と警告していたわけで、そもそも神輿に「乗る」ことは不敬ということもあり、毅然とした対応が取られるかに注目が集まっています。

今朝のニュースショーでは問題を起こしたのは地元じゃないと言う地元の人の声がある反面、地元からも、経済効果があるから宮出し中止は困ると言う声があるわけで、厳粛な行事であれと思う人もいれば、人出があって盛り上がればOKという人もいるわけで、乗ったから中止と即断できないようです。

神事としてみたら、神様が渡御する神輿に「人間」が上がるのはおかしいわけで、昔は神輿を二階から見下ろすことすら忌んだように、神聖なものでした。
一方で神輿の上で人が跳ねるという「派手な絵」は「観光資源」としての祭としては申し分ないわけで、観光行事なのか、神事なのか、という分岐点ともいえます。

この関係を見て思い出すのは、西宮戎の「福男神事」です。
神事としての伝統があるんでしょうが、近年は単なる障害物競走と化してしまっていたわけで、その歪みが噴出したのが例の妨害事件です。
これも、事件や事故防止という観点なら、氏子に限定するといった沈静策を取ればいいだけですが、年に一度の書き入れ時である十日戎の目玉ですから、行事そのものは温存しているわけです。

まあこちらは商売繁盛の神様ですから営業面への配慮も致し方がないのかもしれませんが、三社祭も厳粛な神事といいながら、「営業面」への目配りをしてしまうのであれば、そもそもの「ルール」の説得力にも欠けてしまうとしかいえません。



「玄武」見物

2007-05-20 23:11:20 | ノンジャンル
去年に引き続き、明日香にキトラ古墳の壁画「玄武」を見に行ってきました。
外で40分、中で2時間程待たされてようやく小さな「玄武」を鑑賞しましたが、来年は「朱雀」あたりでしょうか...

その「朱雀」は先日壁から剥ぎ取られましたが、その際にはヘラでの剥ぎ取りができず、ダイヤモンド粉をつけた糸鋸で剥ぎ取ったそうです。
そのときの写真と工具が展示してありましたが、そこに貼ってあったのは、少年の頃プラモデルでお世話になったあの田宮模型のマーク。

てっきり工具の模型を田宮模型が製作して展示してある、と思ったら、写真に写るそれにも同じ田宮模型のマークが。
確かにギアボックスなど組み合わせて自作するパーツを売ってるくらいですから、こういう工具などの機械系も手がけていても何の不思議も無いですが、こういう「大一番」に使われるようなレベルの工具も作ってるんですね。

まさかダイヤモンド粉を添付するというカスタマイズが模型の技術とシンクロしているとか...

傷だらけの「奔放」

2007-05-18 17:56:18 | 交通
サイトのほうで取り上げた例の西日本高速の「奔放」ですが、この連休中に松山道、高松道、山陽道のSAで山積みになっているのを見ました。
地図面だけが違うだけなのに、ごたいそうに関西版、中国版、四国版、九州版(から3つ)を3段のラックに収めています。

そこの注意書きには苦笑です。
「中の地図だけ抜き取らないで下さい」
抜き取り使用と地域別差し替えの労を考えての構成なんでしょうが、逆手に取られた格好です。
情報量些少とはいえ地図はないよりはマシですから、取ってく人が多いんでしょうね。他の記事は持ち帰ってももらえないと言うところに悲哀を感じますが。

こうなると満身創痍と言う感じです。

人の親として気が重い

2007-05-16 16:48:28 | 時事
なんとも気が重いニュースです。
「赤ちゃんャXト」自体に反対なのですが、そこに3歳児です。

物言わぬ赤子なら良いという訳ではありませんが、自分の名前やどこから誰と着たかを話すような子供が「捨てられた」わけです。
この子にとって今のところは、父親とお出かけして、なぜか父親がいなくなった、いつ迎えに来てくれるのかな、という認識なのでしょうが、それが「永遠の別れ」と言うことを考えると、不憫でなりません。

どういう神経であの空間に置いて来たのか。寝ている間だったのか、公共スペースのベビーベッドと言いくるめたのか。この子にとっては普段と変わらない父親との時間だったはずなのに、突然悲劇が訪れたのです。

3歳児と言えば、言葉も話すし、歩き回ったりもします。
親を信じて無邪気に親についてくる世代です。虐待死の事件で、殺された子が親にされるがままになったり、相談所の救いの手があっても親の元に戻りたがるのも、それでも親を信じているからです。

「捨てられる」直前までこの子は父親に対して一生懸命お話をしてたんでしょう。その直後の悲劇を微塵も疑うことなく。
同じ「別れ」にしても、施設に出すと言う方法もあるわけです。もちろん子供が受けるショックは一緒ですが、それであっても、「きちんと別れる」という最低限の礼儀はあるわけです。

今朝のニュースショーで、他県の児童相談所のコメントの中に、施設に出された子供が施設を出たときにまずすることは親探しだ、というのがありました。
それだけ子供にとって親の存在と言うのは大きいのです。にもかかわらず、今回は匿名で「捨てた」のです。

今回のケースでは、病院が「捨てられる」ことを前提にした受け入れ姿勢を取り、県も承認していたことから、犯罪性はないとのことですが、法律上は良くても、人の道としてあってよいことなのか。

かつて仏教が現世での悪行を戒めるように地獄図を描いたり、田舎での「間引き」を戒めるために、間引く人の影が般若になっている絵が描かれたりしましたが、「赤ちゃんャXト」には「赤ちゃんに、なにかを残してあげて」と訳の分からない短文があるだけで、平和そうな画しか描いてありません。本来は、そこに「捨てる」ことに対する最後の説得となるべく、それこそ地獄図の類でも描くべきなんですが、安閑としたムードで人の道を外すことを容認していることは、受け入れる側の罪深さを浮き彫りにしているのです。