Straphangers’ Room2022

旧Straphangers' Eyeや習志野原の掲示板の管理人の書きなぐりです

反対に潜む思想とメンタリティ

2013-04-26 00:14:00 | ノンジャンル
靖国神社についての話を書きましたが、そもそも左派系の人と噛み合わない原点が、戦死者を「死者」と捉えるか、「侵略者」と捉えるかの部分と言えます。注意したいのは、靖国問題で左派系や中国、韓国系の批判に対して眉を顰める人たちの多くは、批判する側の「侵略者」の対極としての「正義の戦士」ではなく、単に「死者」として捉えており、死者に対する慰霊、追悼に対する批判、横槍として感じていると言うことです。

中国杭州の景勝地である西湖に、岳王廟があります。金の侵攻を受けて一旦は滅亡した北宋が再興した南宋の武将の岳飛が祭神であり、愛国烈士として称えられているのですが、なぜ杭州に岳飛、というと、杭州は当時の南宋の首都・臨安だからです。
そしてそこには主戦派の岳飛に対し、和平派だった南宋の宰相・秦檜の像があります。しかし主戦派の岳飛を謀殺し、金との和平を選び、領土割譲、歳費を貢ぐという屈辱的な条約を結んだ秦檜の像は後ろ手に縛られており、岳王廟に参る人はこの像に唾を吐きかけるという慣わしです。

秦檜が岳飛を謀殺したのは12世紀の話です。にもかかわらず死してなお辱めを受けさせられる、という国民性で、日本における敵味方の別なく死者を悼む国民性による追悼の場を評価することは不可能であり、それを受けいれることは永遠にない、とはねつけるべきなのに、なぜか秦檜の像に唾を吐きかけるような行為を期待する人が日本人の中にいるのはともかくとして、それを日本人もすべきと主張することには強い不快感を感じます。

朝日新聞などが、「周辺諸国に配慮を」ともっともらしいことを言っていますが、それは言い換えれば「千年不変」の発想であり、日本人もかくあるべし、という日本人の精神構造を変革、破壊することにほかなりません。それくらい重要なことなんですが、日本人のメンタリティを理解していない日本のメディアと言うのは、いったい誰が誰のためにその特権を行使しているのでしょうか。

さて、靖国神社という存在をなぜもっと素直に捉えられないのでしょうか。「神社」は須らく国家神道であり戦前の体制に繋がる、という「軍靴の響き」系の批判と言うよりも、神社、つまり「神」に対する崇拝と、宗教的権威から天皇という地位がスタートしていることから、反天皇制のイデオロギーに基づく批判に過ぎないと言えます。それを糊塗するために、平和や友好を持ち出しているに過ぎません。

そもそもそういった「神社」と違い、祭神が幕末以降の戦死者、殉難者という靖国神社は、「神社」のスタイルをとっていますが、神話や皇室に繋がる系譜を持たないので、国家神道を含めて神道というイデオロギーとは一線を画しているといえます。

参拝には神道形式が要求されますが、帰依までは要求されませんし、祭られる側も「神様」ではありますが、神話の世界のそれとは違います。
そういう意味では仏教寺院の形態を取るが、個別の宗派での信仰を要求されない長野善光寺や、最近増えてきている「総合宗派」の仏教系霊園のように、祈る場所、追悼する場所としての意義が第一であり、宗教活動の場ではない、という整理も可能です。

ならば無宗教の施設でいいじゃないか、という話になるのでしょうが、日本人のほとんどは、無宗教とは言われますが、なんらかの宗教に属しているのです。「葬式仏教」の揶揄があるように、日本人が宗教とのかかわりを意識するのは、肉親など近親者の死に際してであり、葬儀やその後の追悼は、それぞれの宗教の形態に従うのが通例です。

宗派どころか宗教を越えた「総合宗教」はないわけで、一方で異宗教に対しては非寛容であったり寛容であるものの、違う宗教への違和感は消えません。このとき注意しないといけないのは、自分と違うことでその違和感を感じるのであり、無宗教もまた、無宗教と言う名前の「宗教」として「無宗教による」宗教儀式を営むことで、異宗教を「押し付けている」ことには変わりがありません。

「無宗教」という「宗教」を押し付けるのであれば、既存宗教の形態でも本質は一緒です。逆に「押し付け」を感じる人が少ないほうがベターといえます。ならば「仏教」では、という声もありますが、少なくとも戦前までは「戦死者は靖国に祀られる」「靖国で会おう」というコンセンサスがあったわけで、戦後の基準で変わりました、というのは果たして故人にとってはその尊厳を守る行為になるのかどうか、疑問です。

