Straphangers’ Room2022

旧Straphangers' Eyeや習志野原の掲示板の管理人の書きなぐりです

キャッシュレス礼賛の罠

2018-10-16 23:25:00 | 時事
消費増税のどさくさまぎれに出てきたキャッシュレス推進ですが、各国のガラパゴスなキャッシュレスを捉えて我が国は遅れている、という出羽の守にも推挙できない連中が多すぎますね。

今回の消費増税絡みのニュースで、外国人観光客の「キャッシュレスマンセー」の声を拾っていましたが、末端の小売店舗までキャッシュレスになったとして、じゃあ何を決済手段にするのか、そこまで想定していますか、という話です。

クレカが使えれば無問題ではあるのですが、外国発行のカードが使えない国の多いこと。
わざわざ各国(地域)で異なる電子マネーを購入するにしても、チャージ金額はどうするのか。要は個人の口座とひも付けするしかないのですが、外国で個人口座に直結するアプリをインストールするなんてガバガバなセキュリティを推奨するのか。

プラスチックマネーが使えないガラパゴス方式の大半が外国人による決済を想定していないか、セキュリティに重大懸念を持たざるを得ない方式なわけで、各国別のアプリが必要となると、各国の現金に両替するのと本質は一緒であり、リスクだけ高くなるのです。

メディアがしきりに取り上げるスウェーデンにしても、外国人がキャッシュレスのツールを入手できないため、買い物ができる場所が限定される、交通機関は有人窓口に並ぶしかない、という弊害が発生しています。利便性ならまだしも、現金が使える場所が限定される=外国人くらいしか使わない、ということは外国人向けの二重価格も容易に設定できるわけで、かつての中国の兌換券による外国人向け価格を惹起する「ぼったくり」も懸念されるところです。

こうした状況は非関税障壁の一種とも言えるわけで、プラスチックマネーの利用か、購入、返却、チャージが容易な電子マネーの普及がないキャッシュレス化は批判の対象でしかないのです。行き過ぎを悟った例としては上海があり、交通系カードの現金チャージ機の大量撤去後、批判の高まりを受けて相当数を復活させた経緯は、ガラパゴスなシステムの限界を示しています。

ちなみに中国では銀聯が有名ですが、これも一種のガラパゴスなデビットカードであり、日本でSMBCが発行しているそれは中国内で使用不可のケースが少なくないのです。ホテルを除けばクレカはほとんど使えないわけで、現金決済を余儀なくされますが、外貨両替には上限があるという二進も三進もいかないドツボにはまった人も少なくありません。

小銭を持つのが厄介、というキャッシュレス推進派の言い訳がありますが、現金社会の日本の場合、小銭を入手することの制約がないわけで、物品、サービスの購買や交通機関の利用において、「日本円」以外のガラパゴスな支払手段の入手を必要としておらず、ハードカレンシーである日本円は日銀券であれば外国での両替も可能と、非常にシンプルです。
これとクレカの利用を広げる(特に交通機関)ことのほうが「お・も・て・な・し」でしょう。

ついでに言うと、キャッシュレス化がバラ色のように喧伝する推進派ですが、デメリットも多いわけです。まず「お財布」がユーザーのコントロール外にあること。モバイル決済を褒め称える人は多いですが、故障、トラブル、バージョンアップその他の外的要因で利用できなくなるということをどう見るか。さらにインストールするアプリの問題。データの保全とセキュリティは誰がどう保障するのか。国家の専権事項である通貨発行権と実際のユーザーとの間に「条件」を課す存在が許されるのか。

データの問題と同時に存在するのが電源の問題。今夏相次いだ天災では停電が長時間に及ぶこともありましたが、電気がないと使えないお金という位置づけになります。キャッシュレスにおけるツールは。レジなどが動かなくても現金という現物があれば取引は可能という現金が持つ「最終手段」的な性格をカバーできるのか。通信事情も影響するわけですが。

忘れがちですが、キャッシュレスといっても通貨という概念は消えません。仮想通貨というジャンルがそれに挑戦していますが、その価値は本当に保障されるのかは誰も知りません。実は大昔に話題、問題になった「純金預り証」の類かもしれません。現実通貨との兌換も誰がどう保障するのか。

