Straphangers’ Room2022

旧Straphangers' Eyeや習志野原の掲示板の管理人の書きなぐりです

個人の判断は責任も伴う

2023-03-13 20:17:17 | 時事
今週からマスク着用は個人の判断、と下駄を国民に預けた格好ですが、初日から反マスクを隠そうともしないメディアが必死になってマスクを外した人を持ち上げていますが、多くの人がマスクをしており、よほど悔しいんでしょうね。マスク着用を続けている人にしても、周りの目が、という同調圧力でしています、という声を取り上げていますが、恣意的な切り取りの匂いがプンプンしていますね。多くの人が「感染が心配」と思っているはずですからね。周囲の目ではなく、周囲が感染してるから、でしょう。

何度も言いますが、個人の判断、というのであれば、マスクをしない自由もあるように、感染(源)を避ける自由もあるわけです。マスクをしないで咳き込んでいる人を「排除」することを否定できるのか。加害者の人権だけを語るのと同じ香りがしますよ。感染させられて高い治療費を払わされる「被害者」だけがいい面の皮です。統一地方選が近いこともあり、負担増にはしないというような毛バリが多数ぶら下がっていますが、そんなの本則が原則通りであればすぐに戻って負担増ですからね。

感染拡大初期に、感染したことを詫びる、批判するというような行為が非難されましたが、なんちゃってレベルでも種々の規制があっての感染では「誰が悪いわけでもない」というしかなかったのは当然ですが、今後は最大の感染リスクヘッジ手段であるマスク着用が個人判断になるわけです。マスク着用で感染リスクが増加する、というトンデモが発生しない限り、マスクを外すことはリスク側の行動をとることにほかなりません。

個人の判断でリスク行動を取れるのであれば、その責任もまた個人に帰属します。リスク行動を取る人だけの問題ではなく、他人に感染させるリスクもまた増大するからなおさらです。本人だけの問題に限定しても、発熱などの発症による欠席、欠勤の影響は自分だけですか、ということですよ。そう考えたら企業など組織体はリスク行動を取って感染したメンバーをどう評価すべきか。感染力が尋常でなかったオーマイクロンは全く心当たりが無くても感染するような状態でしたから、感染すること自体を批判しなくなっていましたが、そこにリスク行動の有無という個人の判断とその結果がトリガーになった瞬間、「自己責任」となるのは不可避ですし、責任が伴わなければモラルハザードを起こします。

「個人の判断」も感染リスクをベースにした判断であればまだしも、それとは無関係な、そしてトンデモな「判断」が容易に想定できます。
おそらく多くの人の根拠は「国が外していいと言ったから」というレベルの「判断」でしょう。肝心なところを聞いていない、理解する気が無い勝手判断です。

【補遺】
反マスクの嫌らしい手口というか、マスクを外す人が少ないのを見て「今後徐々に」というような表現で「マスクを外す=あるべき姿」という刷り込みを図っています。
もちろんCovid19前にはマスク着用は特定の理由があるケースに限られていましたから「正常化」でもあるんですが、感染が沈静化するというよりも「ウィズ」ということであれば、感染防止を前提に行動すべきであり、反マスクはそれと対立する概念となります。


マスクをする理由=他人の目、すっぴん隠し、というような低レベルの理由に持ち込んで、マスクを外すべき理由として聴覚障害者がコミュニケーションを取りづらいというのを上げるのも嫌らしいですね。マスク=わがままや世間体、障害者に重大な影響、という刷り込みですから。





幹線ルートの維持と接遇

2023-03-13 20:16:05 | 交通
北海道の「ローカル線」廃止問題ですが、他地域と違い、「国境への幹線」という面があるルートをどう考えるかという論点が絶えずついて回ります。
もちろん鉄道が軍事輸送に寄与していないどころか主力戦車の輸送が在来線では不可能(キャタピラ覆いなどを外せば限界に収まるが戦場へ急送する前提でそんな「改造」をいちいちする余裕はないでしょう)、というミスマッチでは存続させる意味がない、という主張も一定の説得力があります。

