Straphangers’ Room2022

旧Straphangers' Eyeや習志野原の掲示板の管理人の書きなぐりです

今年の方針らしきもの

2010-01-04 23:45:00 | おしらせ
新年ということもあって、ちょっと大上段に構えた話をしてみます。

毎月トップページの写真をメインとする更新をしていますが、そこに添える文章はあまり変わり映えがしないもの事実です。
とはいえ新年ですからそれっぽい言葉を並べているのですが、今年はちょっと思うところがあって、普段と違う一文を入れてみました。

「今年は初心に帰って利用者の目線を常に意識して交通を語っていきたいと思います。」

これだけだと当たり前のようでもあり、それが何か、と言われておしまいになりそうなんですが、年末に早いもので8月には5年目を迎えるこのサイトへの取り組みを考えたとき、ふと思ったことでもあるのです。

もともとサイトのタイトルである「Straphanger」はニューヨーカーの間で言うところの「吊革にぶら下がる人」のことなんですが、ちょっと気取ったこの表現をこのサイトのタイトルにしたのは、交通関係については素人である以上、素人なりの視点、つまり、利用者サイドに立った視点で語るという意思があったからです。

タイトルにある「ちょっと詳しいつもりの素人が交通を語ってみました...」ではないですが、社会人としてはそれなりに年輪を刻んできたとはいえ、所詮はこの世界に関しては素人であり、妙に背伸びをするよりも、素直に利用者としての意見を述べることが大事だと考えたからです。





そう考えて始めたこのサイトですが、最近特にその思いが強くなったのは、世の中のあらゆるサービスやモノのユーザーが抱くそのサービスやモノに対する感想や批判、そしてそれに向き合う事業者の関係に対し、こと交通に関してはその感想や批判をストレートに出すことを嫌い、事業者の立場に必要以上に慮る風潮が感じられるからなのです。

ユーザーが素直に良いサービスを求めること、より良いサービスを追求すること。私が普段身を置いている仕事の世界をはじめとする他のサービス業や製造業においては当たり前過ぎる話であり、それを出過ぎた要求として批判すると言うことは、よしんばそれがいわゆるクレーマーに類する世界で無い限りは有り得ない話であり(さらに言えば事業者サイドからはクレーマーに対してそのような批判をすることはない)、真摯に向き合っているのです。

しかし交通の世界では、それを「ヲタの戯言」と批判することが多々あるわけです。いわゆる「社会派」と言うのでしょうか。事業者の立場に配慮しない意見は幼稚であり、それを理解したうえで批判すべきである、と言うスタンスです。

もちろん自分に特別なサービスをしろというクレーマーまがいの主張ならそれも分かりますが、「安くて良いもの」を求めるユーザーとしての普遍的な要求に対してきちんと向き合っているのか。それが疑わしい状況というか、必要以上にユーザーの要求を縛り、事業者サイドに立っているのではと言う疑念がどうしてもぬぐえません。

そもそも論として、ユーザーがそこまで考える必要があるのか。ユーザーにその要求がかなえられないと言うその説明責任は事業者側にあるのではないか。
その回答まで推測して自己完結するのが正しい「交通論」なのか。そしてその推測した回答が本当に正しく、公平妥当なのか。現に「社会派」が出来ないとしてきた「制約」があっさり当の事業者によって打破されることもしばしばなのです。

そこまで考えたとき、素人が素人なりに語るのであれば、「それくらいはできるのではないのか」という問題提起であり、要求ではないか、と言う非常に単純な結論に帰結したのです。



もうひとつ、今年のテーマとして考えたいのが、「納税者の視点」です。
昨年は道路財源の一般財源化が行われたわけですが、このテーマを論じる中に納税者の視点を踏まえたものが少なかったように記憶しています。
逆に道路財源を公共交通に使え、と言うような論調が目立ったわけですが、なぜガソリン税や自動車重量税といった自動車のユーザー、オーナー「のみ」が畑違いの負担をしないといけないのか。税金と言うものの根本的な性格を考えたとき、こうした主張が平然と出てくるところに危機感すら感じるのです。

そうした流れで昨今の交通問題を考えたとき、どうしても、というか、基本的に独立採算で公共性の高いサービスを提供するほうが難しいと言わざるを得ない中で、公共セクターによる交通への関与、端的にいえば税金の投入が恒常化している現実があります。

税金による整備、維持自体は必要なものと考えますが、そこに「納税者の視点」はあるのか。
要は税金を投入する以上、その事業の必要性、妥当性が厳しく問われるのです。税金で賄うべき水準は何か。必要最低限なのか、過剰サービスなのか。そこを見る力を大事にしたいのです。

あの「事業仕分け」はなぜ実施されたのか。限られた財源から別の事業費を捻出すると言うのがその主目的です。
縦割りの予算や制度の中だけを見ていれば問題が無くても、その費用を削れば別の予算に回せるのではないか。税金を原資としたサービスは交通だけではない、と言う当たり前の事実に立ち返って考えるのが、「納税者の視点」だと思うのです。

もちろん上記の「より良いサービス」を求める素人の視点と矛盾する部分も出てきますが、そこは「安くて良いもの」を求めると考えれば、納税者としてより効率的な税金の使われ方になるほうが負担が軽い、というか、より多くのサービスとなって帰ってくるわけで、その見極めと言うか目利きを「納税者の視点」で行うと考えたいです。



