Straphangers’ Room2022

旧Straphangers' Eyeや習志野原の掲示板の管理人の書きなぐりです

教育現場による人災

2012-07-06 22:02:00 | 時事
大津市の中学生の自殺への学校などの対応がひどすぎます。
学校による調査で、前々からいじめが周知の事実だったばかりか、学校側が見て見ぬふりだったことが露呈したり、市教委が調査を開始したところそれを裏付ける情報が続出したため調査を打ち切ったり、こうした事実を受けて警察に遺族が告発したところ、犯罪性は無いと門前払いをしたとか、行政組織を挙げて中学生を死に追いやり、あまつさえ死後もなお辱めている感じです。

いじめによる自殺といえば、1986年に中野区の中学生が「このままだと生き地獄に...」の遺書を遺して自殺した事件が有名ですが、教師も加担したこの事件を契機に、教育現場のあり方などが見直されてきたはずです。

ところが今回の事件を見るに、四半世紀も前の事件が風化していると言うか、当然のこととして身についていなければならないはずの「常識」が根本から欠けている人間が教育現場やその監督部署に蔓延っているようです。

教育現場の質の低下、いや、劣化が著しいうえに、見て見ぬふり、事なかれ主義での対応が重なった感が強いです。「いじめた側にも人権が」とうそぶく行政側の論理は呆れ果てたものですが、正邪の別を教えることも出来ないどころか正邪の別もわきまえないような「社会人」は、存在そのものが有害です。

社会人でも「ハラスメント」の発生や「メンタルヘルス」の原因行為への対応が厳しくなる中、そうした行為、原因の芽を摘むことの徹底や、それが間違った行為であるという認識の徹底が図られている中、教育現場においてはそれを生徒児童に徹底するどころか、教える側がそれを理解していない「周回遅れ」の状況です。

「じゃれあっている」「ナントカごっこだと思った」「仲良しに見えた」という教師の言い訳は、単に教師の目が節穴と自白しているだけであり、「犯罪」を見逃した罪を問うべき証拠に過ぎません。そもそもいけしゃあしゃあと言っている教師の管理監督責任を厳しく問わないから、いつまで経ってもいじめがなくならないのです。

教師の抜本的叩き直しに加え、「いじめは犯罪」と断定して、いじめにつながる行為、それこそ「ナントカごっこ」の類に積極的に介入して、いじめにつながらないように厳しく指導することが必要です。そしてこうした行為に関する「ゼロトレランス」の導入により、絶対悪の行為はしてはならない、という認識を叩き込むことも必要です。

それにしても教師の質の低さは目を覆うばかりで、いじめにまでは至っていませんが、身近なところでも、保護者の間でも有名な「陰口系」の陰湿な生徒を指導できない教師とか、いつ何時いじめにエスカレートして事件にならないとも限らない「予備軍」的生徒と教師がいるわけです。

そうした生徒に限ってなぜか「教師受け」がいいのを見ると、教室全体に目配りが出来ていない、特定の生徒からの耳あたりのいい情報しか収集しない、といった能力不足のうえに手抜きという教師像が浮き彫りになってくるわけで、そういう意味では大阪市のやり方じゃないですが、質の低い教師を排除するシステムが必要です。

学校に子供を「預け」て、教育を「委ねる」側から見れば、質の低い教師の存在は、子供を台無しにされかねない危険性どころか、生命の危険にすら晒されかねないリスクなのです。
教育とは何か、未来を担う子供たちを育成するという大目的を考えたら、子供をリスクに晒さないようにすることが第一です。社会的問題となって四半世紀が過ぎてもまだ問題の根本が分かっていない教育現場の存在を見ると、そう言わざるを得ないのです。


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2 コメント

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Unknown (一愛読者)
2012-07-09 01:43:58
いじめられる側、いじめる側、両方を経験した当事者として言えること…「いじめる側にとって、いじめはとっても楽しい。一方いじめられる側は地獄の苦痛を味わいながらもどこかで、いじめられていることに一種の自虐的快感を覚えている。どちらの立場の者も、一度その快感を知ったら滅多なことではやめられない」
いじめ撲滅を訴える人たちは沢山いますが、その中の誰一人として、人間なら恐らく誰もが持っているであろうこの「業」について触れないのをつくづく不思議に思っております。
この「業」が誰にでもあることを大前提として、初めていじめ問題の本質にメスを入れることができると考えております。その具体像はまだ見えていませんが。
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Unknown (エル・アルコン)
2012-07-09 21:46:03
いじめる「快感」は確かにあります。「いじめ」ではないですが、他人の不幸は蜜の味、他人を貶す快感、確かに人間の宿業といえます。

でも快感、快楽だから、と首肯出来ないわけです。快感、快楽への誘惑があるだけに、それはぜったやってはいけない絶対悪だというコンセンサスと教育が必要なのです。
いじめた側の人権が、とか、いじめられる側にも原因が、という言い逃れは、麻薬を吸う側にも人権が、麻薬があるのが悪い、と開き直るのと同じであり、快感、快楽を伴うとしても、麻薬は絶対に手を出してはいけない、手を出したら犯罪者として人生を棒に振る、というような「教育」をいじめに対してすべきです。

そもそも「いじめ」なんて言ってますが、こうした行為は暴行、傷害、窃盗、脅迫、と犯罪を構成します。それがなぜ対応が及び腰なのか。いじめた側の人権を云々する前に、教育現場で犯罪行為を摘発しないことの意味を考えるべきでしょう。こうした犯罪が看過されている、という現実を見て育った子供たちに遵法精神が育つかどうか。学力云々以前の問題として、教育として最低のことをしているのです。
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