誰が煉獄へ行くのか
洗礼の清浄潔白な有様でこの世を去る子ども、
最上の愛をあらわした殉教者、
この世において罪の償いを全く果たした、ごく少しの聖人たちを除いては、
人はみな天国の幸福を受ける前に、しばらくの間、その玄関、すなわち煉獄に寄るということは断言できる。
自分の時代の、主な聖人たちを知り、イエズスキリストの特別な恵みによって、
死後におけるそれらの霊魂のありさまについて黙示をこうむった名高い聖女テレジアは言った。
「このたくさんの聖人のうちに、煉獄をとおらずに、まっすぐに天国にいった霊魂は、ただ3つだけしか見なかった」と。
この世において天主を愛することにおいて、いわば、最高点までのぼったと見えるにもかからず、
聖女テレジアは臨終にあたって、自分をとりまいている童貞らに向かって言った。
「わが姉妹たちよ、私が煉獄にいるとき、私を忘れないでください。」と。
この言葉から推測して、
「聖テレジアは煉獄をとおった」とは言われない。
けれども、通るかもしれなかったから、聖女はその準備をして、助けを願ったのであった。
この方法は一番有益であり安心である。
我等も聖女に倣いましょう。
99.9%の可能性
読者諸君、このような次第であるから、あなたも99.9%以上煉獄を通るでしょう、と断言するのは、
あなたがたにとって失礼にあたることではないと思います。
また、それは、ごくわかりやすことです。
お考えなさい。
天国に入るものは、天主さまの義を全く満足させて、清浄潔白になったものでなければなりません。
ところが、この世を去るものに、こういう有様をもっているものはごくまれである。
まず、完全な痛悔、または不完全な痛悔でも悔悛の秘跡をうけるおかげで、大罪の永遠の罰は、なくなったと仮定する。
しかし、残りの有限の罰はこの世で果たす暇がないから煉獄にいって果たさねばならぬ。
小罪をもって死ぬもの、またそれを悔やんでも些細な償いも残らないほどのものは珍しいから、
たいていのものは煉獄で自分たちの霊魂を清めなければならぬ。
聖ヴィタリナは、模範的の婦人であった。
聖女の高い評判を聞いて、ツール市の司教聖グレゴリオはその墓にお参りした。
そのことについて司教は次のように語っている。
「私は、まず聖女に挨拶し、天主さまにお祈りし、のち、墓の底から、
わが掩祝を願う声をきいて、そのとおりにした。
そして、
『あなたは天国の永福をこうむておられますか』
と尋ねると、悲しい声で
『生存中に犯した一つの小罪のため、まだこうむりません』
と答えた。
これを聞いて、私はそばに立っている者に向かっていった。
『子どものときから自分の身を天主さまにささげた、このあわれな童貞、
死後には奇跡を行うほどの完全なものであるにもかかわらず、
ただ一つの小罪のためにまだ天国の永福を受けられないというならば、
あわれむべき罪人であるわれらは、どうであろう。』
イエズス会の名高い司祭、ド=ラ=コロンビエールは、死んだときから、その葬式のときまで煉獄に居た。
イエズスキリストは、このことを御自分で聖女マルガリタ=マリアにお知らせになり、この司祭を「よきしもべ」
と仰せられた。
これによってみれば、
天使たちのうちにも、けがれをごらんになる天主は、人間のうちに、けがれを見られぬわけにはいかぬのである。
ここにおいて、大いに興味ある問題が自然に、あたまにわいてくる。
すなわち、「子どもは煉獄に行くのかどうか」という問題である。
子どもの霊魂
子どもでも、知りつつ不従順、食いしん坊、なまけ、などの小罪を犯す。
また、それを気にしないから、その償いは、果たされていない。
で、もしそのままで死ぬならば煉獄でその償いを果たさなければならない。
紀元195年アフリカのカルタゴに生まれたディノクラトは、頬にできた醜い癌のために7歳で死んだ。
