Straphangers’ Room2022

旧Straphangers' Eyeや習志野原の掲示板の管理人の書きなぐりです

パンドラの箱にならねばいいが

2016-07-16 02:10:00 | ノンジャンル
3日と空けずに大ニュースが発生するこのところですが、日本人としてはやはり「生前退位」の報に驚きました。
以前女系天皇論の時に、推古天皇に元正天皇、草壁皇子といった「歴史」の故事が続々と出てきたのですが、今回は約200年前の光格天皇以来、という話になっています。

このあたりが日本の歴史の奥深さでもありますが、今回引き合いに出てきたのが光格天皇というのも意味深で、皇統が断絶しかけたところを世襲親王家である閑院宮家から継いだとか、そして今の皇室の直系の祖先になるとか、その光格天皇以来、というのは単に歴史のアヤだけとは思えないものを感じます。

天皇陛下も御年82、昨年あたりからご公務での「ミス」も目立つようになり、しかしながら公務の「軽減」は対象となった先に対して不公平ではないか、という強い義務感が今回の「ご意向」になったのでしょう。
皇位は終身というのもご公務を考えると「人権問題」でもあり、天皇に人権なし、とはいえ常識的な感覚では誰もが思うわけで、今回の「ご意向」も一般には肯定的に捉えられています。

しかし敢えて不敬、不忠の誹りを覚悟して申し上げれば、今回の「ご意向」はこれまで陛下や皇室が強い意思をもって回避してきた「皇統の危機」という論点において、パンドラの箱を開けてしまったのではないでしょうか。

各方面から指摘されている通り、存命中の退位、譲位についての規定が我が国の法令にはありません。皇位、後続を定義する皇室典範にもそれはありませんし、逆に現憲法下での皇室典範制定時に、存命中の譲位を否定する意図があったという話が出ているわけで、そうなると陛下のご意思とはいえども簡単にはいかない話です。

少なくとも、退位と譲位、譲位後の名称(「太上天皇」=上皇)と敬称、重祚の可否を規定しないといけませんし、各種定義に「上皇」を追加する必要もあります。さらには皇位継承順位としては定められている兄弟、甥への皇位継承に伴う「立太子」の規定も必要です。すなわち、いかなる形であれ、現在の皇太子殿下に皇位が継承された時点で、「その次」である秋篠宮殿下の「立太子」に関する規定がありません。また状況次第では「その次」が悠仁親王殿下になる可能性もありますが、その場合の「立太子」の規定もありません。

権限上は「太子」がいなければならない、ということはないのですが、規定があるということは何らかの意味があるわけで、立太子をせずに践祚することになるのは皇室典範の法律上の不備になります。

陛下のご意思を尊重するには皇室典範の改正が不可避ということは共通認識なんですが、そこで出てきたのが、全面改正論です。
有識者会議を設けて検討する必要がある、という声が出るに至っては、陛下の発議を奇貨として「天皇制」を変えてしまおう、という動きであり、小泉政権当時の女系天皇容認論のように、一歩間違えると「天皇制の危機」になる危険性があります。

そういうどさくさ紛れや、議論による時間の空費を回避すべく「摂政」でいいではないか、という声もありますが、これも「摂政」設置の要件に「高齢」がないわけで、皇室典範の定義にある「精神若しくは身体の重患又は重大な事故により、国事に関する行為をみずからすることができないとき」といってしまうとあまりにも失礼なわけで、常識的に見ればこれも皇室典範の改正が必要です。

ちなみに昭和天皇ご不例の際でも「国事行為臨時代行」だけで摂政は設置されなかったのですが、この「国事行為臨時代行」も「国事行為」に限定されるため、それより広い「ご公務」の取り扱いをどうするか、という話になるわけで、高齢を理由とした場合は不可逆の設置になるのに「代行」やご公務の場合は「名代」でいいのかとなると、制度趣雌Iに難しいでしょう。

結局、譲位(あるいは高齢に伴う摂政設置)に関する最低限の修正を行う、と欲目を出さずに対応すべきですが、「余計な改正」につながる危険性を排除できていない現状は、10年ほど前の政府による「性急な議論」を自ら招きかねない事態です。

しかしそう考えると、今回の「ご意思」はそれを満足させるには法改正を伴うことから、「違憲」の疑いを指摘する声も出ていますが、陛下は日常「護憲」の立場を取られていることを鑑みると、逆に危機感を持っていても「ご意思」になることが不自然であり、ひょっとしたら陛下の「ご意思」を盾に皇室典範の改正に持ち込み、本題とは別の「女系」のような「裏メニュー」を通そうとしているのでは、という陰謀論も荒唐無稽とは言えないでしょう。