米国のアーリントンにしても、基本はキリスト教形式です。注意深くやってはいますが、仏教や神道とは全くかけ離れた形態であり、米国民の多くが信仰するキリスト教徒の親和性が非常に高い格好です。
そういう現実を見れば、国家が管理していた時代の靖国神社というのは、実はよく出来たシステムなのかもしれません。

一方で、そうした「国家に殉じた人」の追悼施設と位置づけるのであれば、建立当初の幕末の取扱いはともかくとして、明確なルールが必要になります。特に自衛隊についての扱いが未定というのも問題でしょう。そういう意味では戦後は戦争に参加していない、という建前があるため、朝鮮戦争における相C活動に従事して「戦死」した海保の特別相C隊員の処遇も問題でしょう。

靖国神社に祀るべきではあるが、将来にわたって祀るのであれば、将来に通用するルールを決める必要があります。

超法規的措置に憧れる人たち

2013-04-26 00:11:00 | 時事
ボストン爆破テロの犯人が捕まりましたが、チェチェン人とはいえ、米国市民権を持つ合法的移民とあって、外国のテロ勢力ではない、「自国民」による犯行ということが波紋を投げかけています。

「テロとの戦い」において、通常なら保障される司法手続が適用されないこと、例を挙げれば捕縛されたテロリストを収容したキューバの米軍基地内での処遇や、ビンラディン容疑者の「殺害」などがデュープロセスとの関係で批判されていますが、海外からの攻撃、国際平和に対する脅威、という観点で国内法による保護の対象外、という整理のようです。

ところが今回は、「自国民」による国内犯罪であり、その手続において「例外」がどの程度容認されるかに注目が集まっています。
生き残ったほうの容疑者の取調べに対し、黙秘権が告げられなかった(行使機会が与えられなかった)という話も聞こえてきています。
これは日本のメディアの無理解と言うか不勉強もあり、いわゆる「ミランダルール」の例外規定に過ぎず、証言の有効性の条件となる、黙秘権など被疑者に与えられた権利についての説明をしなかった(説明をしないことについてテロ行為などの重大犯については適用除外の判例がある)だけであり、黙秘権などの権利行使については制限していないようです。

もちろんテロ行為はそうした司法手続を保障する国家そのものを危うくするものであり、厳しく押さえ込むためには手段を選ばない、という発想もあります。しかしそうであっても、「適用しない」というルールが存在するのが法治国家であり、基準もなく適用除外を決定できるというのは法治主義とはいえませんので、今後の司法手続がどのように推移するのかが注目されます。

デュープロセスといえば、我が国においては明治時代の大津事件における児島惟謙の判断が有名ですが、それとてロシア皇太子を負傷させた行為を、皇室に対する罪である大逆罪を類推適用するか、対象を厳格に解して殺人未遂にするか、という話であり、厳密に言えば法律の無視ではなく、どの法律を適用させるか、という話であり、対立する両者とも法律で裁くというスタンスに変わりはなかったわけです。

それを思うと、法律や手続の無視というのは、例えその対象がテロリストであっても、法治国家の体制を否定する危険な発想であり、そこで認めた例外が、対象を広げて、やがて法治主義の無視、人治主義に変異する可能性を常に考えないといけません。
その典型が中国や北朝鮮、かつてのソ連のような共産主義体制であり、「人民の敵」という抽象的概念を「構成要件」にして、最高刑を極刑にすることで、事実上フリーハンドになる「法律」の存在は、法治主義の概念とは程遠いものです。

もちろん国家の転覆、侵略と言ったレベルにおいて法律にこだわり私権を尊重して国家を、ひいては国民を危険にさらし、その財産を毀損する愚は絶対に避けなければならず、非常事態としての「超法規的措置」は絶対に必要ですが、それとてどういう場合に発動し、事態が収束した場合に平時の法体制とどう整合をとるのか、といった「法律」に基づくべきであり、その意味では左派系が使いたがる「超法規的措置」も厳密に言えば法令の規範によるものなのです。

であれば今回の事態はどうなのか。軍事力の行使が必要な事態なのか。警察権の行使で対応できるような事態であれば、通常の法体制で対応できるのではないのか。平時の法体制、特に憲法で保障される権利を制約するためには、相当高いレベルで国家そのものの危機が迫っていることが必要であり、「伝家の宝刀」は安直に抜かずに、しかし、ここ一番では適時適切に振りかざす、という体制であるべきです。

そう考えた時、「国家転覆」どころか「9.11」とも程遠いレベルの今回の「テロ」に乗じて、権利の制約などを大胆に実行すべき、と説く国士様御用達新聞の社説子の発想は評価にも値しないわけです。
もし左派系政権が出来て、左派体制へのテロがあったら、即座に権利を制約すべし、と主張できるのか。そんなことは絶対にしないダブスタの塊のような存在でしょう。