その意味では鉄道に限らない交通の維持こそが重要であり、公共交通を維持することで流動が存在する、というのもその土地を見捨てないという意思表示であり、定住者を維持する一つのツールになります。クルマがあるとは言いますが、外部、特に都市部から家族親族を訪ねるというようなケースでは、交通手段がないところに住んでいるというのはリスクそのものであり、移住を促す要因になりますから。そして旧天北線の廃止代替バスが音威子府-浜頓別間で廃止されるという話は、旭川への都市間バスが鬼志別まで維持されるとはいえ、簡単には訪れることが難しいという現実がどう影響していくかは気になるところです。

そう考えると高規格道経由の高速バスを含む交通再編に向かった留萌本線は、沿岸バスという比較的意識の高い事業者を持つ沿線でもあり一つのモデルケースになってほしいです。一方で「攻めの廃線」を謳った石勝線夕張支線は残った夕鉄バスも苦境が続き、札幌直通を廃止して、夕張地区から「外部」では新夕張駅のほかは栗山までという、収益源の江別地区を夕張がほぼ分断した路線網になります。まあ中央バスの高速ゆうばり号が残るとはいえ3往復と、現状の半分以下の体制になります。

これを例にバス転換は大変なことになる、と大騒ぎする軌道系至上主義者が雨後の筍のように湧いてきそうですが、鉄道として維持することの方がローコストというわけではないのは自明の話で、それこそJR北海道による内部補填や行政支援が無いと鉄道の維持など不可能であり、それを前提にしたとしてもバスの方がコストが安い、つまり費用対効果が高いですからね。鉄道ガー、というのは鉄道会社の内部補填が未来永劫続くとか、行政支援を前提にするといったバス転換と違う条件が前提になっていることが大半で、不公平な比較で税金にたかっているに過ぎません。

「国境への幹線」という意味では、高規格道の整備や、幹線バスの設定、維持による交通の確保の方が実効性が高いでしょう。うがった見方をすればスパイが来やすいとか言われそうですが、「諜報」であればクルマで回るでしょうから、逆に公共交通も整備されて無人の荒野にはなっていない、国家の目が届いている、という状態を見せつければいいのです。

なお、転換バスが消えていく理由には、バスの居住性も大きいでしょうね。都市内や近郊で乗っても数十分、という利用形態を前提にしたバリアフリー車を国交省が標準化してしまったことで、地方の事業者もそれを導入するしかなくなっています。転換バスを始め、観光路線でも2時間とか乗車する前提の路線は少なくないのに、座席数は少ない、居住性も悪い、荷物の置き場もない国交省標準ノンステで誰が次もバスで、と思うのか。高速バスという未知の新ジャンルがここまで普及できたのは価格もありますが優れた居住性ですが、地方の路線バスはその真逆の進化(退歩)により絶滅コースを辿っています。

北海道にしても2ドアでご丁寧にも中扉なので寒気を車内に急速に導入できる構造で、ノンステなどの低床は雪道、凍結路での走破性が最悪で、それに1時間も2時間も乗らないといけないというのは悪い冗談です。上記の沿岸バスも羽幌線転換バスの留萌-羽幌-幌延-豊富がこれですから、さすがに乗車は考えます。バリアフリー対策という意味ではいくらでも改善策はあるのに(実際の導入例もある)、最悪の方向での標準化ですからね。だから鉄道を維持すべき、という主張にも一定の正当化を与える破目になっているわけで、結果としてまずい政策が税金ウマーにつながっています。

