Straphangers’ Room2022

旧Straphangers' Eyeや習志野原の掲示板の管理人の書きなぐりです

司法の非常識再び

2018-05-09 21:41:00 | ノンジャンル
大阪で女子高生が信号無視した大型トラックにはねられ死亡した事故で、大阪地裁で危険運転致死の適用が見送られたというニュースを目にしました。

ドラレコは直前18ヶ所の赤信号のうち停止しているクルマや歩行者が確認できない14ヶ所を除く4ヶ所で信号無視をしていることを映しており、事故現場は直前に信号無視から6秒後、100m先の交差点であり、信号は手前の交差点と同時に赤になっていました。

事故現場の信号無視に故意性が認められるかが論点になったわけで、手前の交差点など4ヶ所は全赤時間など間際での通過でしたが、事故現場は赤になって6秒後の通過だったわけです。
実はこの6秒間で車線変更と加速をしていたことも明らかになっており、前方を注視していたこともドラレコの画像から判明しており、横断者に気が付かなかった運転手は「行ってまえ」と通過したと判断するのが一番合理的ですが、危険運転の適用はなかったのです。

弁護側は6秒間の間があることを奇貨に、止まれるのに止まらなかったのは信号の見落としなどの止まれなかった事情があった、つまり過失であると主張し、裁判長も「行ってまえ」は否定し、赤信号を認識していた可能性は高いが故意性は断定できない、と弁護側の主張を容れました。

前方に物理的な障壁がなかった4交差点は総て信号無視、というある意味「100%」の悪質な結果をもってしても「過失」とする判断を下す裁判官は論外として、この裁判は裁判員裁判ですが、裁判員がどういう理由で結論付けたのか。あるいは「違うかもしれない」という余地があったら断定できませんよ、とでも吹き込まれたか。

この目を疑う判決を見て思ったのは、福岡であった飲酒運転のクルマが橋の上で追突して相手のクルマを海に転落させて子供が死亡した事件の裁判です。地裁で「ここまで無事故で来たのだから」と危険運転の成立を否定したのに対し、高裁が地裁の事実認定は間違いだらけ、と逆転判決を出しましたが(犯人が上告したが棄却で確定)、加速までしているのに「行ってまえ」を否定する積極的な理由はどこにあるのか。「行ける」赤信号総てを無視しているというのに。まさに司法の劣化です。

福岡の事件はサイトの記事にもしましたが、危険運転罪はそもそも類型化が難しく、司法判断を積み重ねる方法で適用範囲を決めていく、という立法趣獅ェあります。罪刑法定主義的には微妙ですが、一方で社会的要請があるわけで、立法府が司法府にボールを投げた格好です。そこで司法府が範囲を極小化する方向の判断を積み重ねてどうする、とサイトの記事で批判し、高裁が軌道修正したところまでフォローしていますが、今回の大阪地裁の判決は、ある意味確定した積み重ねを崩すようなものです。

それが厳しめに出る傾向がある裁判員裁判で顕在化したというのも俄かに信じられない話ですが、言いにくい、言いたくない結論ですが、大阪という地域性を指摘せざるを得ません。
もちろん大阪だから、という俗耳に入りやすい話ではなく、大阪の司法固有の話ということです。

以前小学生が校庭でサッカーをしていて、逸れたボールが道路に飛び出し、老人が運転するバイクに当たって転唐オて骨折、入院中に認知症が進み誤嚥性肺炎を起こして死亡した事件がありましたが、今治市での事件が遺族が大阪にいるという理由で大阪地裁が扱ったことがケチのつけ初めで、大阪地裁、大阪高裁とも親の責任を認めた、いわば「風が吹けば桶屋」を地で行く判決を出し、11年かかって最高裁で親の責任を認めない(校庭でのボール遊びに子供の責任を認めない)逆転判決となりましたが、極めて常識的な、というか当たり前としか言いようがない判断が大阪の地を離れて初めて得られた、ということに、大阪の司法の「闇」すら感じたわけですが、それを思い起こす事態です。


放言が招く重大な帰結

2018-05-09 21:40:00 | 時事
財務省の前事務次官による「セクハラ」についての財務相の発言、そろそろ政府として糺さないと本人の辞表では済まない事態になりますね。