偉そうなことをつらつら書きましたが、蓋を開けてみたら大した内容ではないことも十分あり得るだけに、天に唾すると言うか、暴論に等しい話かもしれません。
しかし、まあお正月ですから、三日坊主に終わるにしろ、志くらいは高く持ちたいと思って書いてみました。










一発激Vリーズ その16

2010-01-04 23:11:00 | 交通
どうもこのシリーズに取り上げると消える運命というケースがあるようで、東京駅の「0系デザイン」の看板が直後に交換されたという話はしましたが、先だって「その15」で取り上げたR2姫路バイパスの「姫路サービスエリヤ」の看板まで消えていました。

年末に広島まで帰省した話はしましたが、その往路は山陽道備前ICまではもっぱら一般道経由を志し、神戸時代にはおなじみの各バイパス群を使って神戸から相生方面に抜けたわけです。
その際に姫路バイパスも通ったのですが、夜更けのバイパス、いつもの看板に再会するのを楽しみにしていたのに見当たりません。

電気が消えているのか、と見たら、看板そのものがありません。というか、看板が立っていたと思しきあたりに中途でバッサリ切られた「柱」があるじゃないですか。
どうやら撤去された様で、またひとつ街道の「名物」が消えました。

そして今回取り上げるのは「消えつつある」物件です。



なんじゃこりゃ、と思うでしょうが、本埜村村内のR464沿いにある「看板」です。
いちおう「交通安全」「速度順守」の看板に属するのでしょうが、「上から目線」で諭す凡百の看板と違い、「下々の目線」というか、レベルを合わせた警告です。

同種の看板が都合3ヶ所くらい立っているのですが、あまりにも俗っぽい(族っぽい?)表現には苦笑です。
ちなみにここは北総線を挟んで片側2車線の道路ですが、その先で「北総アウトバーン」が終わり、R464へは右車線に入り右折するため、つい速度を上げて前に出ようとする場所ゆえ、「大漁」が期待できる場所ですから、ャCントを押さえた警告です。

で、「消えつつある」ですが、手製手書きの看板ゆえ、だんだん文字が滲み、看板自体も風化してきています。この写真を撮ったのは1年前ですが、現時点ではかなり文字が読みにくくなっています。



あっ、「消えつつある」という意味では、「特別版」の「公約実行」もまさにそうだ...




意味深?

2010-01-04 14:56:00 | ノンジャンル
年末年始のテレビというとロクなものがないというのが通り相場ですが、それでも暇つぶしにそれなりに見てしまうものです。
そうしたなかの一つに、歴史に関するバラエティがあったのですが、何とも意味深なコント?を目にしました。

記紀の時代の謎を取り上げる趣獅ナすが、その中で出てきたのが出雲神話。大国主命の国譲りですが、天照大神の使者である建御雷に鳩山首相似の倹lを配していたのです。

で、国譲りですから建御雷は大国主命に国をよこせと言うのですが、そのセリフが「チェンジ」「政権交代」ときました。国譲りとはいえある意味理不尽な一方的な要求である本件にこのセリフはよく考えるとなかなかシュールですが、さらに唸ったのはその先です。

神話では建御雷は大国主命の2人の息子のところに行き、国譲りを承服させるのですが、武力で抵抗しようとした建御名方をねじ伏せたくだりのところで、建御雷が吐いたセリフが「友愛」ときました。
武力征服で「友愛」とはこれまたシュールですが、「本物」が「友愛」を説きながら国民に何をしているかを考えると、そういう下地があるからこそ、鳩山首相のキャッチフレーズを使ったギャグにブラックな笑いを持たせられるということでしょう。

まあ鳩山政権に厳しい読売系の日テレということもあるんでしょうが、生ぬるい正月番組にしてはワサビが少し効いていました。

総合力と特殊能力

2010-01-04 13:12:00 | ノンジャンル
下で箱根駅伝の話題を振りましたが、2年連続で大逆転となった5区の山登りの結果を受けて、「山登り偏重」に疑問の声が出ているそうです。

この伏線として、かつては風祭にあった中継所(復路6区の中継所)を小田原市街地に移して距離が伸びたこともあるのですが、この変更はそれこそ「山登り」だけに特化した選手との完全な役割分担を回避する効果もあるわけで、平坦線もしっかり走れる総合力が問われるわけです。

確かに山登りは特殊な能力ですが、では山登りをなくしたら「箱根」はただ単に長いだけの冗漫なレースに落ちるわけです。関東学生陸連会長は「本来は10区間の総合力で戦うのが駅伝」といいますが、平坦線だけのコースならどこかで大きく貯金を作ればそれでおしまい、という総合力すら問われるものになります。

そもそもここ2年の東洋大は山登りだけで勝ったのかどうか。山登り偏重を訴える向きにはそこが見えていない気がします。5区で4分半をひっくり返した、という逆転劇も、4区までに4分半の差で付けていなければ成立しないのです。

さらに言えば2位の駒澤大は往路7分以上の差で8位でしたが、最終的には3分40秒差の2位に入ったわけです。
逆に「花の2区」で留学生が11人抜きの日大は2位に浮上しましたが15位に沈みました。全日本、出雲と2冠達成の強豪も総合力が発揮できなければ留学生が孤軍奮闘しても勝てないのが駅伝です。

そういう意味では留学生起用の走りとなった山梨学院が上位に定着し、優勝も重ねたわけですが、これは単に留学生頼みではなく、日本人選手の層がかなり厚い、特に在学中に伸びてくると言う見落とされがちな面があるわけで、やはり10人の総合力が無いと勝てないのです。