満月に聴く音楽

宮本隆の音楽活動(エレクトリックベース、時弦プロダクションなど)及び、新譜批評のサイト

LOCO DICE 『7 DUNHAM PLACE』

2008-06-10 | 新規投稿

以前、sunshine jonesを聴いていた時、部屋に入ってきた4才の娘が踊り出して止まらなくなった。ミニマルビートとは幼児をも狂わす中毒性があるという事か。まさか。

90年代のレイブ以降、ビート中毒患者は世界に拡散し、それはいわゆる‘音楽ファン’とは別の階層を生んでいる。そのビート中毒症状の‘音楽’への影響、侵食も顕著であり、リスニング環境や音楽語法、流通などあらゆる領域に変容をもたらしているだろう。
レイブが言葉を持たない事にその要因があると思われるが、それは嘗てのロックとの対照によって明らかだ。言葉を持つロックはどこまでいっても、形而上/反形而上の領域に固定され、ロックのメンタリティはどこまでもアゲインスト(反抗)であっただろう。そこには明確な反抗意識や思想、コンセプトがあった。しかし、レイブはそうではない。その音の無思想性はビートによる直接快楽性という言うなればウィルスであり、その力でいとも簡単に人を‘脱力’させる。それはアゲインストではなく、いわばナチュラルアウトであろうか。特別な思想やコンセプトもなく、ビートの快楽性によって見事にアウトする危険性。それは社会性を喪失した若者を量産しかねない事態を生む。クリミナルジャスティスというレイブ禁止法はイギリス政府がドラッグやアル中の未然防止を目的にしたものではなく、ビート中毒者増産という国家的危機に対しての行使だった。それは経済を考慮に入れた生産性の衰退への対処であった筈だ。その意味で初期レイブとはロックよりもはるかに大きな反社会性を持つ(しかも無思想的に)新種の病気であっただろう。だから国家は警戒し、これを管理する方向に向かった。

クラブムーブメントが屋外に拡大した背景に、ビート快楽の伝播があった。90年頃のクラブは小さなハコが多かったと記憶するが、入りきれない者は、外に漏れるキックの音で路上で踊っていた。キックビート以外の音は外部には聞こえることはないが、もはや体を揺らす為にはビート音だけで足りたのだ。あの時、ビートのメロディをトータルで感じながらあくまでも‘音楽’で踊るという古い様式が消え去る実感がした。‘音楽’が‘音’になったのだろう。

スミス&マイティがだいぶ前、「リズムマシンの‘チッ’というハイハットの音が大好きだ」とかそんな発言をしていた。(多分、記憶違いでなければ)‘チッ’という無機質な音に深く感じ入る感性。そんな音の装飾性を非可逆的にカットしていくシンプリファイズの果てに、クリック/ミニマルという様式があるのか。ロコダイスはドイツで活動するチュニジア出身のDJ。その装飾を剥ぎ取る感覚、研ぎ澄まされた感性に鋭利なビート感が増す。同列に並び称されるリッチーホウテンやリカルドヴィボラスが‘ディスコ’にきこえる位、そのクール感は際立っているだろう。それは優美さをも醸し出す。
もはや嘗てのサンシャインジョーンズのようなラブ&ピース思想も不要。セカンドサマーオブラブも過ぎ去った。今、ビートという中毒性物質だけが、普遍性を獲得しながら芸術性という歴史主義さえも侵食し、あらたなスタンダードを作ろうとしている。ロコダイスのビート快楽に偽りはない。

2008.6.10

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