そうそう、鉄道がない沖縄でもこれが大惨事になっているわけで、空港から中部のビーチに点在するホテルに行こうとすると、空港発のバスがあるじゃんと頼りにするとやってくるのがこれですからね。荷物の取り回しにも苦労するばかりか、浦添から北谷までは阿鼻叫喚の混雑も茶飯事、挙句の果てに名護まで行こうとするとベタ遅れと、そりゃ猫も杓子もレンタカーに向かい(バスターミナルもかくやという規模の営業所が空港周辺にならんでいます)、あるいは観光バスというのも当然でしょう。まあ沖縄の場合は観光客と日常利用を分離するという「崇高な目的」があるのかもしれませんが、その割にはゆいレールを推しているわけで、観光客が使いづらい公共交通をどうするのかという問題も含めて課題が大きいです。猫も杓子もレンタカーというのは、それだけ交通事故リスクも増えますからね。そうそう、名護までの軌道系交通整備がいつも出てきますが、米軍基地に分断されて動線が分断しており、バスも複雑怪奇に経路が分かれていますからね。あっちにもこっちにもいい顔をするとゆいレールのように曲がりくねって時間だけ食う結果になりますから。



「最悪」想定は「諸説」レベルではないのか

2023-03-13 20:13:26 | 震災・災害
「3.11」から12年となりましたが、周年でもないのに大きく取り上げるのはなぜ、と思ったら「13回忌」だったんですね。もちろん仏教徒だけの節目ですが、我が国においては多くの遺族が「7回忌」以来の節目を迎えた格好です。

メディアも取って付けたように報じていますが、今回目についたのが今回の津波被害を受けて整備(復旧)された防潮堤に関する議論です。
2011年の大津波の被害を受けて整備されたはずの防潮堤が足下の想定だと津波を防ぎきれない、浸水域が発生する、というもので、せっかく整備されたのにどうしたらいいのか、という地元の悩みを報じています。これにかこつけて反防潮堤の市民団体やメディアが勢いづいていますが、「海が見えない」といったナイーブな意見での否定などに与する人はいませんし、今回の問題にしてもだから防潮堤はいらない、といった反ワクチン、反マスクのような1ビット思考ではなく、どうすればいいのか、という議論になっており、「やたっ」と得意満面で防潮堤を否定しようとしたメディアはお生憎様、という状態です。

一方で不可解なのは、なぜ今になって被害想定が変わったのかということ。昔の想定というわけでもなく、それこそ9世紀の貞観地震の再来と言われる「1000年に1度」の大地震、大津波という知見を得て設計された防潮堤が「足りませんでした」というのはあまりにもお粗末でしょう。
どうも「最悪の想定」を厳格にしたらこうなる、ということのようですが、「1000年に1度」レベルを超える想定というのはいったい何なのか、という疑念が払拭できません。それこそ今回の大津波は、多賀城市の「末の松山」が貞観地震の大津波でも波が越さなかったことで「ありえないことの例え」で歌に詠まれるようになったのを再現したように今回の大津波も「末の松山」を越せなかったわけで、今回の大津波への対応であれば歴史の記憶というレベルの大津波にも耐えうるはずでした。

もちろんそこに油断は禁物で、有名な田老の防潮堤など10mクラスの防潮堤が続々破られたわけです。(田老の場合は戦前に完成した区画は耐えて、戦後完成の区画が破られており、別の要因もありそうですが) 一方で普代村は15mの防潮堤が完璧にブロックしたわけで、やはり基本は想定される波高以上のものの建設です。
しかしその想定はどう置くべきか。実は波の高さは震源域に左右されますから、ある集落を最悪の事態となる巨大な津波が襲ったとして、他の集落も「最悪の想定」になるのかどうか。想定の中には防潮堤が破られた場合も含んでいますし、であればいかに高くても防げません。また湾口の向きなどによっても波高は変わるわけで、最悪の想定は波高や浸水域を最悪にする反面、同時に起こり得る可能性が著しく小さくなります。