彼の姉、ペルペチュアはそのとき信者として偶像を拝まないので監獄に入れられた。
入り用であるかどうか知らないが、弟の霊魂のために祈った。
数日の後、野獣に食わされて殉教者となるべきこの娘は、夜、突然幻の中に、
弟ディノクラトがたくさんの人とともに、真っ暗闇の所に居るのをみた。
その顔は青ざめ、目は火のように燃え、頬には癌があらわれていた。
弟のそばには、水のいっぱい入った大きな入れ物があった。
けれども、そのふちは非常に高いので、弟はとてもそれに届かないで大変苦しんでいた。
ペルペチュアは、弟の非常に喉が渇いている様子は、煉獄で苦しんでいる、しるしであると悟って、
それを助けるために、一心に祈った。
しばらくたって、彼女はまた、幻のうちに弟を見た。
が、今度はからだ全体が潔白になり、着物は真っ白に、顔は艶と健康で光っていた。
世の親のなかには、5、6、7歳の可愛い子の無邪気さを見て、天使のように、まっすぐに天国にのぼったと思って、
お祈りもしない者がある。
しかし、煉獄に苦しんでいるかもしれないのであるから、そのために祈るのは、
ただに有益なばかりではなく、親の一つのつとめである。
これによって見ると、煉獄に寄る霊魂はすこぶる多い。
聖女テレジアは、こう言っている。
「秋の風で木の葉が落ちるように、たくさんの魂は煉獄に入る。」
いっぽう、臨終の最後の一瞬間に、大いなる罪人が、その生涯のあいだにいくつかの善業を行ったため、
または未来において親類、信者などがそのために祈り苦行をすることを天主が見るため、
その特別の聖寵に照らされて、悔い改めて煉獄にいる。
また、いっぽう善人でも、この世において、世のことから心を離し、死ぬまでに償いを全くはたすのは、できないことではないが、
実際には大変難しい事で、多くの者は煉獄にいる。
わが兄弟よ。
煉獄には、たしかに、たくさんのわれらの親類、友達、同国人、また、キリストにおいて兄弟なるものがある。
われらはそれをたすけるために力を尽くさねばならぬ。
煉獄はどこにあるのか
これについて、公教会は何も定めなかった。
しかし、聖トマスや他の博士たちの説に従えば、煉獄は地球の中心、地獄のそばにあるという。
聖書と教会の礼拝式は、この説をゆるすように見える。
しかし、聖大グレゴリオや聖トマスの説によれば、
ある霊魂は天主を見たてまつらず、火の衣に包まれて、この世において煉獄を果たす。
これは、一つにはこの世にあるもののために、りっぱな教訓となり
一つには死者の苦しみを知ってもらって助けられるためである。
来世における霊魂のありさまは、死者の出現と聖人の見るまぼろしによってさとることができるのである。
聖マラキアの妹
二人の修道女
温泉の下男
めずらしい看護婦
フランスのフランシュ、コンテ州ドール町において、1629年、煉獄のある霊魂は、病気になっている一人の婦人にあらわれて、40日のあいだ、毎日必ず2度ずつ見舞い、忠実なしもべが主人に仕えるようにいろいろの世話をした。病人は感謝にたえないでいた。
「あなたはどなたですか」
「17年前に死んで、おまえにわずかな財産を残した、伯母のレオナルド=コリヌです。
天主さまのおんあわれみと、また、聖母に対する信心のおかげで、助けられました。
イエズスキリストさまは、私が40日間おまえの世話をすることをゆるしてくださった。
もしおまえが、聖母マリアの3つの聖堂に参詣してくれたら、私はこの40日たってのち、煉獄から助けられるのです。」
これを聞いて病人は非常にびっくりし、うろたえた。だまされたのではないかと思って、言った。
「あなたがどうして私の伯母のレオナルドでしょう。
伯母は生存中かんしゃくもちで、ほんとにいやな人でした。
それがどうして今、忍耐づよく、親切、柔和であられるのでしょう。」
「ああ、姪よ、お聞きなさい。
