Straphangers’ Room2022

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主権回復の反面教師

2013-04-27 02:42:00 | 時事
28日からの首相訪露を前に、メディアが北方領土に関する特集を組んでいます。
1945年8月15日のャcダム宣言受諾の2日後、8月17日の占守島侵攻に始まるソ連による千島侵略は、降伏文書調印による停戦発効の9月2日を過ぎても続き、最終的に歯舞諸島が占領されたのは9月5日と、ソ連は連合国の一員とはいえ、接収とは到底言えない「侵略」でした。

この時、「9月2日」を強く意識していたことが、9月2日の国後島占領時にソ連軍司令官が時計を巻き戻して「9月1日に完了」と宣言したエピソードからも窺えるわけで(降伏文書調印を1日と勘違いしていたらしい)、停戦後の「侵略」は都合が悪いため、長くソ連シンパの左派系メディアや学会はこのあたりを曖昧にしてきました。

そういう意味では先日の朝日の北方領土特集が、ソ連による北方領土占領を9月5日と明記したのには時の流れを感じるわけで、中国や韓国へのシンパシーに転じた今となってはロシアの肩を持つこともなくなったようです。

その北方領土ですが、サンフランシスコ講和条約で北千島と南樺太の領有権を放棄ししたものの、南千島に関しては我が国固有の領土と主張してきましたが、講和条約にソ連が調印せず、ソ連の占領下にあるということで、我が国の主権が回復されていません。

1956年の日ソ共同宣言では平和条約締結を条件としていますが、色丹島と歯舞諸島の返還が明記されています。しかしその後もソ連は両島を引き渡さず、我が国も国後、択捉両島を含む4島一括返還の原則を主張して現在に至っています。

時を経るごとに事態はややこしくなっているのも事実であり、内地人の入植が本格化した明治初頭からソ連占領までと、それ以降のソ連、ロシア時代の年数に差が無くなって来たばかりか、ロシア人入植者の数も敗戦直前の日本としての住民数と大差がない状態であり、日本に復帰したとしても、彼らロシア人とその資産をどうするのか、やり方次第では1945年に旧島民が味わったのと同じ問題を今度は日本が引き起こしかねないのです。

このように時が解決するのではなく、時が経つことで現状が固定化されることもあるわけです。
そういう「実例」を見てしまうと、今般の「主権回復式典」に対する批判への評価も厳しくなります。

主権回復、すなわちサンフランシスコ講和条約に対し、招聘されなかった中国(北京、台北)、調印しなかったソ連も含めた全面講和論がありましたが、結果は単独講和になったわけです。
講和条約を締結しないといつまでも「休戦」であり、連合国の支配をうけるうえに、国際社会への復帰も容易ではないわけで、単独講和をして、それを足がかりに日華平和条約、日ソ共同宣言と進み、国連加盟も果たせたのですが、全面講和にこだわっていたら果たしてこのようなスケジュールで国際社会に復帰し、今の繁栄があったかどうか。

そして講和条約で沖縄や奄美、小笠原を切り離したことも同じです。
「みんな一緒」に主権回復とこだわったとしたらどうだったのか。日本の主権回復自体が遅れたことは必至であり、全面講和論と同じく、日本の主権回復そのものを遅らせる、妨げることになったでしょう。

残念ながら実効支配をしていない場合、原理原則は大事ですが、こだわると一歩も前に進めなくなるのです。そのことは北方領土が70年近く解決していないことからも分かるでしょう。
そして時が経てば経つほど、イレギュラーな状態が固定化され、その状態に生活の根拠を置くケースが増えてくることで、「正常化」は同時にそういう人たちにとっての「生活破壊」になるというジレンマが増大します。

そう考えたとき、単独講和でまず「本土」の主権を回復し、それを足がかりに「返還」を果たしていった我が国の歩みは、決して「切り捨て」といったネガティブな評価で括るべき話ではありません。