Straphangers’ Room2022

旧Straphangers' Eyeや習志野原の掲示板の管理人の書きなぐりです

矛盾答弁の時点でレッドカード

2019-11-08 22:51:00 | 震災・災害
この秋は相次ぐ台風や豪雨が県内に大きな被害をもたらしましたが、その先陣となった台風15号襲来時の千葉県知事の行動が不可解という批判が直後からあった中、遂に致命的な内容が報じられています。

その行動の是非を問う前に、発災直後からの批判に対する言い逃れと矛盾している内容が明るみに出ているわけで、その時点で「虚偽説明」をしてきたということで一発レッドカードなんですが、そういう有無を言わさぬ評価をしないのはなぜなんでしょうね。

どうせ自宅という名の別荘に行ってて身動き取れなかったんだろ、と思っていたら、まだそうだったら「うっかり行って動けなくなった」と少しばかりの同情を得れたのに、県庁にちょろっと出てから行ったんですから救いがありません。翌日の昼下がりであれば館山道、富津館山道が復旧している状態ですから、それこそ「車窓見学」であれば鋸南でも富浦でも行けたわけです。

市原でのゴルフ練習場悼フ被害も入っていた中で、被害が甚大な内房方面に行くならまだしも、芝山ですか。酒々井だ富里だと芝山への通り鰍ッの車窓を見たに過ぎない話ですし、行政の災害担当やその責任者が自宅を優先するなんてありえますか、という話です。

県が配るはずのブルーシートを「取りに来い」と言い放つなど上から下まで県の対応が批判を浴びる中、これはもう致命的でしょう。虚言を弄して自宅ファーストでは県民の命を預かるガバナーの資格など微塵もありません。

そして19号の時には自分の対応ミスを棚に上げて県庁職員に総員待機をさせたとか本末転刀A責任転嫁の対応を強いて「今度は大丈夫」とした話も耳に入っており、タレント知事なのに発信力もない、パフォーマンスすらできないのでは何のメリットがあるのか。

かつて保革一騎討ちの県知事選が続き、「共産党候補が通るくらいなら」という消去法で自民党候補が選出されてきましたが、さすがにこのレベルになると考えたくなりますし、次はないぞ、候補者を差し替えろ、とダメ出ししたいです。






感情への配慮は規制と同義

2019-11-08 22:49:00 | ノンジャンル
あいちトリエンナーレの「表現の不自由展」を巡る騒動で、文化庁がトリエンナーレ全体への補助金支出を不交付としたことについての批判が高まっています。
一方で展示内容が不適切だから公費支援は失当、という声も根強く、主催側になる愛知県知事が国の対応を批判すれば、県都である名古屋市長は展示内容に抗議して(分レベルという茶番ですが)座り込みをするというような内ゲバ状態になってます。

まあ文化庁の決定に対しては文化審議会の委員からも批判が噴出しているわけで、手続き不備を理由にするのであれば、展示内容は理由でないと一札を入れるべきだった、という批判は、本音はどうであれ建前として「検閲」ではないという一線は守るべきだった、という譲れない一線であり、私自身も内容を理由にしたことを誰一人として疑わない状態での決定は一線を越えてしまったと感じます。

展示内容への抗議の代表としては、昭和天皇の肖像を焼却する演出は極めて不穏当、という国民感情に訴えるものですが、確かにけったくそ悪いサヨクの独りよがりの件pごっこは件pの名に値しないでしょう。ちょうど相生市の書道家が「滅びゆく街相生」という趣獅フ批判文を「作品」としたことに対し、市側が撤去を要請したというニュースが流れましたが、文化、件pなのかプロパガンダなのかの線引きをしないと、なんでも件pの名のもとに通ってしまうことになります。

しかし一方で「高い件p性」を理由にプロパガンダ作品が評価されることもあるわけで、その典型がピカソのゲルニカでしょう。スペイン内戦で共和国側を支持していたピカソが、フランコ側を支援するドイツ空軍による無差別爆撃を批判したテーマであり、戦争は絶対悪と評価しても差し支えないとはいえ、その後のスペインの歴史を見ればフランコ政権が必ずしも絶対悪ではなかっただけに、一種のプロパガンダという評価も可能ですが、20世紀を代表する件p作品の一つとなっていますし、フランコ政権ですら末期にはその価値を認めています。

そうした評価の基準は確立したわけではなく、戦時中の「聖戦画」が問題視されて一時期日本画壇から事実上放逐された藤田嗣治のようなケースもあるわけです。のちに「復権」しましたが当時の仕打ちを忘れない未亡人が頑なに日本での展覧会を拒み続けたという経緯もあり、日本での展覧会が当たり前に開催されるようになったのは21世紀に入ってからで、そこで「聖戦画」も含めた展示が初めて行われたわけです。

ただ、それはあくまで主観ですし、個人の感想です。いやいや、評価が確立していれば、というのであれば、「件p家」であれば何をやってもいい、という微妙な結果になります。プロパガンダ性が高く件pとは言えないのでは、というあくまで件p基準での評価が出来ればいいのですが、なにがしかの主張が不可避な以上、どこまでがOKなのかの線引きは非常に難しいです。やはり内容による線引きは不可能であり、あくまで作品の評価として判断するしかないでしょう。

いかに内容がけったくそ悪くても、その発表自体を否定することは許されない。その原理原則を妥協したら、発表すること自体の危機になります。見る側の感情に配慮を、という俗耳に入りやすい「基準」も、よしんばそれが公共の場に展示され、否応なく目に入るのであればまだしも、展覧会の、しかもテーマ性のある(内容が容易に想像がつく)閉鎖空間での展示でそのような配慮が必要なのか。まさに「見なければいいじゃん」の世界なのに配慮を促すことは、発表自体を否定することにほかなりません。

それでも感情に配慮が必要、というのであれば、ではあの時はどう評価した、という話になります。
そう、展示物の内容自体がケシカラン、という人で、まさか「私はシャルリー」に賛同していた人はいませんよね。もちろんあれは「言論に対するテロ」でありレベルが違いますが、モハメッドに対する諷刺がイスラム教徒を傷つけることへの配慮を全く顧みなかったという点では、日本国と国民統合の象徴であり国民の総意に基づく天皇を辱める内容を表現の自由に優先させて批判することはできませんよね。もしそうであれば、恥も外聞もないダブスタであるか、イスラム蔑視にしかなりません。

天皇に対する侮辱には人一倍敏感な国士様御用達新聞もあの時は自由を優先していましたよね。それがわがこととなれば手のひらクルーですからご立派な対応です。常日頃から御大層なことを言う場合は自分の身に降りかかったときも同じことが言えるのか、と言ってますがそれができないのであれば最初から言うな、です。

まあシャルリーはその後も挑発的なマホメッドの諷刺を掲載して、やり過ぎ、茶化される側の感情を考えろ、という流れになったわけですが、「相手がどう思うかを忖度せよ」という気配りを装った批判ほど恐ろしいものはないわけで、第三者が勝手に忖度を求めるといった新しい形での弾圧が現在進行形で拡大しているのを見ると、評価は厳しくあるべきだが、表現や発表そのものを否定してはならないのです。

ですから、優秀なものへの表彰でない以上は、内容が問題、という理由での判断は、公序良俗に違反しない限りあってはならないし、けったくそ悪くても我慢しないといけません。人を呪わば穴二つ。いつ何時自分の行動がそうした恣意的判断に遭うかもしれないのですから。