17年間連獄の中にいれば、忍耐、親切などを習うのに十二分です。
今、わたしどもは聖なるものとなって、天主さまの聖心にかなっているから、悪徳を一つももつことができないのです、、、」
借財をのこした貴族
教皇ベネディクト13世は、ある説教のなかに、次の実話をのべた。
財産があり、勢力があった一人の貴族が、たくさんの借財をのこしてこの世を去った。
妻はそれをきいて借財を払うに力を尽くし、ようやくそれを払い終わった。すると、主人が妻にあらわれた。
からだ全体、上から下まで縄でしばられて、叫んで言う。
「私の縄をといてください。
愛によって私の縄をといてください。」
妻が身震いしながら願いどおりにしてやると、主人は感謝して言う。
「お前が私の借金を払い済ますまで、私はこの縄にしばられている宣告を受けたのだった」と。
聖フランシスコ会の福者ステファノは、ある晩、同じ会の一人の死者が、聖堂で唱歌隊の腰掛に座っているのを見て、おどろいてわけを尋ねた。
すると、死者は答えた。
「私は存命中、聖詩をうたうとき、知りながら大いなる不注意と冷淡とに陥っていました。
それを償うためにここにおかれているのです。」
以上の例によって、来世に償いを果たす煉獄は、すべてのもののために同じ場所ではなく、苦罰の種類と天主さまの思し召しとによって、
違うことがわかる。
煉獄に苦しむ時間
ブヌワツ童貞の黙示
17世紀にフランスの東南におり、福者となった、ブヌワツ童貞は、煉獄の霊魂について、天主さまからいろいろの黙示を受けた。そのうちのいくつかをここにあげる。
(1)ある婦人は、難産のおそろしい苦痛のうちに死んだ。その妹は、姉のたすかりについて心配してブヌワツ童貞に尋ねた。すると童貞は
「苦しみのうちに忍耐をあらわしたために天国に行った」と答えた。
(2)ある商人は、目方と寸法を、はかるときすこしごまかしたため、10年間の間煉獄の宣告を受けた。
(3)近所の町で、あまり正しくない生活を送ったある婦人が死んだ。その娘は母のたすかりを心配して、
「天主さまは、おゆるしくださっただろうか」
とブヌワツ童貞に尋ねた。
「臨終にあたって、あなたのお母さんは完全な痛悔をおこしたから助けられた。けれども、10年間煉獄に苦しまなければならない」
と童貞は答えた。
(4)ある寡婦の夫は、4年間連獄に苦しまなければならなかった。
やもめは貧乏で、お祈りを他人にたのむことができないので、絶えず熱心にロザリオをとなえて夫の霊魂を助けた。
(5)ブヌワツ童貞は、ある日、4年前に死んだ人に出会った。
かれは童貞に挨拶し、生存中は悪魔の手から助けてくれ、死後には煉獄から救ってくれたことを感謝し、よいかおりをもっって消え失せた。
(6)聖母に対して大いなる信心をもっていて、毎土曜日、聖母の聖堂へ参拝をしておった近所の男は、聖人のように死んで、
ただ6ヶ月の宣告を受けた。同じ信心と善業をしていたその妻は、7ヶ月煉獄で苦しむ宣告を受けた。
(7)福者の母は、日曜日に子どもの世話の度をすごして、ときどき御ミサに遅れたため、3年間煉獄に苦しむ宣告を受けた。
(8)聖母マリアに対して、深い信心をもっており、貧しい人を助けていたため放蕩にながれて、たすかりの疑わしかったある身分の高いものも、
煉獄においてただ1年苦しんだだけであった。
これによってみると、罪を消すため、ほどこしが非常に力のあることと、聖母マリアを尊敬する罪人は臨終にあたってその保護を受けるということが知られる。
(9)カブ市の司教マリヨン閣下は、最期にあたって、天命に全くやすんぜずにこの世を去ったので、煉獄に一年間いた。
(10)信心深いある婦人は、聴罪司祭に従わなかったので、煉獄に7年間の宣告を受けた。
(11)ある婦人は、いろいろの邪推を償うために煉獄に10年、他のものは不忍耐のため3年いた。
