
財団康楽寺 西武発展(コクド、西武鉄道、プリンス・ホテル)の資金源になったのが、財団 康楽寺である。
日本レミントンランド再考(3)父は自分の住所を鎌倉雪の下から、東京都港区芝三田豊岡町13番地に住所を移し、日本レミントン・ランド株式会社に代表取締役として会社を立ち上げている。この港区芝豊岡町とは中島機械株式会社の所在地で、昭和20年6月12日に日本タイプと合併している。中島機械の代表取締役も父であった。中島機械は当時は日本での唯一のオフセット印刷機の製造会社で、日本での活字文化の元である印刷会社を創立に関与している。大日本印刷や図書印刷等の大印刷会社を系列下に置いていた。資本的には西武鉄道の大株主東京殖産や、住友生命の元の会社日の出生命の役員であった下郷一族や、日の出生命を住友生命に合併させた当時の福島社長も中島機械株式会社の取締役であった。福島氏は三井の再興の祖とされている中上川彦次郎氏の縁戚であり、従って三井、住友等の資本がその背景にあった。従って日本レミントン・ランド株式会社の立ち上げには何の資金的問題は無かったのである。日本レミントン・ランドの加納久朗氏が父を共に代表取締役に就任しており、同氏は当時の吉田茂氏の身内であり、横浜正銀のロンドン支店長等をしおており、戦前から親米はであった。特にレミントン・ランドの大株主であるチェス・マンハッタン銀行の所有者ロック・フエラー氏とは親しく、日本レミントン・ランドの社長としては申し分のない人物と云うことが出来る。しかし父の死後は延命順作が社長として入り込み、富士銀行をメインとした頃より会社は迷走する事となる。日本レミントン・ランドは当然三井物産が後で参入することは分かっていたが、当然三井銀行系がメインとならざるを得ない。しかし延命順作らは富士銀行をメインとしたのである。ここに三井物産との話会いが旨く行かなくなった原因がある。柳田専務の馬鹿息子云々はたいした問題ではなかった。私を父の後継人とすれば全て問題が解決したのである。 ブログの写真は中上川彦次郎の写真である。