民主主義、自由主義という本来普遍的な価値であるはずの体制が、「ジャイアン」その他のご都合主義で無視されることを前に指摘しました。お気に入りでない国には民主的でないとかバリバリの内政干渉をするくせに、お気に入りの国は専制君主制で女性の人権が蔑にされていてもスルー、という見事なまでのダブスタです。
もちろん民主主義、自由主義を貫くことで衆愚に流された意思決定になったり、意思決定までのプロセスが長きに失することも多々あるわけで、指導者による迅速な意思決定を羨む向きも少なくありませんし、「衆愚」に委ねる方が誤り、という価値観を持つ人もいるようです。
しかしそうした結論に至る大前提として、常に「正しい選択」が示される、ということが必須です。若干の遠回りであろうと、極端な話、間違った選択であろうと、主権者の合意(多数決)で決定した事項である以上は、遅延や間違いの責任もまた主権者にあるわけで、それは一般的に「民主主義のコスト」と呼ばれます。
一方で指導者による迅速な意思決定。これは独裁か強大な授権が前提であり、民主主義とは相容れないはずの体制です。ですから「正しい選択」はたまたまベクトルが一致しただけであり、決定プロセスに与れぬまま国民の意思に反した「選択」がなされるというリスクが常にあります。
こうした国家はアジアに多く、「赤い資本主義」はその典型ですが、「開発独裁」とされる国家もまたその一種です。社会的安定性あっての国家の発展という建前で民主主義、自由主義の抑制、抑圧を正当化しているのですが、社会の不安定に起因する「遠回り」を排除してショートカットしたことで高度成長の果実を最短、最大で得られる。その還元が行きわたることで抑制、抑圧による「不自由」を甘受する。お互いwin-winであれば問題視されないわけで、まさに「衣食足りて礼節を知る」、経済的発展の方が、民主主義、自由主義といった観念的なものよりも重要視されたわけです。
ところが経済成長が鈍化すれば得られるメリットは少なくなり、「不自由」だけが目立つことになります。そうなると、強力な独裁を敷くことで半端ない抑制、抑圧を維持するか、メリットを追求するか、民主主義、自由主義の軍門に下るかになります。
そのうち「メリットを追求」というのは言うは易しですが、小規模国家であれば可能な対応であり、シンガメ[ルがその典型と言えます。
まあアジアの発展している国家は大なり小なり「独裁」がプラスに働いている面が強く、その陰では様々なひずみや「不自由」が顕在化していますが、眩い摩天楼の立ち並ぶ様に感嘆するだけのレベルではそういった問題点を見出すことすら出来ないのです。
シンガメ[ルなんかは上手に立ち回って「独裁」を見せないようにしていますが、今は故人となった「首相」が建国以来政権の座につき、退いてなお「上級相」として院政を敷くというおよそ民主主義、自由主義とは言えない状況にもかかわらず、繁栄で免責された格好です。
観光客やビジネスマンが行き交う繁華街では決して見えてこない普段着の市街地をどれだけ見ているか。しかもそれすら「上級国民」であり、汗をかく仕事は誰がしているのかまでを見ているのか。無邪気にシンガメ[ルを礼賛する人には決して見えていない現実です。有名な「Fine Country」ですらまだ可愛いもんだ、という現実があるのです。
ここで気になるのは大阪方面からシンガメ[ルへの憧憬の念が感じられるような声がネットで見受けられたこと。
まあ単純に「伊丹のせいでキタに高層ビル街が出来ない」と駄々をこねるような手合いですから、ショーウインドー的な眩い都市国家に憧れているだけなのかもしれませんし、金融都市としての成功に、金融先物市場を世界で初めて構築した自らの歴史を重ねあわせているのかもしれませんが。
いまですら「上澄み」を必死にプロモして背伸びをしているわけですが、ダークサイドの底上げを図るのではなく置き去りにするんでしょうね。まさにシンガメ[ルのように。そして民主主義、自由主義を必ずしも尊重しない風潮。独裁者が正しく導けばそれでいい、という政治風土も何気に相似形を描くのをみると、民主主義、自由主義という絶対的であるべき価値観の共有すら覚束ない状態を許してしまったことは、日本にとっての不覚と言えます。