(12)一人の機屋(はたや)は、自分に預けられた糸巻きの数を厳重に帳簿に控えなかったため、非常に苦しんだ。
(13)二人の主人は、子どもをあまりに気ままにさせて、教育を怠ったため、50年間煉獄にいた。
(14)ドミニコ会の一人の修道士は、聖人のような最期をとげて、ただ3日だけ煉獄にいた。
(15)一人の婦人は、虚栄心の償いとして、6ヶ月間いた。
(16)一人の司祭は、いろいろの無駄な心配のため7ヶ月間いた。
(17)ある婦人は、不忍耐を償うため9ヶ月間いた。
(18)あわれな貧乏人は、最後の病気のとき天命によく安んじたので、ただ一瞬間だけ煉獄にいた。
(19)ある高位の人は、30年間正しくない生活を送ったのち、司祭をよんだが間に合わなかったので、臨終の秘跡を受けられなかった。
しかし、臨終のとき罪を非常に悔やんで世を去った。そして、煉獄に500年間苦しむ宣告を受けた。
あまり危険であるから真似のできない、しかし感ずべきこの例は、われらにとって大いなるなぐさめとなる。すなわち大いなる罪人のたすかりについて、天主さまの限りなき慈悲を失望してはならないのである。
こういう人が煉獄にいった
1896年(明治29年)ベルギーのテルモンズ町でパウロ修道士は、高徳をもって死んだ。彼の伝はまことなる、しかし、不思議な出来事で飾られている。そのうち、煉獄にかかわる数点を次に記す。
(1)1894年、テルモンズ町であるものはおそろしい事変の犠牲者となって死んだ。パウロ修道士はかれについて言った。
「この人は無宗教で、一度も聖堂へ来たことがなかった。が、死の一瞬間に、一生涯の罪の償いとして自分の生命を天主に捧げたから、地獄から助けられ、煉獄に入れられた。」
(2)ウレルという村の一人の婦人が、パウロ修道士のところに来て、訴えた。それは、ある忘我の状態になった人で、少し前に死んだある人の父のことだった。彼は煉獄にいるといった。しかし、かれはごく熱心な信者であり、天主の御摂理に全くまかせて死んだのだから、まだ煉獄に苦しむとは思われないというのであった。
パウロ修道士は、やさしく答えた。
「なぜあなたは、それを信じませんか。なるほど、あなたの父はよい人であった。しかし、あなたのいわれるように、そんなに天主さまの御摂理に、まったくまかせたということができようか。とにかく、あまり心配しないでもよろしい。あなたの父は煉獄で、苦しんでいるとは断言できない。多くの霊魂は、少しも苦しまず、ただ天国だけを待っている。また、他のたくさんの霊魂は、聖堂で御聖体の前に礼拝している。そのほかには、償いはないのである。」
(3)ある無宗教新聞を読んでいた者が死んだ。その妻は、それを読まなかったが、あいかわらず、それをとっていて、しばらくして死んだ。パウロ修道士の言によれば、この婦人は、ただその家に無宗教の新聞を入れるのを許したがため、ながく煉獄にいなければならなかった。
(4)ある婦人が、苦しい、長い病気で死んだ。その娘は、パウロ修道士に尋ねた。
「わたしの母は、あつい信仰をもって、あのような、苦しみをたえしのんだから、まっすぐ天国に行ったでしょうか。」
「あなたの母は、自分の子を甘やかさなかったならば天国におらえるに、そうしなかったから、今煉獄に苦しんでおります。お祈りなさい。」
(5)アンベル町の一人の娘は、ちょっと前に死んだ自分の兄のためにお祈りを願った。
パウロ修道士は言った。
「あなたの兄さんのためによく祈りましょう。この土曜日に煉獄から助けられます。聖母のおたよりによれば、毎土曜日に、ご自分で煉獄においでになります。」
「神父さま、マリアさまはご自分であなたにそうおっしゃったのですか。」
「そうです。マリアさまは、ご自分の祝日ごとに、煉獄においでになり、たくさんの霊魂をたすけ、また、ほかのものを、おなぐさめになるのです。」
二人の修道士
煉獄における苦しみの階級