Straphangers’ Room2022

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大久野島に行ってきました

2013-08-19 23:19:00 | ノンジャンル
広島と戦争というと原爆がまず思い浮かびますが、軍港の街であり戦艦「大和」のふるさとでもある呉も忘れられません。
そうしたなかで、ただでさえネガティブ評価しか受けない軍関係においても黒歴史的存在である「毒ガス」の製造拠点だった大久野島は知る人ぞ知るの戦争遺跡と言えます。
今夏、7年ぶりくらいに大久野島を訪れ、前回はしなかった島内一周を通じて、島と戦争のかかわりと言うものを見てきました。

そういう歴史を秘めた島ですが、今は国民休暇村を中心にしたリゾート地として賑わっています。
というか休暇村関係の施設しかない島となっており、日帰りレジャーを含めて何かしらの形で休暇村にお世話になる格好です。

大久野島への「表玄関」は忠海港。呉線忠海駅の裏手に位置しながら歩道も満足にない道を大きく回りこむアプローチは不便です。
クルマ利用でも微妙に分かりづらく、かつ大久野島島内へのクルマ乗り入れが出来ないため、忠海港に駐車するのですが、そのスペースと言うかキャパが微妙に少ないのです。


(帰りの船から見た忠海港)

航路は大久野島経由で大三島に至るフェリーと、大久野島までの高速艇の2種類。乗船券は共通乗船が可能なので問題ないですが、朝と夕方以降の便は大久野島の桟橋の位置が変わります。休暇村に近くなるのですが、送迎バスの運行時間の関係なんでしょうか。
島内へのクルマの乗り入れは出来ないと言いましたが、忠海~大久野島~大三島と抜けるケースや、島内のキャンプ場利用の場合に限り、上陸は出来るようです。ただし前者は桟橋で駐車し、降車も桟橋からキャンプ場までのわずかな移動のみです。

航路もちょっと前までは三原から大久野島を経て大崎上島、下島を結ぶ高速艇があり、フェリーも大三島で北岸の盛港と東岸の井口港に寄港していましたが、燃料費高騰などの諸事情で前者は廃止、後者も盛港だけの寄航になっています。
しかも大三島の主要港のうち盛港だけはバス便がなく、大山祇神社などへの移動はタクシーに頼らざるを得ないという意味では中途半端な航路です。

今回は往復とも大三島フェリーでしたが、忠海港こそ発着にもやい綱を使っていましたが、大久野島ではもやいを使わずタラップを下ろすだけ。尾道水道のフェリーでよく見るタッチアンドゴーです。フェリー自体は瀬戸内の航路でよく見るタイプ。全区間でも30分足らずの航路ですから簡素ですが、定員が4月~5月と8月の多客期とそれ以外で50人も違うのはなぜなんでしょう。


(定員表記の怪)

上陸すると休暇村本館まではこの連絡バスに乗ります。歩いても高が知れていますが、たいていの人はギュウギュウ詰めでバスに乗ります。片側ロングシートと言う変わった仕様です。


(シャトルバス)

平和運動筋の活動もあり、大久野島が「毒ガスの島」として知られるようになっていますが、もう一つの顔として、「うさぎ島」というものがあります。とにかく島内いたるところにうさぎがいるわけで、全部で300羽と言われていますが、もっといる感じです。
このうさぎたちも、毒ガス工場だった当時に毒ガス漏れなどの探知に使われたうさぎが戦後野生化したという類の話がまことしやかに伝わっていますが、1970年代に島外から持ち込まれ、そこから繁殖したというのが実情のようです。
もちろん一部にはまだ土壌汚染も残っているようなので、うさぎの「変化」がそれに関連する何かを示す可能性はあります。


(うさぎがいっぱい)

パームツリーが並び、パターゴルフが出来る広場がある休暇村本館の前庭ですが、この島内随一の平場も実は毒ガス工場由来です。
この平場にメインの工場や事務所が立ち並んでいたわけで、そのためこれだけの平場が確保できたのです。


(休暇村本館のエリアも昔は)

さて、先程から「毒ガスの島」と言っていますが、島内の戦争遺跡は実は2系統あります。
明治時代、日露戦争を控えて整備された圏\要塞と、昭和に入って整備された毒ガス関係施設。これが点在しているのです。
シュールなのはこうした遺構にもうさぎがいることで、不思議でのどかな雰囲気を演出しているさまは、「天空の城ラピュタ」のワンシーンのようです。


(北部要塞跡。二十四加の砲台跡)

圏\要塞のほうは、一朝事あらば敵国が攻めてくる、と想定していた時代の産物であり、東京湾口の海堡と同じ性格ですが、24cm加農砲などを対岸の忠海方面に据えているということは、この狭い水道を敵国(ロシア)艦隊が侵攻するという想定であり、相当な負け戦と言えます。


(同じく十二加の砲台跡)

とはいえ明治期の遺構でもあり、レンガ造りの趣きすら感じるものですが、一方の毒ガス関連は無骨なコンクリート製ということもあり、威圧感すら感じます。特に敗戦時に日本軍や進駐軍に焼却処分されたこともあり、炎に焼かれて黒ずんでいる姿は不気味です。


(発電場の跡)


(毒ガス貯蔵庫)

海水浴場のそばには神社があり、その手前には戦後に建てられた慰霊碑がありますが、未熟な技術での作業ゆえ事故も多かったようで、当時の慰霊碑も神社の左手にひっそりと建っています。


(戦前からの慰霊碑)

この「黒歴史」を後世に伝えようと建っているのが毒ガス資料館。圏\要塞からの大久野島の歩みに、火工廠時代の毒ガス工場の歩みを展示しています。


(毒ガス資料館)

ここで製造されたのはイペリットなどのいかにも毒ガス、というものから、催涙弾に属するもの、発炎筒に属するもの、さらには毒ガス製造工程と共通する殺虫剤もあります。火工廠製造、と入った木箱が置いてありましたが、平時には民生品も作っていたとは知りませんでした。

ところで、毒ガス工場という軍事機密があったことから、大久野島は「地図から消された島」としても知られています。
当時の地図が掲示されているのですが、確かに大久野島は地図に描かれていません。
しかし、この消し方は「消された」と言うよりは、「除外された」という感じなのです。

つまり、戦時改描のように、あるべき施設を空白にしたり別のものに置き換えるといった「偽造」「偽装」ではなく、大久野島を中心として大崎上島、大三島、忠海町側につき全くの真っ白になっており、島だけでなく地図そのものが消されたエリアになっているのであり、消されたのではなく、軍事地域として地図を公表しない区域という扱いに過ぎないともいえます。

しかし実際には海辺からはよく見えるわけで、呉線では海側の鎧戸を閉めるように強制されていたそうですし、展示物の中には、地元の女学生が、から大久野島を撮影していた「不審者」を見て通報して憲兵による迅速な逮捕につながったという感謝状もあり、息詰まる雰囲気すら感じます。

展示や日に何回か上演されるビデオの内容は、「いかにも」という論獅ェ目立つのですが、日本の毒ガス戦についてはある程度までは真実であることが確実になっているわけで、「左右」の論戦も歴史問題のような「否定」を巡るものではないのが特徴といえます。

少なくとも戦地での使用はともかく、製造、保管されていたことは疑うことのない事実ですから、もっとイデオロギー的な部分を排除して展示すべきでしょう。島内の遺構も遠からず朽ち果てる運命ですが、そこから何を感じ、学ぶかは人それぞれであり、「平和教育」のバイアスをかけることでかえって後世に正しく伝わらないリスクを感じるのです。



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