「セクハラ罪はない」という主張がお気に入りのようですが、まさに言葉尻、言葉遊びの世界であり、だったらなぜ均等法で雇用側が是正義務を負うのか、また、不法行為が認められるのか。全然分かっていないわけです。そもそも刑事法上の罪がない、として前次官の「人権」を持ち出すのであれば、是正義務を負う財務省の責任がまず問われるわけで、再発防止策はもちろん、既知の課題であるセクハラ防止が果たせなかった責任についてどう応えるのか。直接的な法令対応という意味では財務省とテレビ朝日の問題です。

あたかも個人に責任もないような物言いですが、前次官の退職金から相殺する格好で課された減給処分に関する財務省の発表を見てみましょう。

「以上のことから、財務省としては、福田氏から株式会社テレビ朝日の女性社員に対するセクシュアル・ハラスメント行為があったとの判断に至った。
この行為が財務省全体の綱紀の保持に責任を負うべき事務次官によるものであり、結果として行政の信頼を損ね、国会審議等に混乱をもたらしていることも踏まえれば、福田氏の行為は、在職中であれば「減給20%・6月」の懲戒処分に相当していたものと認められる。」

財務相が主張するように「行政への信頼毀損」「国会審議の混乱」が結果として挙がっていますが、処分理由の構成としては、「その結果を踏まえて」、という結果的加重であり、あくまで「セクシュアル・ハラスメント行為」が処罰理由になっています。すなわち、「行為があったとの判断に至った」と認定し、「この行為が・・・事務次官によるものであり・・・結果として・・・踏まえれば、・・・行為は・・・懲戒処分に相当していたものと認められる」とつながるわけで、処罰理由はあくまで「セクシュアル・ハラスメント行為」になります。

もしセクハラは罪に非ず、というのであれば、この処分は明らかにおかしいわけで、財務相が承認していたらそれは自家撞着です。野党やメディアもなんでこんな簡単なツッコミすらできないのか。処分が「正」であれば、財務相が真実と違いことを吹聴しているのですから。

さて、財務相の発言というか放言を糺さないといけない理由としてもう一つ挙げられるのは、このまま放置しているとセクハラの刑事罰化、という厄介かつデリケートな問題が不可避になるからです。

刑法や特別法に直接の規定がない、という部分を「悪用」して罪刑法定主義の建前から罪に非ず、ということを強調すればするほど、じゃあ刑法改正あるいは特別法の制定を、となることは必至です。セクハラが「やってはいけないこと」というのは社会のコンセンサスであり、企業などの組織体における懲戒理由であり、不法行為として認定されているのですし。

しかし一方で、現状の刑事罰がない状態は、「社会の知恵」でもあるわけです。
セクハラは主観的被害である面が大きいわけで、それを罪刑法定主義のルールに当てはめることは非常に困難です。人権擁護に関する法令をめぐる議論で、委員の主観で判断されてしまうということに対する危険性が指摘されてなかなか立法化できず、ヘイトスピーチをめぐる条例が一部で成立したものの、これも適用の客観性に問題があり、事実上主観的な判断になっているのですが、セクハラの場合はまず被害者が声を上げる際の基準が「個人の感想です」になるわけで、同じ行為、あるいは客観的に見て明らかに「ひどい」ケースでも適用が分かれる事態があり得ます。

個別事情を斟酌、判断するしかないわけで、均等法による雇用者の義務や、企業など組織体における内部統制に委ね、民事上の不法行為責任でしばる現状の「曖昧さ」での対応が、「セクハラ罪」、あるいは「セクハラ法」の制定で不可能になるばかりか、是非は相手次第で決まる、という罪刑法定主義のある種例外のような刑事法が誕生します。

今回の財務相の放言は、そうでもしないと、という主権者とその代表である立法府を後押ししているわけで、既に総務相が立法化を検討すると明言したように、時計の針が大きく動こうとしています。
法令で明確に定義し、縛ることで処分等がやりやすくなる、言い換えればそこで規定された行為を安易にしなくなる、という効果はあるので、歓迎すべきかもしれませんが、罪刑法定主義の原則からみれば問題点が少なくないわけで、そういう懸念をかき消す効果を持つ財務相の放言の罪深さは計り知れません。

あるいは主観的な適用を是とする刑事法の制定に道を開くということは、為政者にとっては都合の良い面が大きいため、そこまで見据えての放言と言ったらうがちすぎでしょうか。