逆に言えば、通貨という概念の根本を備えていればキャッシュレスは可能です。
データの管理と保障。国家が責任を持って実施する。「お財布」は低所得者には国家が支給する。あるいはスマホのような汎用ツールではなく、「電子財布」というような専用機器を作ることで決済情報を一次的にはスタンドアロンの存在にする。「お財布」が壊れても大丈夫。国際間でも例えばG20諸国は共通のアプリを導入すれば決済可能とする。

ただ、キャッシュレス化は「お財布」のガラス貼り化と同義です。
左翼系メディアや市民団体を中心にこうした「背番号制」を猛烈に批判してきた過去を考えると、ノイジーマイノリティによる妨害が出るのでしょう。



消費税率上げを巡る問題

2018-10-16 23:19:00 | 時事
首相が消費税率の10%への改訂につき今度は先送りせずに来年10月の実施を明言しました。
東京五輪景気にまぎれて反動需要減が吸収されればいいのですが、五輪景気に水を差す結果になったら大変です。とはいえ先送りも将来に禍根を残すだけなので無理ですが、景気回復の実感が薄い「庶民」にとっては実施の理由が空々しいわけで、実感を十二分に享受している階層をみるに、消費税の逆進性というものを強く感じます。

一方で財政赤字、赤字国債に対しては国家の財政が危ういと煽り、じゃあ増税はというと「庶民は大変」と煽るメディアが、不必要に国民を煽ることで消費性向が歪められたり、有権者の意向ということで政策が歪められていることは厳しく指弾すべきでしょう。

そもそも「庶民」というのは支出が1円でも増えれば嫌がるものです。1円安いものを買うために遠くのスーパーに行くという不合理も辞さないという「経済感覚」であり、それに従っていたら経済は回りません。

今回も「10%は大変ねぇ」という「庶民」の声を映像で垂れ流していますが、既に8%の消費税が鰍ゥっているのですから実際には2ャCント、1.85%の値上げに過ぎないわけで、「10%」を前面に押し出すのはミスリードのきらいがあります。
そしてそういう「街の声」の多くが老人ということ。デフレに苦しむ現役世代に対して、世代間仕送りを受けての老人どもはデフレのほうが居心地がいいわけで、そういう声ばかり聞いてきたことが社会を歪めてきたのです。

消費税法改正の際の国会質疑の再来になるのですが、「反政府系」のメディアは軽減税率の適用で店内なら、持ち帰りなら、品目によっては、という区分の件をことさらに論っています。
そんなことは若干の不合理はありますが、最大公約数的な決め事であり、持ち帰りをその場で食べるのは、というようないちゃもんで批判するのも飽きました。

だいたい、イートインは店内扱いになるわけで、店頭でいきなり食べだすまでは規制できない、というのはまあ妥当でしょう。噴飯ものなのは歯磨き粉は日用品で軽減対象外ですが、「口に入れるものだから説明が難しい」というスーパーの店長の声を拾っていましたが、馬鹿ですか?じゃあ入れ歯は食料品ですか?口に入れるものですが。

軽減対象との区分が難しい、という点にしても、混在しているスーパーなんかではそれこそ値札をつける時の登録次第でしょうし、特定のアイテムだけ値引き対象にすることもすでにしているわけです。日用品だけ5%引き、食料品が5%だけどビール類は除きハードリカーは含む、といった細分化もしてますよね。

そもそも軽減税率に新聞がシレっと紛れ込んでいる大問題があるわけです。一部の試算では年間100億円近い歳入不足を招く新聞の軽減税率。「庶民の声」を垂れ流すのであれば、自らが襟を正すべきでしょうに。読者の支払増加を回避することで免れる部数減が新聞社への売上補填になっているわけで、特定の産業に対する支援、いや、癒着でしょう。さらに政党の機関誌も対象となるのが闇を深くしているわけで、軽減適用は当然としたり、消費税そのものに反対だからと軽減適用の議論をごまかしたり、政党のお手盛りも大概です。

そして選挙対策としか言いようがないのが「中小小売」に対する優遇。
「まちづくり」が大好きな中心市街地に対する新たな税金による延命措置です。とはいえこれがピント外れの誰得だから救いようがないわけで、手数料が3%もかかるキャッシュレス決済の導入が前提というのは販価が1.85%上がる今回の増税の比ではない持ち出しになります。

五輪対策と銘打ってサマータイムを持ち出してきたのと同様の無関係な施策の潜り込みに過ぎないわけで、消費税率上げにかこつけてキャッシュレス推進を持ち出すとはせこいやり口です。