負けるべくして負けた野党

2016-07-16 00:35:00 | 時事
もうこの2016年という年は、歴史に残る年という意味では1972年と同様に特異年といえますね。定例の参院選なんかは話題にも値しない感じで霞んでしまいました。

その参院選も、そもそも与党に2/3を取らせないのが野党の目標という、ある意味「負け」を前提にした選挙戦でしたから、盛り上がりに欠けました。改憲勢力ガー、とメディアや野党が騒いでいましたが、国民の興味は中国、そして英国ショックで景気がどうなるのか、ということであり、それに応えていたのが与党だけなんですから、そりゃ負けて当然です。
そして「2/3」が論点に非ず、ということは、国民は何が何でも改憲はNGというのではなく、改憲が発議されたら応じるべし、というスタンスを示したわけで、メディアや野党との温度差が露骨に出た格好です。

18歳選挙権という憲政史上の出来事も、当初こそあれやこれやと騒がれていましたが、これも18歳、19歳の有権者は与党への支持が高い、ということで、18歳選挙権を煽ると大好きな野党が不利になって改憲勢力ガー、ということなんでしょうね、メディアの手のひら返しが露骨でしたし、選挙後は「関心は高かったが投票率はさほど高くなかった」と今度は選挙権への意識を理由に野党敗北の恨みを晴らさんが如き論調すら目立ったのです。

今回の「野党統一候補」の勢力にしても、街宣活動では会社勤めとは無縁な勢力や高齢者が目立つわけで、若い世代から見たらこいつらに自分たちの運命を決められたくない、という反発すら覚えさせる状況だったわけです。おまけに野党が「改憲勢力ガー」とワンフレーズャ潟eィクスの罠にはまっている間に、与党がリベラル寄りの政策すら実現させてしまっているようでは、野党の存在意義は与党の「ガス抜き」にも及ばない、という悲惨な状況です。

こうなった原因は結局は民進党につきるわけですが、いやしくも一時は政権の座にあり、3人の総理大臣を輩出した政党として、再度の「政権交代」を目指しているは到底思えない状況が、結果として「なるべくしてなった」という結果になったのです。
野党共闘、と言えば聞こえはいいですが、政権奪取を前提にした政策提起もなく、主導権も握っていないという状況を見るに、野党共闘すらイニシアチブを取れない政党に政権などへそが茶を沸かすとしかいいようがありません。

前に旧社会党が「おたかさんブーム」で最後の輝きを見せてからあっという間に凋落した故事を引きましたが、あの時も「ダメなものはダメ」という反対だけで政策がない底の浅さが、野党としての存在意義しかないことを示していました。
そして今の民進党も、旧社会党の血筋は争えないのか、政権の座に一時は就いていながら、野党として反対を叫ぶだけの存在に堕しているといえます。

しかも与党批判にしても、では何がダメなのか、という論証も示せず、揚げ足取りに終始する有様です。
何か事件があれば政府、首相が悪い、と言い出すに至っては、言い鰍ゥりというのも無理があるような難癖の域であり、自分たちが政権時代に遭遇したらどうだったかと考えたら、天に唾するどころの騒ぎじゃありません。

野党共闘にしても、「55年体制」が崩壊した細川連立政権の時のように幅広いスタンスから成り立っているのではなく、民進党を「右端」としてそこから左側が集まっての「共闘」では、広く国民の支持など得られませんし、いちばんメリットを受けていたはずの共産党ですら議席は増えたが伸び悩みと評されるような結果でした。
民進党が「右側」からバランスをとると考えているのかもしれませんが、イニシアチブを取れない状態では、「左派連合」にすぎませんし、それすら海外のように政権をとることを意識した政策の提示ができていませんから話にならないのです。

いわば自爆の状態で「2/3」を阻止とは何を考えているのか。有権者を馬鹿にしている話です。それどころかメディアは「民意」を無視するわけで、「憲法改正を発議してはならぬ」と左派系メディアは論説委員を押し立ててて「愚民共の多数決など聞かぬわ」と言わんばかりのご高説を垂れ流したのですから始末に負えません。

これでは何回選挙をやってもダメでしょうね。一強体制は本当は良くないのですが、それを許しているのは野党の体たらくとメディアの勘違いなんです。