ここまで来るとどうも「ゼロリスク」の色彩が強くなるわけで、歴史上というよりも地質時代に発生したと思われる巨大地震と巨大津波の再来を想定するようなものです。このエリアでは同じような巨大地震と巨大津波が周期的に襲うことが知られていますから、貞観→東日本を上回る巨大地震、巨大津波ということは、とてつもないスパンでそれが発生しないと成立しない想定です。貞観→東日本のスパンのうち何回かに一回が超巨大地震、超巨大津波になるという話ですが、それはいったいいつなのか。原発再稼働の想定でゼロリスクを要求する規制委が敷地内の断層について縄文、弥生時代より前に遡っての活動しないことへの保障を要求していましたが、それと同じ香りがします。原発問題もそうでしたが、海を渡る火砕流という異常事態を心配するのであれば、手前の大都市も含む自治体は壊滅しますが、それはいいのか、という批判と同じように、その最悪の大津波を想定するのであれば、津波以外の被害に耐えられるのか。

そうした前提の被害を想定した対応は現実的なのか。原発再稼働問題がゼロリスクにこだわるあまり、人類の歴史に等しい期間の保障を求めたように、大津波もまたそれを求めるのか。実は貞観→東日本での被害を想定した対応も、では今回建設するインフラが1000年後の対策になるのか、という話になるわけで、コンクリートなどの耐用年数を考えたらありえない話で、それでも我々が実際に目の当たりにした被害を想定するということは意味があるわけです。起こり得ないということが言えない規模の最大として。「末の松山(波越さじとは)」にしても、波が越えなかったという事実を目の当たりにしたことで生まれたのですし。

もちろん防潮堤で囲まれているが海抜が低い地域は事業用地として限定し、住居は高台に集中する、という石巻市の雄勝地区などの二段階対応がベストですが、いろいろな事情でそこまでの対応は不可能なケースが大半です。であればどのレベルまで求め得るのか。例えば20mに再設計するのがいいのか。それとも貞観→東日本を超える超巨大地震、超巨大地震までは想定しないのか。貞観→東日本レベルの再発で耐えられないという妥協とは意味合いが違うわけで、想定しないという選択も十分あり得ます。

さて今回、いったんは「現実を踏まえた」対応で統一されたはずの話がなぜ覆ったのか。
被害想定その他の想定にしても、役所が勝手に想定は出来ませんから、それなりに知見のある人が積み重ねていないといけません。
そこで気になるのは、昨今目につく「新解釈」の横行で、歴史関係バラエティのネタ元としてはよく見られるのですが、キャッチ―な「新解釈」が「個人の感想です」に毛が生えたようなレベルでも「諸説あり」というエクスキューズ付きでメディアに取り上げられることが少なくありません。邪推すればアカデミズムの世界での「一旗組」ではないのか、という疑念があるわけで、もしその「諸説」が主流になる、実際の社会での前提になる、となれば、一躍メジャーになって売れっ子、そして「権威」になれるチャンスですから。そういえばありましたよね、「チバニアン」で敗色が濃い反対派の学者が現地立入調査を阻害したといったことが。そういう下世話なやっかみがある世界ですから、少々飛ばした議論が出てもおかしくはないでしょう。特に今回はこれまでの前提が覆るわけですから。

今回は対応次第では、というか必然的に巨額の税金支出を伴うわけで、それとの絡みもあるわけです。原発再稼働でもこれでもか、というようなインフラ整備を伴っており、それがいかなるケースでも必須なのか、レアケース対応なのか、と分けて考えたら妥当と言えないのでは、という対象もあるわけで、その二の前です。
であれば余計にシナリオの妥当性を吟味しないといけません。特に発生可能性の部分は。最悪だけど1万年に1回、となれば考慮する必要はあるのか。何度も言いますが、そういう超巨大地震、超巨大津波があるとしても、貞観→東日本のサイクルと一致しないタイミングでの発生はまず無いでしょう。貞観→東日本は震源域が巨大地震のド本命であり、この震源域に影響しない形で別に巨大地震を引き起こす震源域はないでしょうから。千島沖や十勝沖の「空白域」が指摘されますが、M8レベルの大地震は起きてるはずで、それを含む長期サイクルでの巨大地震があるのか。そしてその震源域であれば東日本大震災では大きな被害を受けなかった沿岸地域での対策をどうするのか、という別の議論になりますし、そのほうが急務でしょう。原発に火砕流が届くことを心配する前に心配すべき事項があるのと一緒です。