信販会社に3%持って行かれるだけのコストを負担させるのであれば、それこそ中国の発票のように税務当局とのオンラインシステムを構築、導入させて脱税の防止による公平性の担保、歳入の増加を進めるというのが本線でしょう。うがった見方をすれば、カード関係、キャッシュレス関係の企業を見渡せば、「改革屋」による利権付け替えで潤った企業が名前を連ねていますし。


私的情報発信の古典回帰

2018-10-16 23:17:00 | ノンジャンル
拙サイトも利用しているジオシティーズが2019年3月限りでホームページサービスの廃止を発表しました。北千葉道路関係を除けば新規記事の発表をここ数年していない放置状態の拙サイトも転機というか「重大決意」を迫られました。

使用するソフトの問題もあり、文字コード設定がうまくいかず、PCでの閲覧は可能だがスマホでの閲覧は文字化けを起こすページが大半という状況でその修復も出来ていないので、ウェブサイトへはスマホ経由でのアクセスが全盛の昨今においては事実上閉鎖状態ともいえるのですが、「廃止」となるとやはり違います。

別のサービスへの乗り換えも考えたのですが、コストを負担してまで更新頻度が極小のサイトを維持すべきなのか、また他所のサービスもいつまで継続するのか、という問題があるわけで、容量的に全面移管は不可能ですが、実は無料でスペースを確保しているところに一部を移管して縮小継続する手もあるのですが、文法の修正など作業時間の確保がまず取れないこともあり、難しいところです。

ウェブサイトとブログ、掲示板というゼロ年代の遺物のような仕立てですが、じゃあ昨今の主流であるSNSでこれが代替できるかというとそうではないわけです。
その意味でオールドスタイルのウェブサイト、さらにはブログ(既に拙ブログが利用しているGMOは新規受け付けを停止していますし、ガラケーでの対応もできなくなっている模様です)もフェードアウトしつつある状況は、ネットでの情報発信という意味では、全く性格の異なるものによる「代替」ということになるわけで、個人の情報発信が大きく変わる、いや、制約されることになります。

気楽にすぐに投稿できる、交流できるというSNSの手軽さは一つのメリットですが、情報発信という意味では「残る」ものではありません。周辺機能として寄生する事業者が提供するサービスも改廃があるわけで、基本はその場限り、過去の情報を呼び出せないものといえます。

一方でウェブサイトは公開されたものはそのまま静的に残ることが前提です。掲示板はSNS的な性格が強いですが、ブログは月単位やテーマ別による検索機能があり、過去記事の掘り起こしは可能ですし、テーマの設定次第ではウェブサイトに準じた構成の構築が可能です。
そういう意味では静的な情報発信ツールが消えゆき、その場限りの情報発信に偏重するということは、情報発信の質的差異が激しいわけで、うがった見方をすれば、個人による残る形での情報発信を好まない、その場限りの発信だけにしておけ、という大きな流れがあるという陰謀論すら感じます。

前世紀末から概ね20年程度。個人によるウェブサイトを使用した情報発信が、サービスの廃止により消滅してきているのですが、「一個人」に限らずプロに属する人もウェブサイトでの活動に軸足を移していることを踏まえると、この21世紀初めの20年程度の「情報」が後世残らない、断絶するという可能性が高いです。

インターネットの発達で本が売れない、書店や出版業界が慢性的な不況で廃業者続出、というリアルの流れの中で、まず電子書籍がサービスの廃止で「消滅」するという問題が指摘されましたが、今回はネットにある情報そのものが消えてしまう、というリスクに直面しているわけです。

なんとも皮肉なのが、SNSの発展で交流が盛んになることで、同人誌の発表や頒布会が花盛りになっているということでしょうか。記憶媒体にインプットして販売する、というのではなく、古典的な軽印刷やコピーによる「薄い本」の販売。ネットを補助ツールとして使い、本命はあくまで古典的な紙媒体ということで、「残る情報」「残る作品」が生み出されています。当初は二次創作が中心だったようですが、研究発表などジャンルの多彩化もあり、個人の情報発信の場として紙媒体が復権しています。

この「古典回帰」の流れというのは文化史的に見ても興味深いというか、技術の発展が古典回帰を招くという極めて異例なケースですが、細々と続けてきた拙サイトの存在が、それを我が事として強く意識させてくれました。