もちろん民主主義、自由主義を貫くことで衆愚に流された意思決定になったり、意思決定までのプロセスが長きに失することも多々あるわけで、指導者による迅速な意思決定を羨む向きも少なくありませんし、「衆愚」に委ねる方が誤り、という価値観を持つ人もいるようです。
しかしそうした結論に至る大前提として、常に「正しい選択」が示される、ということが必須です。若干の遠回りであろうと、極端な話、間違った選択であろうと、主権者の合意(多数決)で決定した事項である以上は、遅延や間違いの責任もまた主権者にあるわけで、それは一般的に「民主主義のコスト」と呼ばれます。
一方で指導者による迅速な意思決定。これは独裁か強大な授権が前提であり、民主主義とは相容れないはずの体制です。ですから「正しい選択」はたまたまベクトルが一致しただけであり、決定プロセスに与れぬまま国民の意思に反した「選択」がなされるというリスクが常にあります。
こうした国家はアジアに多く、「赤い資本主義」はその典型ですが、「開発独裁」とされる国家もまたその一種です。社会的安定性あっての国家の発展という建前で民主主義、自由主義の抑制、抑圧を正当化しているのですが、社会の不安定に起因する「遠回り」を排除してショートカットしたことで高度成長の果実を最短、最大で得られる。その還元が行きわたることで抑制、抑圧による「不自由」を甘受する。お互いwin-winであれば問題視されないわけで、まさに「衣食足りて礼節を知る」、経済的発展の方が、民主主義、自由主義といった観念的なものよりも重要視されたわけです。
ところが経済成長が鈍化すれば得られるメリットは少なくなり、「不自由」だけが目立つことになります。そうなると、強力な独裁を敷くことで半端ない抑制、抑圧を維持するか、メリットを追求するか、民主主義、自由主義の軍門に下るかになります。
そのうち「メリットを追求」というのは言うは易しですが、小規模国家であれば可能な対応であり、シンガメ[ルがその典型と言えます。
まあアジアの発展している国家は大なり小なり「独裁」がプラスに働いている面が強く、その陰では様々なひずみや「不自由」が顕在化していますが、眩い摩天楼の立ち並ぶ様に感嘆するだけのレベルではそういった問題点を見出すことすら出来ないのです。
シンガメ[ルなんかは上手に立ち回って「独裁」を見せないようにしていますが、今は故人となった「首相」が建国以来政権の座につき、退いてなお「上級相」として院政を敷くというおよそ民主主義、自由主義とは言えない状況にもかかわらず、繁栄で免責された格好です。
観光客やビジネスマンが行き交う繁華街では決して見えてこない普段着の市街地をどれだけ見ているか。しかもそれすら「上級国民」であり、汗をかく仕事は誰がしているのかまでを見ているのか。無邪気にシンガメ[ルを礼賛する人には決して見えていない現実です。有名な「Fine Country」ですらまだ可愛いもんだ、という現実があるのです。
ここで気になるのは大阪方面からシンガメ[ルへの憧憬の念が感じられるような声がネットで見受けられたこと。
まあ単純に「伊丹のせいでキタに高層ビル街が出来ない」と駄々をこねるような手合いですから、ショーウインドー的な眩い都市国家に憧れているだけなのかもしれませんし、金融都市としての成功に、金融先物市場を世界で初めて構築した自らの歴史を重ねあわせているのかもしれませんが。
いまですら「上澄み」を必死にプロモして背伸びをしているわけですが、ダークサイドの底上げを図るのではなく置き去りにするんでしょうね。まさにシンガメ[ルのように。そして民主主義、自由主義を必ずしも尊重しない風潮。独裁者が正しく導けばそれでいい、という政治風土も何気に相似形を描くのをみると、民主主義、自由主義という絶対的であるべき価値観の共有すら覚束ない状態を許してしまったことは、日本にとっての不覚と言えます。