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書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

天才ではなければ社会的責任を放棄してよいわけではない。

2013年09月03日 17時10分11秒 | 意識論関連
○飯田泰之。

 飯田は朝の情報番組で偉そうに講釈たれてるけど、こいつは公然と「自分や多くの人は社会全体の安全性や持続可能性を考えられる程の天才ではないから、自分の目先の効用だけ追求しておいたら、結果的に社会全体の効用が得られたら良いな。」などというトンデモない無責任なことを論じていた男である。

 「自分は天才ではない。」ことを根拠に、社会全体の安全性や持続可能性を考えなくても良いことには全くならない。

 東電原発安全担当者が、「自分は天才ではない。」ことを理由に、自律的に社会安全性を優先しなかったことを正当化出来るであろうか。

 こんな話は、糞チンピラが無責任行動を採る言い逃れに「俺って、バカだからさ~。」などと言うのと同じレベルであり、論外である。

 どんなに経済学の知識が豊富であっても、単に「知っている。」だけで自律的には何も「考え」ないのであれば、経済の本質的問題点を指摘することは出来ず、経済学者としての社会的役割を全く果たせないのは当然である。

 飯田に限らず、経済学者の多くというのも、「目先の効用。」の追求ばかりを論じており、これもまたバカ大衆の目先の欲求を満たすだけの大衆迎合に他ならない。こういった大衆迎合というのは、哲学者の多くが目先の気分感情を満足させ、人々を思考停止に陥れているのと同じ文科系オカルト大衆観念を蔓延させている原因でもある。

 「自分は頭が悪いから」とか、「自分は天才ではない」ことを根拠に、社会的責任判断を放棄して良いなどという理屈を鵜呑みにして良い理由もない。飯田の言っていることを無批判に鵜呑みにしているテレビ朝日の編成局員や視聴者も無責任であることにおいて同罪である。

 こういった論理的根拠のない文科系オカルト大衆観念に基づいた無責任性こそが、最も重要な安全性や持続可能性といったものを社会から奪うのである。

 「自分は天才ではないから、社会的責任は負わない。」というのは、謙虚なのではなく卑屈傲慢無責任に過ぎず。占い師が「ズバリ言うわよ、だけど占い師の言うことなんか真に受けるんじゃないわよ。」などと言っているのと何ら変わりはない。

 経済学者が率先して社会的責任を放棄していれば、原発が暴走しようと高速バスが壁に突っ込もうとも文句を言えた義理ではない。








○松沢哲郎。

 京都大学の松沢哲郎というのは、「チンパンジーの行動習性から、人間としての社会性を立証できるかも知れない。」などという論理的根拠の全くない大嘘をマスコミに垂れ流したオカルト野郎である。

 人間としての社会性とは、本能習性に流されることなく自律的に社会的責任判断を行うことであって、先天的本能習性の「結果」をどんなに陳列枚挙しても構造原理的に立証不可能であることは始めから自明である。

 こうしたオカルト観念に気付かず、京都大学教授という権威性を鵜呑みにしているマスコミもまた無責任な共犯者であり。ましてや放送大学で未だに松沢の講義を垂れ流しているというのは社会安全性に対する反逆行為である。

 松沢は、その場限りに話をコロコロ変え続け、「想像するから、人間性ではないか。」などという言い逃れをしているが。想像力だけなら振り込め詐欺がカモを騙す時にも発揮する能力であり、被害者が騙される原因も想像力であり、想像力を短絡的に人間性の予測にするのは間違いであり、稚拙で無責任なその場限りの言い逃れ/取り繕いに過ぎない。

 人間としての社会的責任判断能力と、生物学上の本能的な社会形成習性が全く異なるものであることに対し、「本能的な行動習性から、人間としての社会性が立証できるかも知れない。」などと言い出した時点で、従来の生物学の観念を温存することで、現状の体制維持を目的としたその場しのぎの言い逃れ/取り繕いに過ぎず、科学としての論理検証性を蔑ろにした極めて悪質な撹乱行為である。

 後になってから、その場限りに「想像力があるから人間性かも知れない。」などという稚拙な言い逃れでごまかそうとするばかりであり。これは何ら「人間性を伴った本質的社会性」についての検証性も、論理的根拠も何も持たないことの顕れである。

 裁判であれば、その場限りにのらりくらりと証言を変えれば信用に値しないのは当然であるが。どういうわけか学術権威性においては、その場限りの言い逃れ/取り繕いが正当化されてしまい、学術権威としての社会的役割を全く果たしていない。

 放送大学というのは、「技術者倫理」の講義においても、「元気が出る、勇気がわく。」などという観念論を持ち出しており。組織として無責任で他人の倫理を云々述べるにも価しない。

 「元気」だの「勇気」だのといった気分感情で社会安全性を論ずることなど、構造原理的に支離滅裂であることは明白である。むしろ気分感情こそが社会安全性を脅かす最大の原因であり、論理的根拠のない観念で技術者倫理を説こうとするのは支離滅裂無責任というものである。

 放送大学だの国立大学が、こうした論理的根拠のない無責任な観念論を鵜呑みにしているからこそ、地下鉄に毒ガスが撒き散らされたり、原発の危険性が放置されたりするのである。

 教育というのは、その場限りの学力成績だけを向上させておけば良いという短絡的でバカげた観念を振り回しておいて良いようなものではなく。社会全体の安全性や持続可能性というものを、自律積極的配慮する人間性を養うべき場所でなくてはならず。当然教員達には自律的な社会的責任がなくてはならない。

 教育としての社会的役割を放棄しておいて、学力だの進学就職率ばかりを追求することは、社会を破綻に導く無責任な破壊行為の源である。





Ende;

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