広島は69回目の原爆忌を迎えました。
43年ぶりとなった雨中の式典。予定稿だったのか平和宣言で炎天下を想定した表現があったのは何でしたが。
今年の平和宣言では集団的自衛権への言及があると言う声があり、左翼のシンパ系メディアが期待してようですが、言及はありませんでした。
左翼系メディアはよほど悔しかったのか、言及がなかった、とわざわざ見出しを立てていましたが。そもそも原爆忌に別の話題を持ち込んで抱き込む姿勢が不純であり、被爆者や犠牲者をダシにしているようで不愉快です。
その平和宣言ですが、絶対悪としての核兵器に対する批判を軸に、当時の記憶に耳を傾けて欲しい、という切実な思いが、生々しい証言を語ることで伝わってきました。
どうしても政治的産物にならざるを得ないとはいえ、こういう「事実をきちんと伝えていく」という基本に立ち返った平和宣言は重みがあります。そして左翼系メディアの想いとは逆に、いろいろと取れるとはいえ、ある意味左翼系のお花畑的、自虐的発想とは一線を画した表現に感じました。
厳しさを増す安全保障体制と言う表現は、言及すると言われていた集団的自衛権を肯定すると言う受け止め方も可能であり、未来志向という表現も、過去にこだわり関係改善に背を向ける中国、韓国への牽制とも取れる面があるわけで、それを基調にしてなお平和と核兵器廃絶を追及していく、という姿勢は、うすら甘い「平和主義」にはない重みがあります。
原爆投下から来年で70年。あの日のことを直接聴くことが出来なくなる日が近づいている中で、イデオロギーで粉飾されたものではない、真実をどう伝えていくのか。残された我々の課題と言えます。
43年ぶりとなった雨中の式典。予定稿だったのか平和宣言で炎天下を想定した表現があったのは何でしたが。
今年の平和宣言では集団的自衛権への言及があると言う声があり、左翼のシンパ系メディアが期待してようですが、言及はありませんでした。
左翼系メディアはよほど悔しかったのか、言及がなかった、とわざわざ見出しを立てていましたが。そもそも原爆忌に別の話題を持ち込んで抱き込む姿勢が不純であり、被爆者や犠牲者をダシにしているようで不愉快です。
その平和宣言ですが、絶対悪としての核兵器に対する批判を軸に、当時の記憶に耳を傾けて欲しい、という切実な思いが、生々しい証言を語ることで伝わってきました。
どうしても政治的産物にならざるを得ないとはいえ、こういう「事実をきちんと伝えていく」という基本に立ち返った平和宣言は重みがあります。そして左翼系メディアの想いとは逆に、いろいろと取れるとはいえ、ある意味左翼系のお花畑的、自虐的発想とは一線を画した表現に感じました。
厳しさを増す安全保障体制と言う表現は、言及すると言われていた集団的自衛権を肯定すると言う受け止め方も可能であり、未来志向という表現も、過去にこだわり関係改善に背を向ける中国、韓国への牽制とも取れる面があるわけで、それを基調にしてなお平和と核兵器廃絶を追及していく、という姿勢は、うすら甘い「平和主義」にはない重みがあります。
原爆投下から来年で70年。あの日のことを直接聴くことが出来なくなる日が近づいている中で、イデオロギーで粉飾されたものではない、真実をどう伝えていくのか。残された我々の課題と言えます。